17
ページを手に入れることがルナとの別れを意味するのだとしても、朝はくる。
「今回はわらわも行くのかえ?」
髪を括っていたルナに上着を投げて渡すと、そんな問いが投げ返された。
「そうだ。外の広場で待っててくれるだけでいい。それくらいの距離なら本に戻ったりしないだろ?」
ラブール商会から帰ってきたときにも、マイルズが宿に入る前からすでに人の姿になっていた。石壁を一枚隔てる程度なら差し支えないだろう。
「どれくらいまでなら離れて大丈夫なのか、正確なところはわらわ自身にもわからぬが……」
「なに、教会文字が読めればいいんだろ? これから行くのはどこだと思う?」
一瞬きょとんとしたルナだが、マイルズが言いたいことがわかると途端に睨んできた。
教会に行くのだから、教会文字が読める人間などそこらじゅうに溢れている。
「ふん。まあそなたがそこまで言うなら、わらわが一肌脱いでやろう」
なにをどう勘違いしたのか嬉しそうに腕組みまでするので、水を差すのもどうかと思ったが、些細な認識のずれを放置すると後々大きな問題になりかねない。
「保身のためだ。ラブール商会はいいとして、グロンスール教会がページをどう思ってるかわからない。宿に戻った途端に、異端だと言って兵に囲まれないとも限らない。ページの現物を手に入れたらすぐにお前に渡すのが一番安全だ」
「わ、わかっておるわ」
まったく誤魔化せていないのは自覚があるらしく、ばつが悪そうに視線を泳がせる。
しばらく無言で見つめていると、ぽつりと言った。
「わらわはてっきり……」
この表情は、つい最近見たことがある。
町に着いてすぐに市場を見て回ったとき、店先の鶏の丸焼きを眺めていたときと同じ顔だ。
あのとき、ルナが本当に欲しかったのは一人で食べきれないほどの食事ではなく、二人でそれを分け合うことだった。
それで、ルナがどんな勘違いをしたのかわかった。
共に旅をする理由がなくなってしまう前に少しでも一緒にいるため、教会へ同行してほしい。
マイルズにそう言ってほしいのだ。
「……」
ため息をつきたくなるのは、それが嫌だから、では決してない。
「朝の鐘が鳴ってすぐは、教会も忙しいだろう。少し回り道していこう」
「! んんっ……」
ぱっ、と顔を上げて、すぐに咳ばらいをしたかと思えば、いかにも面倒くさそうにため息を一つ。
「ま、そなたがどうしてもと言うなら」
「ああ。どうしても」
嬉しがっているのが丸わかりなのだが、いつもこちらの反応で遊んでいるルナを素直に喜ばせるほど、マイルズは心が広くない。
「助かるよ。どうしても市場に寄りたかったんでね――痛!」
「ふん!」
からかわれたとわかったルナが、マイルズに蹴りを入れて部屋から出ていく。
「……そんなに怒らなくてもいいだろ」
蹴られた脚をさすりながら後を追うと、ルナにぶつかりそうになった。廊下に出てすぐのところで待っていてくれたのだ。
「……」
本人は睨んでいるつもりなのだろうが、頭二つ分は低いルナがいくら目に力を入れても迫力に欠ける。どころか、軽く手を伸ばすだけで腕の中に収めることができてしまいそうな近さは、昨夜のことを思い起こさせる。
「市場に行くのであろ」
「あ、ああ……」
返事が遅れてしまったのは怒っているルナに気圧されたのではなく、その冷たい肌の柔らかさを思い出してしまったから。
「ん」
そんなことは露知らず、手を繋いでくる。
宿の狭い廊下なので、二人並べばそれだけで塞がってしまう。案の定、すれ違う宿泊客に迷惑そうな顔をされるが、ルナが手を離さないのでマイルズは大人しく従うしかない。わざとだろう。
「お、おい。せめて外に出てから」
抗議しようと口を開いた瞬間、手を痛いほど握られる。
「わらわが本に戻っては、そなたが困るであろ?」
「はあ?」
なぜ今そんなことを、と言いかけたが、なにかが引っかかった。
マイルズの知る限り、ルナが本に戻ったのは二度。
一度は初めて会った夜、もう一度は、昨日のことだ。
