第5章: 交錯する狂気と愛の接近

1. 陽向視点:パリ到着、追跡の開始


パリ。その街は、凡庸な日常から飛び出してきた陽向にとって、あまりにも重厚で非凡な舞台だった。



石畳の道、歴史を抱える建築物、そして街全体を覆う芸術という名の権威。東京の無機質なアパートで千草を支えてきた「ただの管理人」としての陽向の存在は、この場所では砂粒以下だった。



陽向は、セーヌ川沿いの安宿の一室で、簡素な荷物を下ろした。窓の外に見えるのは、灰色の空の下、淡い光を反射する古い屋根。千草がこの街で、呪いの筆に魂を削っている――その事実だけが、陽向を突き動かしていた。



昼間は、陽向の追跡は、まず情報戦から始まった。陽向は、ノートPCで調べた情報に基づき、相馬圭介の画廊が現在提携しているという、パリの著名な美術館へと向かった。そこには、千草がパリに来てから描いたとされる、数点のネオンカラーの作品が展示されていた。



展示室は、静謐で厳粛な空気に包まれていた。人々の視線は、キャンバスから溢れ出す狂気的な色彩に釘付けになっている。千草の作品は、遠い国まで来ても、凡庸な世界を圧倒する非凡な力を放っていた。



そして、その絵の下には、ニュースで見た成功の文字があった。



「相馬圭介コレクション、『天才・千草』の最新作が美術界に衝撃。史上最高額での買い付けも示唆」



相馬の目論見は、着実に成功していた。千草の狂気は、金と名誉という「非凡な報酬」を得て、ますます呪いの筆に深く囚われている。陽向は、時間が残されていないことを痛感した。



陽向は、作品の前に立ち尽くした。それは、以前千草が描いていた、魂を燃焼させるような熱を持っていたが、どこか冷たく、無機的だった。相馬の管理の下で、人間的な感情が削ぎ落とされ、「不朽」という名の下に固定されてしまったかのように。



陽向は、目を凝らした。彼の凡庸な愛は、誰も気づかない細部を知っていた。



ネオンカラーの狂気が渦巻く巨大な作品の、ごく小さな一角。何本もの線が交錯し、一見、色彩の暴力でしかない部分だ。だが、陽向には見えた。



その混沌とした線の中に、たった一本だけ、故意に色が乗せられていない、キャンバスの地の色そのままの線が残されている。それは、作品全体の熱狂の中では単なるミスとして見過ごされるものだろう。



しかし、陽向にはそれが、小さなシルエットに見えた。



それは、陽向の横顔だった。

千草が、呪いの力に抵抗し、「凡庸な愛」を求める魂の最後の抵抗として、自分にしか分からないサインを、傑作の裏側に刻みつけていたのだ。



陽向の全身に、鳥肌が立った。涙腺が熱くなるのを堪える。



「このネオンの光は、お前の狂気じゃない。千草、お前はまだ、俺たち二人の『あの平凡な愛』を、完全に捨てきれていない。必ず、お前の魂の在り処まで辿り着く!」



陽向は、公の展示室で千草のSOSを感知したことで、自分の追跡が正しいことを確信した。



夜になると、陽向は画廊の裏手へと移動した。SOSは掴んだ。次に必要なのは、千草が隔離されている場所と、相馬圭介の行動パターンの特定だ。画廊の石造りの外壁は、「歴史の結界」としてそびえ立っていた。陽向の孤独な追跡は、ここから真の潜入戦へと移行する。




2. 陽向視点: 久慈 慎一郎の影と初接触


陽向は、パリの歴史的な画廊の裏手に身を潜めていた。夜の闇と、ごみ収集のコンテナが、凡庸な追跡者である陽向の唯一の隠れ蓑だった。画廊の石壁からは、昼間に美術館で感じたネオンカラーの微細な熱が漏れ出している。



