序節

ー前書きー

「ハク……帰ろう……かあ様と過ごしたあの丘に」


 日が沈み、夜が更けた時間。闇が街灯を覆い、静けさが増した小道の真ん中に一人の青年がこちらを向いて立っていた。


 全身に黒装束を纏ったすらりとした青年だ。黒いローブの奥から覗くが彼の異様さを物語っていた。

 『オルドの亡霊』は一言発した。


「帰れ」


 まるで獣が警戒するときの唸り声だった。

 たぎるガーネットの瞳が仮面の奥で月夜に光り、青年が静かにこちらに歩を進めた。


「迎えに来たの。もういいよ、こんなこと……母様だって望んでない……」


 震える声を押さえ、ヨウは笑顔を作った。もう何度目の会話かさえ分からない。

 

 冷たい風が頬を撫で、少女の純白の髪を揺らした。


 彼の冷たく、物言わぬ視線がヨウを突き刺す。

 明るく朗らかだった青年の変わり果てた姿に、少女の胸は激しく軋んだ。


くにの犬になったお前が、反乱因子である俺を? 帰る先は牢獄か?」


 酷く乾いた笑いだった。


「違う……」


 ヨウの悲痛に満ちた叫び声に、怒りをはらんだ青年の声が重なる。

 

「俺はもう、失うのはごめんだ」


 焦げ付くような彼の視線がヨウの心臓をあぶった。彼の瞳が闇で濁る。


 青年は軽くヨウに肩をぶつけると、何もなかったかのように通り過ぎた。

 振り返りもせず、声すら発さない。

 

 「ハク! 待って! 話を聞いて!」


 ヨウは咄嗟に地面を蹴り、ハクの背中に飛びついた。

 布越しにハクの体温が伝わり、青年から優しいケヤキの香りがした――懐かしい故郷の香り。


「もうやめよう! ハクが傷つくとこなんて見たくない! 一緒に家に帰ろう……」

 

 悲痛な叫びが闇に木霊する。ヨウはすがった。

 

 みっともなくても構わない……。

 絶対に離したりしない……。


 これ以上彼を一人にしたりしないと。その切実な思いだけが彼女の原動力だった。


 青年がこちらを見下ろす様に振り返った。


 突然、言葉にならない鈍い衝撃が背中から全身を蝕み、視界が揺れる。彼が再び背を向けるのが分かった。


 ヨウは脚から力が抜け、その場にずり落ちた。


 柔らかい土が頬を打ち、景色が濁る。

 暗雲の中、光と闇が入り混じった。


 (ハク……もういいよ。もう……どうか苦しまないで……一人にならないで……。)


 言葉にならない声が漏れる。


 

 遠ざかる青年の足跡がその場に残った。





 




  

 

 ―― RYCOLAS――

   【前書き】




 

 

【この書物を手に取ってくれた皆様に礼を言おう.


 この書物を手に取ってくれたこと大変有難く思う.この書物を見つけた時点で貴方には既に幾分かの理由があるのだろうが,それはおそらく私の死後のことであって,私の関与するところではない.


 次に,貴方がこの書物を読めることに敬意を表そう.ここにつづられた情報を処理できる貴方は,数少ない一握りの人に違いない.


 そして最後に,この書物の処遇についてだが,これは全面的に貴方に託そう.


 抹消すべきと判断するなら,煮るなり焼くなり好きにして構わない.


 ただし,注意して欲しい.もし貴方がこの書物を手元に残そうと思うなら,悪いことは言わない.背後には気を付けることだ.


 この書物は少なからず,貴方の人生を狂わせる物に他ならない.





 さて,歴史を語る前に一つ述べておかねばならぬだろう.何故私がで史書を残すのか.


 なに難しい話ではない.このような形で残すことが最も後世に残りやすいからだ.


 誰もが知り得る形ではこうして貴方の目に留まることさえなく,直ぐ抹消されてしまうことだろう.


 私はただ誰かの記憶の片隅に残したかっただけなのだ.


 彼女という存在を.


 そしてあわよくば,弾き語りなり口伝なり,何らかの形で彼女の名を残してほしい.



 遥か昔,勇敢に生き,過酷な運命に翻弄された一人の少女の名を.


 これは史書であって史書ではない.


 一人の犯罪者と,その犯罪者を守ろうとした一人の少女の物語だ.】



ケヤキの書 第7書 月白げっぱく』より。

 著:レジーナ・ド・ラナ

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