ルナは怒っているのではなく、嫌なことを思い出させるな、と言っているのだ。
市場に行くのはなんのためか。旅装を整えるためであり、それはページを手に入れた後、この町を去るため。
そしてルナは、その話をしたがらない。
今再び、あの窓辺で話をしたときのように本に戻られて困るのは、たしかにマイルズであり、それが嫌ならしっかり手を握っていろ。
ルナのわがままは、実はわがままでさえないということが、とても多い。
「……そういえば朝食がまだだったな」
ちら、と向けてきた目は、やっとわかったか、と言っていた。
宿を出て、教会とは反対の方向へ歩き出すと、見るからにルナの肩から力が抜けたのがわかった。
言いたいことを素直に言えばもっと可愛いのに、と思うのだが、たぶん向こうも同じことを考えている。そういう意味では、似た者同士なのかもしれない
町の中心から遠ざかるように歩いているので、旅人向けに朝からやっている酒場や、昨夜の残りを処分してしまおうという露店もある。パン屋からは焼きたての小麦パンの甘い香りが漂って、とっくに仕事を始めている職人たちの目と鼻を釘付けにしていた。
一日中手を動かす職人は身体が資本、食べるのも仕事のうちだ。
「……麦酒と豚肉」
隣の、食べることにかけては自分の仕事と思っている悪魔も我慢できなくなったらしい。
「胃袋だけは素直なやつだな」
「身体が正直なほうがそなたも嬉しいであろ? わらわ、あれ食べたい」
肉屋の軒先に吊り下げられている腸詰めを指さすので、鍋で茹でてから薄切りにしてパンに挟んだそれを二人前買ってやる。当然だが、全てルナの分だ。
「物を食うときの口だって十分正直だろうが。おい、道にこぼすな。怒られる」
「はぐ……ん、ほれで、そなふぁはいらんのふぁえ?」
「いいよ。お前が食べてるの見てるだけで充分だ」
んぐ、と妙な声を上げて立ち止まるので、喉に詰まらせたのかと振り返ると、ルナはパンの塊を飲み下して、空いた方の手を頬に当ててくねくねしていた。
「可愛いから?」
「馬鹿たれ。見てるだけで胸焼けしてくるんだよ」
舌打ちと共に放たれた蹴りを避けると、二人の間に距離ができる。しかしそれも、繋いだままの手をぐいと引かれて、すぐに埋められた。
行動で示すという意味では、たしかにこいつは口よりも身体のほうが正直かもしれない。
軽食を食べ終わって手が空いたので、マイルズの左腕を抱きかかえるようにして身体を寄せてくる。たぶん食事代を出したことへの礼なのだろうが、不覚にもそれでまあいいかと思ってしまう。こちらが女に慣れていないのをわかってやっているのだからたちが悪い。貧相な身体つきでも、柔らかいところは柔らかいのだ。
そのまま意外に強い力で腕を引っ張られたと思ったら、向かいの露店で今まさに麦酒の樽が開けられたところだった。
つくづく思うのだが、マイルズがルナの色気に惑わされずに済んでいるのは、マイルズの自制心が強いからではなく、ルナの食い気が強すぎるからだろう。
「朝からよくそんなに食べれるな」
「わらわ、今朝はことに空腹での」
いつもだろ、とマイルズが呆れるのも構わず麦酒を注文し、こちらにも差し出してくる。口を付けたところで、ルナが左腕を引いて耳元に口を寄せると、こう言った。
「昨夜はそなたにベッドで意地悪をされて、疲れてしまったでの」
「ぶっ――」
勢いよく吹き出した麦酒が地面にぼたぼたと落ちるが、後の祭りだ。迷惑顔の店主に詫び料も込みで少し多めの金額を払うと、マイルズとルナの顔を交互に見てからやれやれという具合に肩をすくめた。
おおかた、金のかかる貴族の娘にいいように使われている若い商人と思ったのだろうが、それほど間違っていない。なんなら飲み終えたコップを受け取るときの店主の目は「あんたも大変だな」という同情的なものだった。
「んふ。そなたもまだまだ青い」
「お前みたいに性格が捻じ曲がるくらいなら俺はずっとまだまだでいい」
