『君が続きを描くなら』
pacifian
第1話『誰も知らない昨日』
朝の光は、まだ目を覚ましきれていない町を、やさしく撫でていた。
白い壁のパン屋のガラスに、薄い雲がゆっくり流れて映る。
店先の黒板には、丸いチョークの字で「本日のおすすめ」と書かれている。風が一度だけ通り過ぎ、黒板の角に挟まれたドライフラワーが小さく鳴った。
セイは、肩紐のゆるい鞄を背負い直して、店の前に立つ。
腹は空いていないのに、焼き上がったばかりの甘い匂いが、胸の奥の何かをやわらかく押した。
ガラス越しに、焼き色の薄いロールパンが並ぶ。
右端だけ、ほんの少し傾いている。規則の外れに目が留まるのは、癖だ。
扉を押すと、小鈴がちりと鳴って、暖かい空気が頬に触れた。棚の向こうから、低く澄んだ声が届く。
「おはようございます。今日は風が気持ちいいですね」
反射のように「そうだね」と答えようとして、セイは一瞬、言葉を飲み込む。「そうだね」という同意は舌の先にあったが、なぜ自分がそう感じたのか、昨日のような記憶に手を伸ばすと、指が空を掻いた。
昨日、ここで何を見たのだろう。そもそも、昨日はどこにいたのだろう。目を閉じれば、光だけがある。輪郭がない。
「……気持ちいい、ね」
それだけ言って、棚のパンに視線を落とす。
店主は奥で釜の扉を閉めていて、返事はない。
代わりに、風がまた入り口から滑り込み、鈴がもう一度、小さく鳴った。
ちり、と鳴った音の後ろに、言葉みたいな気配が残る。
――よくできました。
誰の声だろう。褒められるようなことを、した覚えはない。セイは苦笑して、右端の傾いたロールパンをトレイにのせた。
会計を済ませると、茶色の紙袋が温もりを伝える。袋の口を指でつまんで店を出ると、朝の通りが、さっきよりも鮮やかに見えた。
通りの先に、小さな橋がある。水は浅く、底の石が波紋の向こうに数えられる。
セイは橋の欄干に肘を置いて、紙袋からパンを一つ取り出した。
ひと口ちぎると、まだ柔らかい。ふくらんだ白い生地の匂いが、川の匂いと交じる。
橋の下から、猫が一匹、姿を現した。
灰色のしっぽが石に触れて、濡れた暗い線を残す。セイはパンの欠片を欄干から落とさないように、そっと手を伸ばした。
「灰のしっぽ」
思いついた名を口にした途端、猫はこちらを振り向いた。名を持ったものは、こちらを見る。
そんな気がした。猫はパンに興味を示さず、川面に映る光を爪で追い、やがてまた石の陰に消える。名だけが、水面に薄く残った。
道に名前をつけるのが好きだ。地図に載っていない場所こそ、名を欲しがっている気がする。
セイは橋の手前の坂を「眠そうな坂」と呼ぶことにした。
朝の光にまぶたを細めるように、家々が立ち並んでいるからだ。
坂の上から、誰かが降りてくる。
白い衣の裾が、風をすべらせる。光をはね返すような生地なのに、眩しさはなく、むしろ冷たい水のようだった。
少女は坂の途中で立ち止まり、セイのいる橋を見た。目が合った瞬間、セイはなぜか、視線を逸らしたくなる。
彼女の視線には、躊躇がない。まるで、最初から結論を知っているみたいに、迷いが流れていない。
「おはよう」
少女は、余白を挟まずに言った。挨拶の音が、朝の空気にぴたりとはまる。遅れて、川風が髪を揺らす。セイは紙袋を握り直した。
「……おはよう」
言ってから、また昨日を探した。昨日、自分は誰かと挨拶を交わしただろうか。頭の中の引き出しを開けても、薄い匂いの紙が一枚あるだけで、そこには何も書かれていない。空白は、少し寒い。
少女は欄干の反対側に立って、川を見下ろした。反射の光が、長いまつげに細い線を作る。
「ここ、好きなの。音が良いから」
「音?」
「風の。ほら」
少女は目を閉じる。風が、橋の側面をなぞって、低く鳴った。
セイも目を閉じてみる。鈴の音の名残りと、川の小石が触れ合うかすかな音と、それから――
――進んでください。
声、のような気配。目を開けると、少女がこちらを見ていた。
「パンの匂いがする。おいしそう」
セイは紙袋を差し出した。少女は一瞬だけためらうそぶりを見せ、すぐに微笑む。ためらいは、ためらいの形をとっただけで、重みがなかった。
「ありがとう」
彼女はパンをひと口、上手にちぎって食べた。噛む回数まで整っているように見えるのは、気のせいだろうか。
「名前は?」
「セイ」
「セイ。いい名前」
迷いなく褒められると、むしろ胸の奥がざらりとした。
いい名前かどうかは、決められていない。名前は、呼ばれ方と、名づけられたときの手の温度で、少しずつ育つものだと、どこかで思っている。
「君は?」
「ユナ」
少女は言った。水の音に混じるような声。ユナ――その音は、橋の下の暗がりにも、朝日の白にも似合ってしまう。
「これからどこへ行くの?」
「……地図には、まだない場所」
口をついて出た言葉は、自分のもののようで、そうでない気もした。ユナはすぐに頷く。
「いいね。遠回りは、よく晴れるよ」
その言い回しは少し不思議だった。遠回りは、曇りの道や、日陰の匂いを連れて来そうなものなのに。
