第11話 命令なき救援


 午前四時、無線が再び沈黙を破った。

 

「第214歩兵中隊、住宅区画北端に孤立中。弾薬・食糧尽きる」


その報せを最後に、通信は途絶えた。

クラウスは炭のように冷えた指で地図をなぞった。

かつて工業地帯だったその区域は、

今や無数の倒壊した工場の瓦礫と死体で埋め尽くされている。

指揮系統はほぼ崩壊していたが、それでも命令は形だけ下りてくる。

 

――「救援に向かえ」。

 

生き残っていた兵は、わずか七名。

皆、泥と煤に塗れ、言葉を失っていた。

クラウスは無言で頷き、Kar98kのボルトを確かめた。

油も凍りつき、動きは鈍い。

 

「出発する。無線は沈黙を保て」

 

その声に、誰も返事をしなかった。

ただ、靴底が瓦礫を踏み砕く音だけが、夜の街に響いた。

行軍は地獄だった。

凍りついた瓦礫の山を越え、倒壊した壁の隙間を縫う。

街路はすでに道ではなく、屍と鉄屑の混合物だった。

前を歩いていた兵が急に止まり、手を挙げた。

クラウスは瞬時に身を低くした。

遠く、煙の向こうに人影。

敵か味方か、判別できない。

双眼鏡を覗く――

そこには、かつての味方の制服を着た“死体”が立っていた。

蛇腹鉄条網に引っ掛かり、

その後ろに控えていた屋根型鉄条網に背中を貫かれたその姿はまるで、

立ったまま眠っているようだった。

新兵の一人が嘔吐した。

クラウスは何も言わず、ただその肩を叩いて背を摩る。

 

「……前進だ」


瓦礫の中を抜けるうち、

クラウスの頭にノイズが混じり始めた。

風の音か、それとも――声。

 

「クラウス、弾をくれ」


振り返ると、そこにいたのはヘルマン。

死んだはずの、あのヘルマンが。

肩に血の跡も、欠けた指もそのままに、笑っていた。


「……俺はもう、渡しただろ」


クラウスはそう答え、歩き続けた。

だが背後からの足音は、誰のものでもなかった。

昼近く、彼らはついに工業地帯北端の建物群にたどり着いた。

救援すべき中隊の拠点――のはずだった。

しかしそこには、人の気配などなかった。

瓦礫の中に転がっていたのは、

かつての“救援対象”たちの死体だった。

頭部が撃ち抜いて全員が自決していた。

銃の持ち方も、最後に指がかかった姿勢も完璧に揃った儘で凍り付いている。

クラウスは静かに彼らを見つめた。

誰かが嗚咽を漏らした。

クラウスはただ一言、低く言った。


「……もう遅かった」


その夜、彼は火のつかないオイルライターを片手に烟草を咥え、瓦礫に背を預けた。

闇の中、遠くで何かが囁いている。

 

「なぜ、助けようとした?」

 

「命令だ」

 

「命令なんて、もうないだろう?」

 

返事はなかった。

クラウスはただ、空を見上げた。

そこには、星ひとつなかった。

煙と灰が覆い尽くした空の下で、

彼の表情には、もはや“人”の色がなかった。

風が吹いた。

死者の匂いを運びながら、

彼の頬を撫でた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る