ゆっくり歩いているうちに燃料の店の前を通りがかった。相変わらず薪は法外な値段のままだったが、今日はちらほらと品物を買っていく旅人の姿がある。たぶん、どうしても待てない性質の荷物などを運んでいる隊商だろう。これも旅の不運と割り切って、値引き交渉さえせずにアルジヨン銀貨を出している。彼らの商売の規模からすれば、銀貨の十枚や二十枚の損は誤差の範疇だ。それより荷主を怒らせるほうがはるかに高くつく。
「物価高はもうしばらく収まりそうにないな」
マイルズにとっても他人事ではない。ページを手に入れても即座に本が売れるわけではないので、懐が寂しいのは変わらない。忘れてしまいそうになるが、インク取引で大損をしたばかりなのだ。
ルナの本を換金するなら、少なくとも教会の影響力が弱まる程度には北上しなければならないが、この分だと旅の物資を揃えるのも一苦労だろう。
「っと……」
つい癖で商売のことや旅のあれこれを考えてしまう。ルナが嫌がりそうなのでそれ以上言わなかったのだが、意外にもルナは怒るでも不機嫌になるでもない。
むしろ、「そなたの兄弟子の商会もこの騒ぎに乗じてあれこれ買い付けているのであろ?」と乗ってくる。
驚きつつも、マイルズも答えるしかない。
「そりゃそうだが、譲ってもらえるかどうか……」
日々値上がりしていく物資はどれも金の卵のようなもの。マイルズが欲しいのは卵の中身なのだが、そのためには殻を割らなくてはならない。
「なに、出立が延びればそれだけわらわの本を持ち出すのが遅れるとあらば、融通せぬわけにはいくまい」
少し驚いてルナのほうを見ると、悪魔はマイルズを見なかった。
口よりも態度に出るルナだ。
自分から旅立ちについて触れてきたのは、寄り道をする口実であった朝食が片付いてしまったからだろう。
マイルズはこれ以上回り道をする理由を思いつけないし、遅れれば取引にも支障が出てしまう。
こういうところで律儀なのだから、ずるい。
だから次にルナがしてきた質問は自然、未来に向いていた。
「そなたの旅はどこまで行くのかの」
マイルズは、できるだけなんでもないことのように答える。
「あまり考えたことがなかった。書籍商は縄張りを持たないし」
「それは……ふむ、なぜ?」
「簡単に言えば、稀覯本はどこにあってもおかしくないから、だな」
本、というのは基本的には高価な品だ。
まずもって羊皮紙やインクが安物ではないからで、逆に言うと粗悪な紙やインクで作られた、装丁もされていない書物をわざわざ扱う書籍商は滅多にいない。そんなものは紙代くらいの価値しかないし、大抵は少し文字が読める程度の層に向けた娯楽読み物で、貴重な内容など書いていないからだ。
その点、職人の手できちんと装丁され、質の高い紙やインクで作られた本というのはそれだけで財産になる。
そして、財産になるので、売られて散逸してしまう。
「大きな修道院とかだと専用の書庫があったりしてな。経営が傾いたときには蔵書を売って当座の資金を稼ぐことが多い。すると、書籍商の手を渡ってどこへでも運ばれていく。買うのは好事家や貴族、金持ちの商人とか、高位の聖職者の場合もあるな」
「それは……探し出すにも苦労するのでは?」
「そうだ。同じ本がいつまでも同じ場所にある保証はない。だから、確固たる自分の縄張りを持つよりも、いつでもどこへでも行ける身軽さを維持する方がいい」
もちろんこれは旅商人の理屈なので、大きな都市に自分の店を持つような書籍商はまったく違う論理で商売をする。それに、旅の書籍商であっても顧客が多く固まっている地域があれば自然とそこが商圏になる。稀覯本を買うほど裕福な顧客なら、その知人もやはり裕福な人物が多い。
富と地位のある人間が次に欲しがるものは人からの尊敬と相場が決まっているので、立派な書物を何冊も所有するのはある種の競争の様相を呈することがある。そんな顧客を抱えられたとき、書籍商の羽ペンは巨万の富を生み出す魔法の杖に変わる。
「俺がグロンスールに来ることが多いのも、交易拠点だからというのもあるが、顔馴染みが多いのが理由だ」
