第36話 無の時がもたらした奇跡
こうして日課として五本の御神木への霊力注入作業(注入しているのは透子さんだけど)をおこなうようになり、その結果が出ているのかどうかもさっぱりなまま、日々が過ぎていた。
そんな、ある日の夕暮れ――
(さあ! 始まりましたよー、神薙透子と伽羅宗介のレえッツ、クッキングゥ!)
横に立つ透子さんが、片腕を突き上げてテレビの番組名みたいに叫ぶ。
夕飯の準備である。昼間の買い物で、透子さんにせっつかれるようにして、このあいだと同じように豚肉の小間切れと袋入りのカット野菜を購入していた。包丁とまな板の購入を勧められたのだけど、なんだか僕にはまだ敷居が高く感じられる。
「えっと」と、作業台にずらっと並べられた材料と調味料を前に、僕は言う。「まず何からやればいいんでしたっけ」
(フライパンに油たらたらー)
「あ、ああ、そうでした……えっと……大匙2……」
僕は油の入ったコップを手に取ってラップをはがし、フライパンの上で傾けていく。前回、多過ぎると言って透子さんが分けておいたものだ。
(多少は多くなったって構わないから、そんなにビクつかないでいいよ。肉野菜炒めだもん)
「えっと、次……火、でしたよね……」
僕はコンロのレバーをひねり、火を点ける。カチッ――シュボッ。
「油、何分ぐらいで温まりますかね?」
(んん? そんな、何分もかからないってば。時々フライパン傾けてごらん。熱せられた油はさらさらになるからフライパンの中での移動が速やかになるよ。それで判断するの)
「そんな法則性があったんですね」
三十秒ぐらいしてから言われたとおりフライパンの取っ手を掴み、傾けてみるが、さらさらになったと言えるのかどうなのか、さっきまでとのちがいがさっぱりわからない。
だが、横で透子さんが(ゴー)とゴーサインを出したので、
「……どっちが先でしたっけ」
(お肉ー)
パックのフィルムを剥がし、豚肉を投入する。
ジュウウ、という音を聞いた瞬間、初めて僕は、自分が生まれて初めて料理なるものをしているのだということを、実感を伴って理解するに至った。
(まぜまぜー)と言われ、菜箸をフライパンの中でぐるぐるさせる。
だが、透子さんが笑いながら(あのねえ。ドリンクとかかき混ぜるんじゃないんだから)
言いながらすぐ横に来て、菜箸を奪い、同様にフライパンも奪い取った。脇に退いた僕をヨソに、フライパンを揺らしながら菜箸をささっと動かしていく。
「プロみたいですね……」
(大げさ。きみのお母さんだってこのぐらいのことはやってたはずだよ)
「できるようになる気がしません……」
僕の言い方があまりにも自信なさげだったからか、透子さんは再び僕にバトンタッチしようとはしなかった。(今回までね。次はちゃんと自分でやらなきゃだめだよ)と言いながら、豚肉が全体的に白っぽくなった頃合いを見計らってカット野菜をイン、野菜がしんなりしてきたところへ各種調味料をぱぱっと目分量で入れていく。やはりできるようになる気がしない。
あっというまに肉野菜炒めを仕上げてしまった。
そこへ、炊飯器がご飯が炊けたことを知らせる音が響く。一時間ぐらい前に、これまた透子さんの指導のもと、セットしておいたものだ。
(ジャストタイムー)
言いながら、透子さんが紙皿に肉野菜炒めを移していく――
と、その時――あれが訪れた。
キイイィン、と大きくなっていく、耳鳴りのような金属音。白っぽくなっていく視界。
「透子さん、すみません……『無の時』です」と僕は告げる――
来ちゃったみたいです。
あら、そう? わかった。これからしばらく通信回線遮断状態ね。
ごめんなさい。
なんで謝るのよ? 私は事情知ってるし、ぜんぜん大丈夫だよ。あ、「無の時」のあいだにもご飯って食べられるのかな……まあやってみて無理なようなら戻ってきてから食べたらいいわよ。冷めちゃうけど、レンチンしてね。
はい……出来立てが良かったですけどね……
贅沢言わないの。行ってらっしゃーい――――――………… …… …
行ってらっしゃーい、の透子さんのその声が、一気に小さくなっていって、乗じて景色の白さが急速に増して、
ホワイトアウト――――――
視界が戻り、一切の音の消えた、白みがかった「無の時の世界」に僕は、いる――
――はず、だった。
驚きのあまり、ぴくりとも動けない。声一つ出せない。
「と――」
やっと発せられた声も、そこで止まってしまう。
透子さんが、そこにいた。僕には彼女が見えていた。彼女の立てる音もしっかり聞こえていた。
傾けたフライパンの、隅っこに残った肉野菜炒めをかき集め、お皿に移していっている。
ただそこにいるのじゃない。
彼女の姿は、透けていなかった。
