10.6つの音階

 エリオの茶色い瞳がこちらを覗きこむ。


 良く知った口角に笑顔が浮かぶ。

 

 何度も手を伸ばしては、零れ落ちていく彼の笑顔。


 それが今は、、手の届く範囲に存在している。


 その事実が、想像よりほんの少しだけ強くヨウを揺さぶった。


 手を伸ばせば届く。その奇跡的な瞬間がこれ程早く訪れると想像していなかった。


 だからだろうか……。


「あ、の……どうして」


 つい手が伸びた。


 声は裏返り、喉が音を立てて唾を押し込む。不意に伸びた手が、目の前で音を刻む青年の腕を掴んだ。


「どうして……ここに…………」


 上ずった声が思いの他大きくその場に響き渡り、周りで食事をしていた名前も知らない人達が驚いた様子でこちらを振り向いた。


 


 足に僅かな痛みを感じて、ヨウは崩れるように椅子に腰を落とした。


 青年の足がヨウのつま先を踏んでいた。


 その痛みが、彼の「警告」をこちらに告げる。

 青年の瞳は静かにこちらを見つめたまま――表情は読めない。

 

 青年がまた頬を緩め、言葉と一緒に足で振動を伝えた。


「……とりあえず、リサさんに頼まれた日付を決めましょう」


 つま先から伝わるリズミカルな振動は、6つの音階パターンに分解され、構築され、ヨウに彼の言葉を伝える。


『大声ヲ出スナ』と。


 ヨウは項垂れるように視線を下げた。

 青年の柔らかい声が再度耳に届く。


「それで、いつにしましょう」


 足に軽い振動が伝わる。

『イツカラ、コノ支部ニ?』


 投げかけられる2つの問をヨウの思考は機械的に処理した。

 一度手を強く握りしめ、開き直すと、ほんの少し頭がさえた。


 ヨウは静かに机の裏を指で叩く。


「明後日とかどうですか……? 私も、リサも休日です」

『今月カラ……』


 僅かに彼に視線を向ければ、温和そうな青年は顔に似合わず、腕を組んでいた。

 彼の左手が腕を解き、首に当てられる。


 考えるときに首を摩る。ハクが昔からよくやる癖だった。


 どういう意図があってなのか、ヨウには分からなかったが、「もしかしたら」という、実現し得るはずのない淡い期待が胸の奥で生じては消える。


「時間はどうしますか?」

『イツ頃本部むこうニ戻ルンダ』


「私はいつでも」

『暫クハコッチニイル……』


 ヨウは視線を漂わせて、目の前の青年の反応を伺った。

 つい出来心で嘘に嘘を重ねた。


 明日は出勤日だし、明後日も出勤日だ。おそらく支部にいるのもあと一週間前後だろう。

 

 彼はヨウの仕草に目を細めた。リズムアップした振動がヨウの足に刻み込まれる。

 青年の言葉が少し早口になっていた。


「じゃあ明々後日の朝にしましょう。明日、明後日は出勤日だとリサさんが」

『早メニ戻レ』


 そのの反応に、淡い期待が瓦解する。強張っていた肩が脱力した。


「そうですか……。それでいいです」

『私ノ権限ジャ決メラレナイカラ……』


 ヨウの言葉に呼応する彼の言葉が早くなる。


「真面目に答えてますか? 出勤日に被ったらあなただって困るでしょう?」

『長居スルナ』


 ヨウはじっと彼を見返した。ただ彼の言葉の意図が読めなかったからだ。

 

「私がですか?」

『ドウシテ?』


 ヨウの問いにハクは少し首を擦り、視線を逸らした。


 気まずい間が開き、暫くしてハクがまた音を紡いだ。

 

『……来タ訳ジャナイノカ』


『ダカラ、何ガ?』


『ソウカ……』


『何?』


 ハクは暫く考える。


『クラヴィスには会ッタノカ?』


『会ッタ』


『何テ言ッテイタ?』


『……? 「マタ会イマショウ」ト』


 振動する音階は断片的な質問のみをヨウにぶつける。


 彼の意図も感情も、ヨウには何一つ分からない。


(昔はどんなことだって話していたのに……)

 



 悲しいことも、嬉しいことも。

 隠し事なんて2人の間にはほとんど無かった。


 ――いつだって思い浮かぶのは、一面の群青の空と萌葱色の丘の上。

 そこに立つ一本のケヤキの木。

 

 ほんの少し鼻を突く草木の香りと、木の下でわしたささいな約束。



 

『ハク。話シテ欲シイ……。私ハアナタノちからニナリタイ』


 真っすぐな言葉が自然と音を刻んだ。


 でもそれはヨウにとって隠す必要がある物でもなければ、恥じらうたぐいの物でもない。

 ただハクに笑っていて欲しい。それがヨウの純粋な願いだ。


 自己満足かもしれない。それでもいい。

 それだけが、全てを失った少女に残されたたった1つの希望なのだから。


 揺らぐ熱を帯びた振動が、ヨウの言葉をハクに運ぶ。

 ハクもまた、ヨウを真っすぐに見つめ返した。


 


 そして、彼の淡々とした振動が、ヨウの熱を遮蔽した。


『必要ナイ。今スグ本部ニ帰還シロ』


 ハクの鼓動はただ静かで揺らぐ気配も全くない。


は今、「力」ヲ欲シテイル。オ前ヲワケニハイカナイ』


『私はイイヨ……ハクの助ケニナレルナラ。仮に反乱軍ヘスルコトニナッタトシテモ』


 僅かにハクの表情が崩れる。

 彼は苛立ちを隠しきれない様子で肩を回した。


 失言した。そう気づいたときには遅かった。


『――分カラナイノカ? オ前ノ命ガ誰ノ犠牲デ成リ立ッテイルノカ』

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