「本を探す伝手がある?」
「直接的なものではないが、な。考えてもみろ、どこそこの修道院に貴重な本があるぞ、と知ってたらわざわざ他人に教えると思うか?」
思うか、と問われて、一応は考えを巡らせるルナだが、目をぐるりと回して呆れたようにため息をついた。
「……教えたらわらわの儲けにならぬ」
「だろ。だが、その修道院の院長が代替わりしたとか、その院長の甥が放蕩で有名な貴族だとか、噂話ならみんな大好きだ」
「財産を売りに出すやもしれぬ、か」
そのとおり、と指をさせば、ろくにない胸を得意げに張る。
理解が早いのがルナのいいところだが、おかげで話題がすぐ途切れてしまう。
「お前は?」
人が他人にする質問は大抵、自分が訊かれたいことだったりする。
なので逆にルナに話を振ってみたが、悪魔はゆるく首を振って「わからぬ」とだけ言った。
肩透かしを食らった気分だが、もうすでに足を教会の方へ向けてしまっている。ルナは少しでも一緒に話をしていたいだろうから、もう少し訊いてもいいはず。
「それなら百年前の旅はどんなだったんだ?」
「それこそ本に書いてある。わらわが自由になったら読めばよかろ」
ルナのことだから意地の悪い笑みで言いそうなものなのに、妙に硬い表情のままだ。白い肌も、まるで血の通わない石膏のよう。
端的に言って、どうでもよさそうなのだ。
マイルズが戸惑っているのに気付いて、ルナがようやく笑みを見せる。
「そなたに教えてはわらわが損をするやもしれぬであろ?」
たしかに内容次第では期待したほどの利益が出ないかもしれないので、ルナの言うことはおかしくない。
おかしいのは、まとっている雰囲気のほう。
「読まれて恥ずかしいことが書いてあるんなら素直に認めたらどうだ」
「それでは内容を読まれたわらわはそなたに辱めを受けたと声高に言ってもいいのかえ?」
「絶対にやめろ」
試しに軽い挑発を放ってみると、今度はきっちりやり返してくる。怒っているわけではなさそうなので、マイルズにはますますわからない。
なぜなら、ルナの口調は話を切り上げたがっているものだったからだ。
教会まではもういくらもない。ページを手に入れたルナが晴れて自由の身になれば、その後はマイルズとは別の道を行くことになるだろう。宿に帰って荷物を整理したり、ラブール商会で物資を譲り受けたりして、遅くとも明日、早ければ今日の内には町を発つこともありうる。異端の書をこの町で換金できないのだから、物価の高騰が続くグロンスールに逗留するのは単純に損だ。
二人でゆっくり話せるのは、今が最後かもしれないのに。
にぎやかな通りをそれて、角を曲がる。町の喧騒が背後に遠ざかり、薄暗い、湿った石畳の路地に入った。
なんとなく懐かしさを感じてしまうのは、この路地がルナと出会う前のマイルズの毎日と似ているからかもしれない。
明るい大通りの人生は望めないのだと思っていた。脇道もなく、行く先は一つしかない。遅かれ早かれ、避けられない結末が待っている。
だが、ルナのおかげで一つの商会の長と直接取引をするほどのことができ、しかもそれはほとんど成功しかけている。一年前までは片手で足りるほどのアルジヨン銀貨を儲けるのがやっとだったのに、この次にグロンスールを訪れる頃にはドーレ金貨で何十枚という商人になっている。ルナとの旅が終わってしまうのは残念だが、懐に余裕が出てきたら人を使って探してもいい。目立つ娘だから、見つけるのは難しくないはず。あるいは、もしかしたらこの町を再訪したときにラブール商会の荷揚げ場で再会するかもしれない。
なにもかもが上手くいく。この狭い路地のような人生を抜け出して、表通りを舞台にした書籍商アルフレッド・マイルズの日々が始まる。
それなのに。
「……」
マイルズにとって転機となったルナは黙ったまま歩いている。教会までは、泥酔していたって行ける距離しかない。