深夜二時。街の喧騒が遠のき、最も静寂が支配する時間帯。



画廊の裏口の重い鉄扉が、わずかな軋みを立てて開いた。出てきたのは、相馬圭介。彼の態度は、いつも以上に神経質で、まるで見えない権威に圧されているようだった。相馬は、裏手の狭い空間を、まるで謁見の間であるかのように畏敬の念をもって見つめていた。



相馬は、裏口から五メートルほど離れた、石壁の最も暗い部分に向かって、静かに頭を下げた。彼の顔は、畏怖と陶酔が入り混じり、汗が浮かんでいた。



「久慈様、お待たせいたしました。」



陽向は、相馬が誰にもいない場所に話しかけているのを見て、戸惑った。



だが、次の瞬間、陽向の聴覚ではなく、意識の奥底に、凍てつくような低い声が響いた。



その声の主は、久慈様と呼ばれた老紳士。その姿は、闇と石壁の境界線が曖昧になった場所に、影が凝縮して滲み出たかのようだった。白髪で品のいいスーツに身を包んだ老獪な紳士の姿をとってはいるが、その存在は物理法則を超越していた。陽向が「ネオン画材」で見た、あの底知れない冷徹さと途方もない時の残滓が、そのまま具現化したかのようだ。



「あの時の店主……!彼は人間ではないのか?何者なんだ?」



陽向は、久慈がこの世の存在ではないことを直感し、息を殺して壁に張り付いた。



久慈は、裏口に設置された小さな換気口を見つめながら、意識に直接響く冷たい声で相馬に語りかけた。



「相馬君。『コレクション』の進捗は?」



相馬は、久慈の声、あるいは力の圧力に耐えるように、顔を歪ませながら答えた。



「順調です。彼女の制作は限界域に達し、作品は『不朽の臨界点』に近づいています。久慈様のご指摘通り、『凡庸な幸福の記憶』を断ち切ることで、筆の真の力が解放されました。」



久慈の冷たい声は、嘲笑を含んでいた。



「ふむ。しかし、まだ不純物が残っている。あの作品の底に、微細な抵抗の痕跡を感じる。まるで、切り離されたはずの『愛の残滓』が、凡庸な粘り強さで絵を汚しているかのようだ。」



陽向の脳裏に、昼間、美術館で見た陽向の横顔のシルエットが鮮明に蘇った。久慈は、あのSOSのサインを、魂のエネルギーとして鑑定している!



久慈は、鋭い鑑定の視線を相馬ではなく、画廊の石壁に穿った。



「あの凡庸な存在が、彼女の狂気の成就を束縛する楔となってはならない。相馬君、絵の純粋性を維持するためにも、残滓は完全に排除しなければならない。君の『歴史の結界』を、より強固に。彼女の魂は、非凡な成就の直後に、最も純粋な呪いとして筆に封じ込められるべきだ。愛などという軟弱な感情は、我々のコレクションにふさわしくない。」



相馬は、「承知いたしました」と深く頭を下げた。その震える様子は、彼が久慈の非人間的な本質を理解し、命の保証がないことを知っている証拠だった。



久慈は、相馬への指示を終えると、体を動かすことなく、その存在を闇の中に溶かし始めた。まるで、古い映画の残像が消えるように、徐々にその輪郭が揺らいでいく。



その瞬間、陽向は致命的なミスを犯した。張り詰めた緊張の中で、隠れていたコンテナの縁に、背中のリュックサックが微かに触れたのだ。



カタン――。



久慈の溶けかかった影が、

ピタリと静止した。


久慈の「目」だけが、闇の中で鮮烈に輝いた。それは、物理的な瞳ではなく、何千年もの時間を超えて存在する、冷たい「魂の収集家」の鑑定の光だった。



久慈の視線は、陽向という生身の人間ではなく、陽向から滲み出る「愛の残滓」というエネルギーを鑑定していた。久慈は、「無価値」という冷徹な結論を下した...と見せかけて、その意識が、陽向の意識に直接、誰も聞かないほどの微細な声を響かせた。



