14


「なあ腹減らないか」


 ラブール商会での商談がまとまって通りに出るや否や、レオナルドが一軒の食堂を指さした。もちろん、それが単に食事をしようと誘っているのではなく、交渉が上手くいったことを祝ってくれているのだとわからない付き合いではない。


 二人で席に付くと、注文する前に麦酒が運ばれてくる。レオナルドの馴染みの店らしい。


「さては、しょっちゅう仕事をさぼってるな?」


「当たりだが……なんだ、アル、どうしてわかった」


「真昼間に来ても黙って酒を出してもらえるなんて、いつも同じ時間に来る客だとしか思えない」


 舌打ちするレオナルドだが、その顔は笑っている。


 仕事を抜け出して一杯やるなんて不真面目なことだが、そんなふうに気楽に働いて金を稼ぎ、商会に戻れば幹部として仲間が迎えてくれるような人生など、マイルズからすれば雲の上の話。


 麦酒が苦く感じられたのは偶然ではないだろう。


「そういや、お連れさんは一緒じゃなくてよかったのかよ」


「あいつを連れてきたらあんたの財布が持たないよ」


 さりげなく食事代を押し付けたのは子供じみた嫉妬心だったのかもしれない。マイルズが手のひらに汗をかいて、緊張に押し潰されそうになりながらどうにか取り付けたのが、ドーレ金貨三十枚。


 だがレオナルドからすれば、それくらいの金額は数ある取引の内の一つにすぎない。


「ま、なにはともあれまずは一杯だ」


 麦酒に口を付けるレオナルドの顔に、気負いは欠片もない。


「酔って帰ったらふてくされそうだからな、ほどほどにしておくよ」


 マイルズは付き合う程度にコップを傾ける。


 ルナが一緒にいれば、マイルズを小馬鹿にしながらも楽しく酒が飲めただろう。レオナルドがマイルズの修業時代の失敗を話し、ルナがけらけら笑いながら、マイルズは仕返しにレオナルドが十二まで寝小便をしていたとか、そんなことを言う。


 だがその場面を想像して楽しいのと同じくらいに、今この場にルナがいなくてよかったとも思った。


 成功した兄弟子と、その口利きでどうにか危ない取引を締結できた自分。


 どちらが格上なのかは、商会の見習い小僧だってわかる。


 そんなことを考えていたので、「アル、お前のためを思って一つ忠告しとくがな」とレオナルドが渋面を作ったときには、内心を読まれたのかと思った。


 だがレオナルドはすぐに唇を釣り上げる。いつもの、兄貴分の顔だった。


「やめとけ。あの手の女はお前さんにはまだ早い」


「そういうんじゃない。ただちょっとお互い都合が合って旅をしてるだけだって」


「ならいいんだがな」


「金のためだ。他意はない」


 ページを手に入れて、ルナが自由になれば、その後は本を好事家に売る。


 ルナが封印から解放されれば、悪魔の書はただの物に戻る。異端の奇跡も起こせない、純粋な商品として扱える。見立てでは、ドーレ金貨五十枚は下らないだろう。その上仕入れ代金は実質的にほとんどタダなのだ。


 夢にまで見た利益。


 金、なによりも金。


 金貨五十枚もの儲けがあれば、それを元手にさらなる稀覯本の売買に手を広げられる。そのとき、利益は文字通りの意味で桁が変わる。


 それこそ、自分が追い求めていたものだったはず。


「金のため、ね……。まさかと思うが人買いに鞍替えしたか?」


「そんなわけあるか。ちょっとした取引だよ。見た目のとおり、普通の村娘じゃないんでね」


「ほお? どうやって儲けるのか聞きたいね」


「儲け話を自分から話すわけないだろ」


「いいじゃねえか。お前さんは宿のベッドでたっぷり儲けられるんだろ」


「ぶっ――」


 思わず麦酒を吹いてしまい、レオナルドのズボンに飛沫がかかったが、怒るでもなくにやにやとコップを傾けている。


 野郎二人が酒を飲んでいて下品な話題にならないわけがないので、今のは予想していなかったマイルズが悪い。


「なんだ、まだ手を出してなかったのか? 向こうだって憎からず思ってそうだったぜ」


「そ――」


 そうなのか、と訊きそうになって、すんでのところで呑みこんだ。


 こんなのに引っかかっていては、いい酒の肴にされてしまう。


「昨日もお前さんにべったりだったじゃねぇか」


「大きい町に来るのが初めてだったからだろ。俺しか頼れる相手がいないんだ、当たり前のことだ」


「それなのに宿に置いてきちまったのかよ?」


「ぐ……」


 言い返す材料がない。一人で交渉に臨むのはルナが言い出したことだが、そうなった経緯はレオナルドに説明できない。


 本に封じられた悪魔のためにページを取り戻そうとしている、などとは。


「ま、ならいいんだがな。オレはてっきり、あの娘に入れ込んでるもんだと」


「はあ? なにを根拠に」


「お前さん、あの娘といると楽しそうだったからな」


「  」


 そのときなにを思ったのか、自分でもよくわからない。


 ただ、なにも言えなかったのは、どこかでそれが図星だと自覚していたからだ。


「うちの商会も人手は足りねぇ……ってのは建前だがよ。荷揚げ場を見ただろ。目の下を黒くした男連中ばかりの中に、若い娘が一人いれば客の印象も違う」


 想像してみろよ、と顎をしゃくってくるが、言われなくともわかる。投機騒ぎのせいでどこの商会もてんやわんや、訪れる旅商人たちへの対応さえまともにできていない。では疲れ切った顔の商人たちの中に、瑞々しい百合の花のようなルナが混じっていればどうか。


 ラブール商会が旅商人たちの目を引くのは間違いない。


「町の混乱も、いつかは治まるだろうぜ。そのとき、どれだけの旅人がラブールの名前を憶えてるか……。そのためには今、この騒ぎのさなかに手を打たなきゃならん」


「……師匠の教えか」


 儲けたければ、他人より賢くなれ。


 情報を集め、先を読み、予測を立てて行動せよ。


 それがマイルズとレオナルドが叩きこまれた、利益を出すために必要な唯一にして絶対の方法だ。


「だからな、お前さんがあの娘をうちに置いていくってんなら、ウォーム商会長にオレが口利きをしてやってもいい。なかなか口も上手いし、お前さんを手玉に取るくらいだから、商売に向いてる」


 冗談か、と思ってレオナルドを見れば、コップの向こうの目は酔いなど感じさせないほど鋭い。


「……」


「……」


 お互いに無言の数秒が過ぎ、店主が追加の酒をテーブルに置く音だけが響いた。


「……言っただろ。あいつといることは俺の儲けになる。手放す気はない。少なくとも今は」


 マイルズが言うと、レオナルドの肩からふっと力が抜けた。


 心配してくれたのだ。


「用心しろよ、アル。女ってのは怖ぇぞ。嘘つきの達人だ」


「日々実感してるよ」


 金。金。なによりも金。


 商人が金以外のことに囚われたとき、待ち受けているのは大抵ろくでもない結末だ。


 なにせ、人間は誰しも嘘に満ち満ちているのだから。


「……で、それを俺たち商人が言うか?」


 だが嘘をつくことにかけては、商人の右に出るものはない。


「んははは!! 違いねぇ!」


 笑いながら、レオナルドがコップを掲げる。


 それから男二人が何度乾杯したのかは、ルナには黙っておこうとマイルズは密かに誓ったのだった。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る