それとも、ルナも表には出さないだけで、胸中で色々な思いが渦巻いているだけなのだろうか。きっとそうなのだろう。マイルズの自惚れでなければ、ルナにとってもこの数日は楽しい時間だった。百年ぶりに他人と話し、酒を飲み、笑ったり怒ったりできたはずだ。そして、この取引が終わった暁には晴れて自由の身。どこへでも行けるし、誰とでも話せる。ひょっとすると、意気投合して恋仲になる相手もいるかもしれない。マイルズにとっては少し面白くないが、それはこいつの人生だ。もっとも、そんな相手がいても勘違いやすれ違いから離れ離れになってしまうこともある。
なにせこいつは、口にするより態度で示したがるのだし。
「っ?」
急に立ち止まったマイルズに引っ張られるように、ルナがたたらを踏んだ。
「そなた――」
転びそうになったらしく忌々しげに睨んでくるが、その表情はマイルズの様子を見て困惑に変わった。
マイルズだって、逆の立場なら同じ顔をしただろう。マイルズが抱いた違和感は、それくらい強烈なものだった。
マイルズは、ルナと繋いだ手も解いて思考に没頭する。
ルナは本に封印された悪魔で、本とそのページには人智を超えた力が宿っている?
グロンスール教会はページを手に入れ、図らずも予言の力を見せてしまったために民衆の期待と教会の立場の板挟みになっている?
ページを手に入れて本を完全な状態に戻せばルナは封印から自由になり、本を売って金貨五十枚の儲け?
そして、マイルズの旅の行方は訊くのに、ルナのこれから先はわからない?
「――なにかが」
おかしい。
マイルズの計画が、ではない。
ルナは優しい。わがままなときも高慢なときもあるが、性根では受けた恩を返したがるし、自分が相手の負担になるのは避けたいと思っている。
自分のせいで相手が不利益をこうむるのは嫌だ、という気持ちが強い。それは自分自身のああしたい、こうしたいという感情を抑え込むほどのもの。だから鶏の丸焼きも我慢するし、本当ならその場にいたいはずの商談にもマイルズを一人で行かせることができる。
そうしたほうがよいから、そうする。そうしたほうが相手が喜ぶから、そうする。それは頭ではわかっていても、多くの者ができないことの一つ。
強烈な自制心。
それは大抵、良い方向に作用するが、ときには必要なことさえ口にしないという姿勢にあらわれることもある。
きっと、ルナはずっと前からそうだったのではない。そうなったきっかけがある。
あの、おとぎ話。
ルナは自分の知識を村人に分け与えた。その結果、村人たちは文字を学び、初めは感謝こそすれ、最後にはルナを悪魔と呼び、本の中に閉じ込めた。
だとしたら、ルナが自分の経験からこう考えても、なにもおかしくはないではないか。
すなわち、あまりにも自分の考えや知識を包み隠さず話してしまうと、悪い結果を招くのだ、と。
「……なあ、ルナ」
名前を、呼ぶ。
悪魔は、名前を呼ぶと現れると言われている。
隣に立つルナまで、彼我の距離はわずか半歩。
手を伸ばせば、届く距離。
果たして、悪魔はそこにいた。
「お前、なにか俺の知らないことを知ってるな?」
そのときのルナの顔は、これまでのどんな表情よりも悪魔だった。
「――ふ」
笑ったのだ。
冷たく、暗く、刃のように目を細めて。
ここは、狭い路地。両脇には壁があり、陽の光は差し込まない。
教会の尖塔の黄金色の鐘も、ここからは見えない。
神の目の死角、悪魔の場所。
ルナと出会った当初なら、背筋に冷たいものが走ったかもしれない。
だがマイルズは恐れなかった。
ルナのその笑みは、あの月の光の下で見たそれと寸分違わぬ、寂しそうなものだったのだから。
「気が付かずにいてほしい、と思っておった」
うつむいて表情を隠すのは、マイルズに見られたくないからではなく、自分の感情を直視したくないから。
なぜかといえば、理由はこうだ。
「気付いてほしくなかったのに、気付いてもらえて嬉しい?」
こくん、と首が振られる。
「わらわはこう考えたんじゃ。町に来たばかりのわらわとそなたが思いつく程度のことならば、他の誰かがすでに思いついておってもおかしくなかろう、とな。そしてそれは、町にずっと暮らしておる者であるはず、と」