「...この凡庸な粘りが、どれほどの狂気に耐えられるか。私は、最後の変色を楽しみにしている。」



久慈は完全に消え去った。

陽向は、物理的な殺意よりも遥かに冷たい存在の否定を受けた。同時に、彼は「試されている」ことを悟った。久慈にとって、陽向の愛は「愛の成就」ではなく、「コレクションの純粋性を試すための実験材料」でしかなかったのだ。



陽向は、リュックサックを強く握りしめた。久慈の警告は、陽向の凡庸な命の軽さを示していた。だが、それは同時に、陽向の愛の純粋性が、久慈にとって無視できない変数であることを証明していた。



陽向は、物理的な殺意よりも遥かに冷たい存在の否定を受けた。ネオン画材の店主と、この「久慈様」と呼ばれる非人間的な存在。その二人が同一人物であることは、もはや疑いようがなかった。



陽向は、凡庸な愛という唯一の武器を信じ、次なる行動へと移る覚悟を決めた。




3. 久慈の試練:伝説の絵師の末路


陽向は、画廊の裏路地の壁に手を当てたまま、身動きが取れなかった。久慈が残した「最後の変色を楽しみにしている」という言葉が、陽向の頭の中で渦巻いていた。



その時、陽向の掌から、壁の冷たさが消えた。久慈が去った場所に残された闇の残滓が、ネオンカラーの熱となって陽向の意識を侵食した。



「凡庸な追跡者よ。お前が踏み込んできた世界の、起源を知るがいい。」



久慈の冷たい声が、空間を超えて陽向の意識に直接響いた。



「お前に、愛などという軟弱な感情が、どれほど無力であるか。その末路を、この呪いの残滓を通して見せてやろう。」



久慈の非凡な力が、陽向の脳裏に数百年という時間の奔流を強制的に流し込んだ。陽向は、呪いの筆が誕生した瞬間の悲劇を、痛みと共に追体験させられた。


陽向の視界は、瞬時に白と黒、そして燃え盛るネオンカラーの幻視に覆われた。


それは、遥か昔の京都の画廊で、彩瀬 鏡花(あやせ きょうか)という破滅的な才能を持つ女性絵師が描いていた光景だった。鏡花の絵は、生と死、狂気と愛が入り混じった圧倒的なネオンカラーを放っていた。


鏡花の傍らには、月原 宵一(つきはら よいち)がいた。彼は、絵の才能は凡庸だったが、鏡花の才能と孤独を誰よりも深く愛し、彼女の生活のすべてを支えていた。


鏡花は、自身の才能がもたらす孤独に苛まれ、宵一に訴えた。


「宵一、私は怖い。この才能が、私を人でない何かに変えてしまう。私を、平凡な世界に引き止めてくれ!」


宵一は、鏡花を抱きしめ、平凡な生活に戻ることを必死に説得したが、鏡花は、宵一の凡庸な愛が、自分の才能の孤独から救い出せないことに、究極の絶望を覚えた。そして、宵一が鏡花の狂気に耐えかね、逃げ出してしまった。


その時、鏡花の魂は完全に折れた。


「裏切り……宵一。貴方は、私の孤独に耐えられなかった。ならば、私の魂は凡庸な愛に永遠に裏切られた狂気として、この筆に宿ろう。この筆は、愛を拒否した凡庸な世界への永遠の呪いとなる!」


鏡花は、凡庸な愛に裏切られた絶望から、自らの魂を、持っていた筆に焼き付けた。

幻視は、ネオンカラーの残像を残して消えた。


陽向の掌から、激しい熱が引いた。彼は、鏡花と宵一の悲劇が、自分と千草の未来そのものであることに戦慄した。


そして、空間が再び久慈の冷たい声に満たされた。


「見たか、追跡者よ。彩瀬鏡花の愛は、彼女の狂気にすら耐えられず、逃げ出した。愛とは、破滅を確信する才能の前では、常に裏切るものだ。お前も、月原宵一の二の舞になるだろう。」