いや、透けているとかいないとか、そんなこと以前に――
生きている。
そんなはずはない。そんなはずがあるわけがない。それはわかっている。
でも、だけど――彼女の姿からは――
かすかな息遣いと、体温と、ふだん感じることのない、そこにいるという濃密な存在感――そんなものが、確かに伝わってくるのだ。
視線に気づいたらしく、透子さんが作業の手を止め、こちらを見る。
「おや」
わずかに眉をそびやかして、そう言った。声の輪郭が、いつもよりくっきりしていた。
「その顔……もしかして、もしかするのかな?」
「はい……もしかします……透子さんのこと、見えてます……声が、聞こえてます」答える僕の声は明らかに震えていた。「それも、ただ見えてるだけじゃない……生きてます……生きてて、そこにいる……みたいに……」
透子さんが、フライパンと菜箸を作業台に置く。姿勢を正しつつ、僕に向き直った。まっすぐ、見つめてくる。
その手を、そっと持ち上げ、こちらに手のひらを向けた。
意図はすぐわかった。僕は同じように手を持ち上げ、手のひらを、彼女の手のひらに近付けていく。
「おおおおおッッッ!」
透子さんが叫んだ。
少し湿った、そしてしっかりと温かい、彼女の手が確かにそこにあった。
「さわれてるさわれてる! ねえ宗介くん、だよね!? さわれてる――ってことで、いいんだよねっ!?」
「はい」
答える声はやはり涙声だった。目のまわりが熱い。
「おおお、すごいなこりゃあ……いったいどうなってるんだか、きみってばー」
透子さんが笑いながら手のひらを押してくる。
僕はそれを、押し返す。
つかのま、押し合いをしていた。
それから透子さんが、いきなりその手を握ってきた。
僕も握り返した。
視界が水の底に沈んでいる。もはや止めようがなかった。震える胸と、頬を伝う涙をそのままに、僕は透子さんになかばされるがままになっていた。そんな僕の手を透子さんは何度も握り、そして反対の手でさすり、軽く叩く。
「ほら……泣かないの」
「無理言わないでください」
「男の子でしょ」
「透子さんの声だって……震えてるじゃないですか」
「無理……言わないでよ」
僕がもし、もう少し理性の働かない奴だったら、きっと、いやまちがいなく、もっと透子さんに近付いて、その背中に両手を回して、強く抱き締めていただろう。
もちろんそうしたかった。衝動と理性のせめぎ合いが、僕の中で激動を起こしていた。
いっそそうしてしまえばいいじゃないか、という思いもあった。
でもしなかった。
透子さんが新展開をもたらしてくれたから、救われた。
「あ、そーだぁ……」
どこかいたずらっぽく、そう言ったのだ。
「何ですか?」
「これは、チャンスだなあ……いや、ほら、言い合いみたいになっちゃった時、宗介くん、殴ってくださいって挑発してきて、私は殴ろうとして、でもできなかったじゃない?」
「は、はい……そうです、けど」
ものすごい剣幕で近づいてきて、手のひらを僕の頬に叩き付けようとした――その手がするりと、何の感触も僕にもたらさずにすり抜けたことは、まだ記憶に新しい。
「あ」
僕は気付き、声を上げている。
「んっふふ……ねえ?」
すっかり涙が引っ込んだ瞳が、どこか小悪魔的な透子さんの笑みを捉えている。
「い、いや、ねえ、じゃなくて……やめてくださいよ……あれ、もう終わった話じゃないですか……」
「んんー? きみがそう思うのは勝手だけど?」
「ええぇ……今さら、ですか」
「一度はそういう経験しておくのも悪くないわよ。ま、今後のきみの異性に対する姿勢次第じゃ、一度きりじゃ済まないかもしれないけど。まあとにかく、観念しなさい」
「わ、わかりましたよ……いや、わかりたくないけど……言ったって聞かないだろうし」
「人を聞き分けのない子供みたいに言わないでもらえる?」
透子さんが、一歩僕に歩み寄る。
その手を振り上げた。
ホラー耐性は盾にならなかったので、とりあえず目を閉じた。
パチンッ、と乾いた音がして、そして頬に感じるのは弾けたような衝撃――
ではなかった。
少ししっとりしていて、温かい――それが、そっと添えられている。
目を開ける。透子さんが微笑んでいる。その手のひらが、僕の頬にぴたと当てられていた。
「……なぁんてね。んなわけないでしょ? ビビった?」
「……なんでそんな意地悪なんですか」
「さあねぇ」と透子さんはとぼけ、指を少し動かす。「変わらないねー。あの頃と」
しみじみと、そう言った。
六歳やそこらの子供と二十一歳の青年の肌質が変わらない、なんてことは、いくらなんでもないと思うけど。
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