ユナの言葉は、整っている。語尾にひっかかりがない。そこが、少し怖い。
橋を渡ると、三本の道が分かれている。右は市場へ、真ん中は丘へ、左は川沿いの細道だ。セイは真ん中の丘の道を選ぶつもりだった。
少し高いところから町を見渡せば、名前の要る場所が一度に見つかる、気がしたからだ。
――左へ。
風が草を撫でて、囁いた。囁きは、ひとの声に似ているが、誰でもない。セイは立ち止まった。
昨日のない頭にも、いま選ぶべき道があって、選ばなかった道がある。どちらの道を行っても、歩幅は同じはずだ。
「左へ行く?」
ユナは問いの形をして、確認をしない。セイは、自分の足のつま先が、すでに左を向いていることに気づいた。足は、自分のものだ。そうだろうか。
「うん。川に名前をつけたい」
口に出してから、心が少し温かくなった。
「名前をつけたい」という理由は、手で触れることのできる重さを持っている。ユナは「いいね」と、また迷いなく言う。
細い道は、川と並走して続く。木の枝が重なり、時々、光の細片が落ちる。
セイは、その光を「欠けた日溜まり」と呼ぶことにした。完全な円ではない光は、座るのにちょうどいい。
道の脇に、古い標識が立っている。字は薄れて、読めない。読めないからこそ、名づける余地がある。
セイは指先で、標識の冷たさを確かめた。そこに書かれていたはずの言葉たちは、どんな天気の日に、どんな人に読まれただろう。
昨日のない自分でも、他人の昨日を想像することはできるらしい。
「ねぇ、セイ。昨日、ここを歩いた?」
ユナが、歩幅を合わせたまま尋ねる。問いの出どころは、どこか遠くから届いたみたいに軽い。
「覚えていない。昨日のこと」
ユナは、少しだけ首を傾げて、すぐに頷いた。理解は早い。早すぎる理解は、風みたいに肌の上で消えていく。
「じゃあ、今日、初めて歩く。初めてって、いいよね」
――よくできました。
また、風の中に、その言い方が混じった。褒められるたびに、誰のための正しさなのかを探す。探しても、掌には光の欠片しか残らない。
川の曲がり角に、小さな祠があった。木の屋根は苔むし、賽銭箱の上で、薄い蜘蛛の巣が揺れる。
セイは祠の前に立つと、胸の中で、まだ持たない祈りの形を探した。祈りには、名が要る。何に向けて、何を願うのか。言葉に借りた形は、いつだって頼りない。
「この川、なんて呼ぶ?」
ユナが問う。セイは息を吸って、川面に映る空を見た。薄い雲がゆっくり流れていく。
水は、その形の通りにしか流れないように見えるけれど、石の位置ひとつで、音も色も変わってしまう。
「寄り道川」
口にした瞬間、川がこちらを見た気がした。流れの表面が、一度だけ逆光をはね返す。
ユナは嬉しそうに笑った。笑顔は、やっぱり整っている。整っている笑顔は、美しいけれど、どこか遠い。
「寄り道川、いいね。遠回りは、よく晴れる」
「その言い方、さっきもした」
「そうだった?」
ユナは小さく首をかしげて、またすぐに歩き出した。返事に“間”がない。
言葉は水ではなく、石のほうに似ている。形が最初から決まっていて、そこに水が従っている。
祠を過ぎたところで、道は再び分かれた。右は森へ、左は畑へ。森の奥からは鳥の声がする。畑のほうは、風が広く走っている。
セイは、息をついた。選ぶという行為は、思ったよりも静かで、思ったよりも騒がしい。
昨日を持たない自分が、今日、何を選ぶかで、明日の形が少しだけ変わるのだとしたら――
「森に行こう」
ユナが言うより少し早く、セイはそう言った。
言い終えた自分の声が、胸のどこかに確かな重さを残した。ユナは「うん」と微笑む。
その「うん」は、やっぱり滑らかすぎるけれど、いまはそれでいいと思えた。
森の入口で、風がまた囁いた。鈴の音はもう遠いのに、音の形だけが耳の奥に残っている。
――ここから。
言葉の続きを、風は言わなかった。だから、セイは自分で続けた。
「ここから、名前をつけていく」
森の小道に、一歩を置く。土は柔らかく、光はまだ細い。
昨日を知らない足跡が、初めての形で並んでいく。ユナの白い裾が、緑に少しだけ触れる。彼女の歩幅は、ぴたりと揃っている。
寄り道川の音が遠のき、葉と葉が触れる音が近づく。セイは振り返らない。
振り返らない代わりに、いま見えるものひとつひとつに、小さな名を配っていく。
曲がった根っこは「眠る指」、半分折れた枝は「昨日の橋」、陽の粒は「返事の遅い星」。
名前を与えるたび、この世界が少しだけ、こちら側へ傾く。そう感じながら、セイは森の匂いを深く吸い込んだ。
胸の奥に、温かい紙切れが増えていく。そこには、まだ拙い字で、少しずつ言葉が書き込まれていく。
誰も知らない昨日の代わりに、今日を覚えていく。足元の土の柔らかさと、並ぶ歩幅の確かさと、風の囁きの、言いさしのままの余白を。
道は細く、やがて広がる。旅は、いま始まるところだった。風が一度、背中を押して、光が前へ前へと、伸びていった。
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