久慈は、陽向に絶望を植え付け、彼の愛の純粋性を根底から揺さぶった。


しかし、陽向は震える拳を握りしめた。


「違う。鏡花が裏切られたのは、宵一の愛が凡庸だったからじゃない。鏡花が、自分の愛を信じきれなかったからだ。千草、俺は……俺は、月原宵一の過ちを繰り返さない!」


陽向は、久慈からの警告を解呪の鍵へと反転させた。呪いの起源が「愛のすれ違い」にあると確信し、「裏切らない愛」こそが、呪いを解く唯一の武器であることを悟った。




4. 陽向視点:潜入と最終計画


裏路地から宿に戻った陽向の身体は、疲労と、久慈の非人間的な力による精神的な痛みに蝕まれていた。しかし、彼の瞳は、もはや凡庸な青年のものではなかった。そこには、愛する者を救うために、非凡な世界へと足を踏み入れた追跡者の、鋭い光が宿っていた。



久慈の警告と、彩瀬鏡花の悲劇の幻視を見たことで、陽向の頭の中は整理されていた。



「呪いの筆の核は、愛の否定から生まれている。久慈は、俺の愛の純粋性を、呪いの完成を測る『試薬』として楽しんでいる。相馬圭介は、歴史の結界で千草を閉じ込めている。つまり、鍵は愛の肯定。そして、必要なのは時間だ。」



陽向は、ベッドの上にパリの地図と画廊の見取り図(情報収集で得たもの)を広げた。昼間に練った「凡庸な潜入計画」は、もはや通用しない。敵は、人間的な監視を超えた久慈だ。



「鍵は、最も警戒される瞬間を避けることじゃない。久慈の関心を逸らすことだ。」



陽向は、計画を大胆に書き換えた。



【潜入計画:愛の最終賭け】

1. 時間: 相馬が最も警戒を強め、久慈が「コレクションの純粋性」に最も意識を集中させる「夜明け前」を選ぶ。

2. 経路: 裏口や換気口のような凡庸な経路は使わない。相馬の歴史の結界が最も強固な場所、画廊の正面から陽動を仕掛ける。

3. 目標: 千草のアトリエへの直接侵入。そこで、呪いの筆を完成させようとする千草に、「裏切らない愛」を突きつけ、解呪を試みる。



陽向は、リュックサックの中身を点検した。盗聴器や工具といった凡庸な道具は、もはや意味をなさない。彼の武器は、千草の孤独を知る知識と、純粋な愛、そして久慈が不純物と呼んだ「凡庸な粘り強さ」だけだった。



「潜入に成功しても、相馬に見つかれば終わり。久慈に見つかれば、『変色』が完了する前に消されるだろう。」



陽向は、自らの命を賭けた賭けであることを理解していた。それでも、引き返す選択肢はなかった。千草は今、あのネオンカラーの光の中で、「不朽」という名の破滅へと向かっている。



陽向は、着替えたばかりの服の胸ポケットを叩いた。そこには、千草と二人で撮った古い写真が入っている。千草が才能を見出し、陽向が管理人になる前の、最も平凡で幸せだった日々の記憶。



「お前の狂気なんかよりも、俺の愛のほうが、ずっとしつこい。」



陽向は、

自らに言い聞かせるように、

強く呟いた。



午前三時。

夜明け前のパリの街は、

深い静寂に包まれている。



陽向は、安宿の窓から、相馬圭介がいる方向を見つめた。歴史の結界を破り、久慈の目を欺き、愛する者の狂気の檻を壊す。



陽向は、凡庸な日常に別れを告げ、闇と狂気が交錯する舞台へと足を踏み出した。その足音は、パリの石畳に、小さな、しかし確かな反逆の音として響いた。


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