吸血姫のまったりカフェ日誌 ― 一口の幸福をどうぞ ―

桃神かぐら

第1話 最初の一口

 夜の匂いは、焼きたてのパンほど分かりやすくはない。

 湿った石畳、遠い潮、雨上がりの鉄、そして街角に咲く見知らぬ花。混ざり合って、うすく甘い。

 その真ん中に、わたしの小さな灯りがある。


 カラン――。


 扉につけた真鍮のベルが、猫のあくびみたいにひとつ鳴く。

 ランプの火は低く、カウンターの上で紅茶の香りが静かに立ちのぼっている。店の名は〈ノクターン〉。夕暮れから夜明け前までだけ開く、小さなカフェ。店主はわたし――吸血姫のアリア。


「いらっしゃいませ。おひとりですか?」


 入ってきた青年は、雨に濡れたみたいに疲れていた。けれど外は降っていない。頬に色がなく、肩の線が少しだけへこんでいる。

 目はやさしい。疲れている人の目は、ときどき透明で、きれいだ。


「……やってるん、ですね、こんな時間に。助かりました」


「夜は、だいたい起きていますから」


 わたしは笑って、窓際ではなくカウンターの席をすすめる。夜初めての客は、カウンターがいい。湯の音や、茶葉の落ちる音が、呼吸を整えてくれる。


「甘いものはお好き?」


「好きです。けど、今は……あまり入らないかも」


「じゃあ、香りでお腹を満たしましょう。ディンブラを少し濃いめに。ミルクはあとで」


 ケトルの湯が小さくさざめく。茶葉が踊り、ガラスのポットに琥珀色がひろがる。

 青年は両手を膝の上で組み、指先を見つめていた。

 名前を訊くのは、吸血と同じくらい、相手の許しがいる。だから初めてのお客さんには、まずわたしから名乗る。


「店主のアリアです。声は眠そうですが、眠ってはいません」


 青年は、少しだけ笑ってくれた。


「僕は……ユウトっていいます。はじめまして、アリアさん」


「はじめまして、ユウトさん」


 カップに紅茶を注いで、小皿にナイフと砂糖壺を添える。ミルクは銀のピッチャーで。

 指先が震えているのが見えた。寒さの震えではない。心が歩き疲れて、足元を忘れた人の震えだ。


「この香りだけでも、だいぶ……落ち着きますね」


「お茶は呼吸みたいなものです。吸って、吐いて、残ったものが温かいなら、それでいい」


 ユウトは、ひと口だけ飲んで、目を伏せた。

 紅茶は言葉が苦手な人の代わりに、ちゃんと挨拶をしてくれる。「こんばんは」とか、「よく来たね」とか。わたしには、そう聞こえる。


「――それで」


 ユウトが、カップの縁に視線を落としたまま、言いにくそうに口をひらく。


「ここが……噂の、“吸ってくれる”お店、ですか」


 ランプの火が、彼のまつげの影を長くする。

 わたしは頷いた。


「ええ。吸います。けれど、噛みつく前に、いつもふたつだけお訊きします」


「ふたつ?」


「一つ目。今夜、あなたは本当にそれを望みますか? ――“吸われたい”は、“話を聴いてほしい”の別の言い方のことが多いから」


 ユウトは、息を呑むみたいに肩を上げた。

 少し黙って、それから、うなずく。


「望みます。たぶん、今夜は特に」


「二つ目。噛む場所を、あなた自身に選んでほしいんです。手首でも、肩でも、鎖骨の上でも。わたしは勝手に決めません」


「どうして、ですか?」


「そこが、あなたにとって“心にいちばん近いところ”だから。どこがいちばん近いかは、人によって違うでしょう?」


 わたしは白い布を広げ、消毒した銀のトレイに、小さなガーゼと細いリボンをのせる。

 儀式みたいに見えるけれど、儀式ではない。ただの、ていねい。

 “噛む”という行為は、暴力の手前とやさしさの奥に同時に立つ。だからこそ、ゆっくり、相手の速度で。


 ユウトはしばらく迷って、左の手首にそっと指を置いた。

 脈が、静かにそこにいた。


「ここで」


「いい選択です。痛くしません」


「……本当に、噛むんですね」


「ええ。牙には、血の温度や、脈の拍と一緒に、言葉にならなかった“思い”が乗ってくるから。ストローでは受け取れないものがあるでしょう?」


 ユウトは、少し笑う。

 わたしも微笑み返して、銀のピンを手首の脇に挟んだ。肌が少し冷たくなり、彼の呼吸がその温度に追いつくのを待つ。


「吸う前に、確認を。ユウトさん。あなたは、今、わたしに“どうぞ”と言えますか?」


 彼は目を閉じ、短く、しかしはっきりと言う。


「どうぞ」


「ありがとう」


 それだけでいい。

 紙きれも印もいらない。夜には夜の約束があって、合図は言葉ではなく、呼吸のほうにある。


 ――噛む。


 牙が皮膚を割るとき、音はほとんどしない。

 わたしの耳に届くのは、もっと内側の音――脈の鼓動、皮膚のしたでほどけていく緊張、体温の揺れ。

 血が舌に触れると、まず、湿った紙のような淡い苦味がきた。残業の味。机の角でついた小さな青痣の味。

 次に、柑橘の皮を擦ったときの香り――諦めと、少しだけ、軽くなりたいという願い。

 そして、ほんの欠片ほどの甘さ。誰かの笑顔の、残り香。


 数滴で十分だ。喉を通す量は、とても少ない。

 わたしが欲しいのは、血液ではなく、そこに乗っている“今夜のユウト”。

 だから、長くは吸わない。長いほど、味は鈍くなる。


 指先がわずかに緩むのを感じて、牙を抜く。

 すぐにガーゼをあてて、細いリボンで軽く結ぶ。血の匂いが部屋を満たさないよう、窓を少しだけ開ける。夜風が紅茶の湯気を撫でていく。


「――おわり。お疲れさまでした」


 ユウトは大きく息を吐いた。息が体に戻ってくると、人は少しだけ重く見える。地面に、ちゃんと立つ重さだ。


「痛く、なかったです。いや、少し……怖かったけど、でも……」


「怖さは悪くありません。怖さがあると、約束が光りますから」


「味は、どうでした?」


 こう訊かれるのは好きだ。

 わたしは言葉を選ぶ。味をそのまま言い当てるのは、心に土足で踏み込むのと似ているから。


「最初は紙の味。仕事の書類の束。角の丸い紙。次に、オレンジの皮を擦ったみたいな匂い。最後に、白い砂糖を指でつまんだみたいな甘さ」


 ユウトは目を見開き、それから、笑った。今度はさっきよりもちゃんと笑った。


「……当たってます。今日は、上司に提出した企画がぜんぶ差し戻しで。

 それから、帰りに、商店街でちょっとだけいいことがあって」


「いいこと?」


「子どもが落とした折り紙を拾って渡したら、妙に感謝されちゃって。

 なんか、救われたのは僕のほうで……」


「だから最後が甘かったのね。良い夜です」


 わたしはミルクを注いで、紅茶の色をやわらかくする。ミルクは、疲れの角を丸くする。砂糖は、明日を信じる練習みたいなものだ。

 ユウトは両手でカップを持ち、そっと唇をつけた。締め切り明けの冬の朝みたいに、ほっとした顔になる。


「……どうして、噛むんですか。さっきも説明してくれたけど、まだ、少し不思議で」


「たぶん、あなたの“いちばん近いところ”に触れるため。

 皮膚には、心がよく出ます。寒ければ鳥肌が立つし、緊張すれば汗をかく。

 牙は、そこに少しだけ窓を作る。血は、その窓越しに、こちらを見る。

 わたしは、その視線を、ほんのひと口、受け取るだけです」


「……許可とか、要らないんですね」


「ええ。あなたが『どうぞ』と言ったから、それで充分。

 わたしたちが信じたいと思うものは、案外、それだけで動きます。

 うちの店では、紙は紅茶の下に敷くコースターにしかなりません」


 カラン、とまたベル。

 常連の老紳士が帽子を掲げて入ってきた。わたしは軽く会釈で迎える。

 ユウトはその気配に肩の力を抜いて、少し照れたように笑った。


「また、来てもいいですか」


「もちろん。毎日来て、毎日吸わないことだってできます。

 吸わない夜は、吸わないなりに、お茶の味が深くなります」


「吸わない夜……それ、いいですね」


「今夜は吸いました。明日は、紅茶だけにしてみるのも、いい。

 血の味は、あなたの“今”の味。紅茶の味は、あなたの“余白”の味。

 余白が増えると、ひとはだいたい、よく眠れます」


 ユウトは料金を置いて、立ち上がる。

 扉の前で振り返り、まじめな顔で頭を下げた。


「ありがとうございました。……生きて帰れそうです」


「生きて出て、眠って、起きて。明日は、今日と同じように来ても、違う味になりますよ」


 彼が外へ出ると、夜の匂いが少し変わった。

 雨上がりの鉄の匂いが薄れ、代わりに、どこかで焼かれているパンの香りが、ほんの少しだけ混ざる。

 誰かが一歩、明日に近づくと、街の空気はほんの少し、甘くなるのだと、わたしはときどき思う。


 老紳士の注文は、いつも決まっている。

 ストレートのアッサムと、(吸わない)――話を少し。

 彼は、昔の恋の話を何度もする。話は毎回、少しずつ違う。

 その「少しずつ」を聴くのが、わたしの好きな仕事だ。

 吸う夜も、吸わない夜も、店は同じ灯りで、同じ湯気をあげる。


 閉店前、静かになった店内で、わたしは自分のための一杯を淹れる。

 茶葉はキームン。香りが少しだけ煙を含んでいて、夜明け前に合う。

 窓の外で猫が伸びをして、そのまま丸くなる。

 わたしはカップを両手で囲み、ふうと息を吐く。


「血は、不思議。苦いのに、やさしい。

 ――やさしいのに、ちゃんと生きてる」


 牙の先に残る、ほんのわずかな温度が消える。

 夜が窓を叩く前に、わたしは灯りをひとつだけ落とす。

 今日、わたしはひと口ぶん、誰かの“今”をもらった。

 お返しに、湯気と、灯りと、席を用意しておく。

 それが〈ノクターン〉の、ささやかな商売。


 明日も、夜は来る。

 そしてまた、誰かの“最初の一口”が、ここに生まれる。

 それをやわらかく迎えるために、わたしは、今夜も眠らない練習をする。


 カップの底に残った最後の一滴を、そっと舌に移して、わたしは目を閉じた。

 夜明け前の風は、紅茶と同じくらい、やさしい。

 やさしさは、噛むより先に、いつもそこにある。


 ――おやすみ、世界。

 ――いらっしゃいませ、明日。

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