第24話 焦燥(後編)

 男子100メートル、本番の日だ。


 相変わらず、燦々と照りつける太陽の光は朝からトラックの上の僕たちに容赦なく降り注いでいた。

 熱せられた空気はタータンの上から立ち上り、100メートル先のゴールはゆらゆらとゆらめいて蜃気楼のように見える。


 スタートブロックの間隔を調整して、身体を沈み込ませる。手をついて、ブロックを蹴り出す。

 競技の前の一本だけある試走。

 なんだか、ふわふわとしていて、雲の上を蹴っているような感覚だった。

 スタートして10メートルぐらい走るとスピードを落として、振り返りスタートラインへと戻っていく。


 陸上を始めたときから憧れていた舞台。

 今は、そこに立っている。

 予選は9組あって、それぞれの組の上位2人とタイム順で6人、すなわち24人が準決勝に進出できる。つまり、今スタートラインに戻ってきた8人のうち2位入ってしまえば文句なしだ。顔ぶれを見ても僕の自己ベストが出せれば、全然問題ない。


 僕は第四レーンのスタートラインの後ろにある看板のところまで戻って、振り返った。そして、両手で顔を2回軽く叩いた。

 100メートル先でゆらめいているゴールをみすえた。

 僕らの第3組のメンバーを見ると、自己ベストでは僕が一番速い。普通に実力を出せれば一位が取れるはずだ。

 ふうっと、息を大きく吐いて体の力を抜いた。

 となりの第五レーンの選手が、悠々と余裕そうな表情を浮かべて、試走を終えて戻ってきた。

 僕にはそんな表情をつくる余裕なんてない。


 8人がスタートラインの後方に立った。

 おのおのが、一番リラックスできて集中ができる動きをしながら、合図をまっている。


「オン、ユア、マーク」

 スピーカーからの声で、僕らは数歩、前に進んでスタートブロックに、慎重に足をかける。いつものルーティンを、おこなった。

 両手をついて身体を沈める。


「セット」


 クラウチングの姿勢。

 僕は自分の指先とスタートラインを見つめる。

 一滴の汗が地面に落ちたのがわかった。

 静寂が世界を支配した。


 パァン!

 スタート音!


 一斉にスタート。

 静寂を切り裂いた破裂音に続いて、足音が弾けるように響く。


 パァン!


 その刹那、もう一度ピストルの電子音が響き渡った。

 何が起こった?

 だけど、僕たちはその音で走るのをやめるようにできている。

 選手たちは反射的にスピードを緩めて、十数メートル進んだところで、Uターンをした。


 ——フライング。まさか。


 全員の頭の中で、その言葉がこだましている。

 選手たちはゆっくりとスタートラインまで戻っていく。

 数人の審判が、モニターを、確認して無線でやり取りをしている。


 フライングはスタートの合図から、0.1秒以内にスターティングブロックから足が離れた場合に判定される。フライングは一発退場であり、記録は何も残らない。

 人間の神経の伝達速度と、筋肉の収縮のスピードでは0.1秒以内に動き出すことは不可能とされているからだ。


 僕たち八人の選手はスタートラインの後方に戻って、審判の裁定を待つことになった。


 スタートの感触は良かった。

 おそらく誰よりも速かったかもしれない。

 一番早く反応した者は?

 ——まさか?僕が?


 心臓の音が、早鐘を打つように響いている。

 他の選手たちは、自分ではないといった自信を持った顔で首や手首を回して、次の指示を待っている。


 審判の結論が出たようだ。

 数人の審判の中から一人、年配の人がスタートラインに並ぶ僕らに近づいてくる。

 目の前でレッドカードを挙げられた人が退場になる。すなわち不正スタートの判定だ。


 審判は一レーン側から目の前をゆっくり歩いてくる。

 まるで死刑執行を待つような気分だ。


 僕の前まできた。

 心臓の鼓動が速くなる。

 ——嘘だろ…。


 審判は僕を通り過ぎてとなりの第五レーンで止まった。

 たかだかとレッドカードを掲げた。

 観客席からは悲痛とも落胆ともつかないどよめきがあがった。

 さっきまで悠々としていた第五レーンの選手が、天を仰いで両手で顔を覆った。

 余裕があったんじゃない。

 余裕があるような仮面をつけていたんだ。


 場内のアナウンスで不正スタートで退場になることが伝えられた。

 その選手は頭を抱えて涙を流しながら、招集所の方へ歩いていった。

 第五レーンの三角形のレーンマーカー上に、赤いカードが置かれた。

 彼だってこの夢の舞台に立つために、血の滲むような努力を続けてきたはずだ。

 0.1秒でその夢は、余裕の仮面とともに粉々に砕け散った。


 僕にだってその可能性はあった。

 スタートの反応速度が僕の持ち味のひとつだから。

 スタートで差をつけて、トップスピードを維持するタイプのスプリンターは、フライングの危険とも隣りあわせだ。


「オン、ユア、マーク」

 再び僕たちはスターティングブロックの位置についた。

 もう一度、さっきのルーティンをなぞるようにおこなう。

 違うのは、第五レーンの選手がいなくなっただけだ。


「セット」

 音のない世界が支配する。

 絶対にスタート音を聞いてからだ。

 頭の中はスタート音が到達するのをいまかいまかと待ち構えている。


 ぱあん!

 スタート音!


 音は耳から脳に入って、それがスタートの合図であることを身体が認識した。

 筋肉を動かす指令をだす。

 下半身と上半身の筋肉がシンクロしながら収縮してスターティングブロックを離れた。


 横一線。

 スタートで飛び出した者はいない。


 加速する。

 空気の粒子が僕を押し戻そうとする。


 顔を上げてゴールを見すえる。

 同じスピードで走る者たちがいる気配はずっと続く。


 食いつく。

 誰一人前に出るものも、遅れるものもいない。


 必死だ。


 筋肉が悲鳴をあげる。

 呼吸が追いつかない。

 心臓が爆発しそうだ。


 ゴールが近づく。


 右側から影が僕を追い抜いていった。


 ——ちょっと、待て。


 それでも最後までスピードは落とさない。


 スプリンターの集団はゴールラインを切った。


 二位か、三位か。


 スピードを落としながら電光掲示板を見上げる。


 速報で一位の選手の名前が出た。

 僕ではない。

 最後に追い抜いた影だ。


 二位、三笠遼(甲府中央) 10秒66

 三位、最上翔人(山形東) 10秒67


 電光掲示板に表示された。

 両膝に手をついて肩で息をする。


 ——よかった。


 安堵の声が無意識にこぼれた。


 身体を起こして招集所の方へ歩き出した。


 少し右膝と足首に熱を感じた。

 それは、予選を通過したことで熱を帯びているのか。

 それとも——

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