ラブール商会に取引を持ち掛ける前、二人で話したことだ。ページを手に入れる計画は、当然ながら誰もが一度は考えた、しかし実行するには危険が大きすぎるがゆえに尻込みしてしまうようなものを立てた。
それがマイルズとルナにとっては最も適した形だったからであり、旅の書籍商という立場を最大限に活かせる策だったからだ。
自分が思いつくことは、他の誰かも思いつくことができる。
そして世の中には、誰が思いつくかによって全く異なる意味を持つ考えがある。
では、マイルズという駒が揃ったことで、マイルズとは全く違う構図を描いた者がいてもおかしくはない。
「そなた、言ったであろ。上手くいけば全員が儲かる、と」
たしかに言った。だからこそ、ルナが次に言いたいことも理解できた。
「もし、そなたの計画が上手くいくことで、損をする者がいたとしたら?」
即座に思いつくのは、いるはずがない、という答えだ。
マイルズは商品を、ルナは自由を、ラブール商会とグロンスール教会は危険な異端の品に頭を悩ませる日々の終わりを得る。全員が得をすることこそあれ、損をする者などいない。
いるとしたら、それは――
「いるとしたら、それはページを町に持ち込んだ者。わらわのページの力を、初めから知っておった者」
つまり、教会を使って悪魔のページの力を試して成功したところに、マイルズがのこのこと残りのページを連れて現れたことで内心ほくそ笑んでいた者。
そして、マイルズにページを買い取られては困る者がいるとしたら、教会へ向かうのを阻止したいはず。
例えば、人気のない路地に入るのを待って。
「――」
足音がしたわけでも、声をかけられたわけでもない。
だがなにかを感じて振り返ると、男が二人立っていた。
どこにでもいる男たちだ。片方は背が低くがっしりした体つきで、もう一方は痩せぎすでひょろりと背が高い。二人とも歯が欠けていて、ぼろをまとった身なりは町の最底辺、物乞いであることが一目でわかる。
そして、二人ともが手に不釣り合いなほど立派な短剣を持っていた。
「教会へ――ぅぐ」
言い終える前に、路地の石組に膝をついていた。暴漢の蹴りがみぞおちに突き刺さったことに、呼吸ができなくなってから気付く。
距離を詰められた瞬間が見えなかった。素人ではない。
背の低い男に地面に押さえつけられると、ただ足を乗せているふうにしか見えないのに全身の力を込めても体を起こせない。首をひねって顔を見上げると、顎からこめかみまで達する傷の痕がある。
元傭兵。逃げるのは不可能だ。
もう一人がルナに迫る。
この時点ではまだ、すぐに走り出せばルナだけでも逃げられたかもしれない。
教会へ駈け込めばかくまってもらえるだろうし、なにより本の姿に戻ってしまう心配がない。ルナもそれは理解していたはず。
「あ……」
それなのに動けなかったのは、崩れ落ちるマイルズに手を伸ばしてしまったからだ。
ほんの一秒。
状況が決するのに要したのはそれだけ。
「ぐ、ぉ……」
身体を持ち上げようとして、余計に強く押さえつけられる。ごろつきに襲われた旅商人の末路など、路傍の染み以外ありえない。そこに見目麗しい女がいるとなれば、どうなるかは言うまでもない。
だが、男たちはルナに危害を加える様子がない。むしろ、がっちりと腕を握ってはいるが、丁重に扱っている節がある。
ただのごろつきではない。
それは、ルナの危惧が完璧に的中していることを示していた。
「狙いは俺――」
そう、ルナを手に入れるには、逃げも隠れもできない本の姿がもっとも都合がいい。そして、マイルズから引き離せば、教会文字を読める者から離れれば、ルナは人の姿を保てなくなる。
マイルズがそれを理解したのは、重いものが振り下ろされる音がして世界が消え去
った、その瞬間のことだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます