一話 いなくなった仔(前)


 珠々しゅじゅ姫は不平をいう、自分の長い髪をくしけずらせる者に。

「せんせい、朝からお庭がずいぶんさわがしいですわ」


 姫のやしきは、主人匂あるじのにおう宮の寝殿とは別棟、渡り廊下で繋がっている。

 長い廊下が通っている庭をしもべたちがせわしなく行き来している。雲上人の邸内で私語は禁止だが足音がカンにさわる。珠々が好むのはことふえの音、挿し絵のきれいな本を眺めること、黒い仔猫とたわむれること。嫌いなのは好きなものに集中したいのに雑音にじゃまされること。


 髪を梳りながら教母の花英はなぶさは答えた。

「出産があるのですよ、姫さま」


「出産?」

 珠々姫は丸い眸をもっと丸くした。

母宮おたあさまがもうひとり、お産みになられるのですか姉妹きょうだいを?」

 


「そうです」と、花英は短く答えた。


 ――うそだわ。


 とっさに珠々は大人の嘘を見抜いた。

 珠々の上には輝羅きららの姉じゃ、珠々の下には七歳の美々、もっと幼い去年産まれて愛名まなもない女の赤子ややは母宮と乳母にかしずかれている。宮殿内の御子は四人。天帝さまはこれ以上をゆるさない。珠々も知っていた。それに……


 ――天子がお渡りになってない、この一年ひととせというもの。


 十四歳になる珠々姫でも知っている、女君と男君を妻合わせないと赤子は宮殿にやってこない。光る天子きみ、おとうさまはずっと寝殿にお泊まりになっていない。

 天帝が原始のどろどろを掬いとり冷やして固めたという人の世で、もっとも尊い営みは出産だ。大人たちは何か隠しているし嘘をついてる。



 トントン、カンカン。

 珠々が眉をひそめたところで庭の物音はやまなかった。

 召使たちはいよいよ足早に行き来し、もっと卑しい人夫たちもあらわれる。庭の隅の寝殿から離れているところに運びこまれ組まれる板切れ、それを切ってかさね打ちつけて、小さな小屋がかたちを表すと、うるさがっていたくせに――何ができるのだろう? だんだん気になりだした。

 珠々を産んだ女宮匂おんなみやのにおうとはこの一年顔を合わせてないが、二ノ姫には妹姫が産まれるとはとうてい思えない。

 庭の隅っこに出来てきた小さな粗末な小屋には何か意味があるにちがいない。

 珠々は興味を惹かれだした。


「ナーッ!」

 珠々姫は母屋へやにうち伏して絵本を繙いていた。吹放しの広いひさしは簾を巻き上げられていない。外の光で字を追っていた。仔猫の怒ったような声は吹き放しのほう――庭からだ。

 珠々は本から顔を上げた。「子々ねね?」

 可愛がっている仔猫が息を荒らげ、フーッフーッと威嚇のようだ。


 緋袴ひばかまうちきをまとう天子の姫君はずりずり膝行いざって庭のほうに寄った。

 広い廂の向こう、宮殿の白いさざれ石を敷き詰めた庭に、真っ黒な子猫をやっぱり黒い水干をまとった貴公子が捕まえ胸のあたりを掴んでいる。


「お兄さま…」


 水干姿の若者は笙――笙笛しょうてき皇子おうじである。いちばん歳の近いきょうだいだが、いちばん理解できない男子だ。笙は身をよじる猫を抱いていると言うより締めあげている。


「お兄さま子々がいやがっている、離してあげて」


「ああ」と今気づいたようにぱっと両手をはなす。

 そのまま仔猫はどすんと小石の上に落ちた。

 珠々は仔猫が怪我をしたのではないかと、廂のへりまで寄って手を伸ばした。

子々ねね

 にゃあと鳴いてことのほか軽やかに猫は飛び跳ねて珠々の手の中に収まった。


 ――よかった。と仔猫に頬ずりする妹姫に向かって。


「珠々、お前は変だよ」

 黒い衣の皇子はうっすら笑って言った。

 見下すような笑い方をする兄を、珠々は見返しても怒ることはできない。黒い目と目があってしまって。とても黒い、黒目の区別ができないくらい暗い目は、きれいな形をしている。丁寧にヘラでかたどった人形のように、目も鼻すじも、ほんのり紅いくちびるも、四人の姉妹きょうだいの誰よりも。

 白くなめらかな肌をもつ美青年だった。

 

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