第32話 僕を救ってくれた人
透子さんが見つからないまま一週間が経ち、僕は実家に帰っていた。土曜日だから父さんもいて、母さんと三人で昼食のテーブルを囲んだ。
「どうだ、あっちでの生活は」
父さんが訊いてきた。メニューはオムライスだった。僕の好物だ。引っ越し当日の昼にも母さんが作ってくれたのを思い出す。
「うん、まあ……仕事もだいぶ軌道に乗ってきたし……いいと思う」
「そうか……まあ、健康ならな」
「食事だけはちゃんとしなさいね。自炊してると言ってたし、大丈夫だとは思うけど」
以前ついた嘘が尾を引いている。自炊はしていない。透子さんが作ってくれた肉野菜炒めを食べて以降、まったく同じ食生活に戻ってしまっていた。そんなことを思っていたら、透子さんの肉野菜炒めがむしょうに食べたくなった。
「そういえばさ」
昼食を食べ終え、母さんが淹れてくれたお茶を飲みながらくつろいでいる時に、ふと切り出した。
「神薙さん見かけたよ。神薙清見さん」
「あら。『みはるかす会』の?」
僕はうなずく。
「町にある神社で、手を合わせてた。誰か、そこで亡くなったみたいで」
「まあ、そう……」
母さんが少し顔を曇らせる。
「しかしよく気づいたじゃないか。彼女を知ってたのか?」
「『みはるかす会』に行ったんだよ、このあいだ……ちょっと、個人的な問題で」
「何よ、それ……個人的な問題って」
母さんがわかりやすく心配そうな顔を向けてくる。
「大したことじゃない。機会見て話せたら話すよ。でもさ……もう怒る気もないけど、めちゃくちゃビジネスライクな人でさ。こっちの気持ちとか意図は汲んでくれなかったな」
そう言うと、父さんと母さんが控えめに笑いを洩らした。何しろ十五年前、二人は悪霊由来の熱病を発症した僕のために彼女に駆除を依頼しているのだから、さしずめ「わかるわかる」といったところだろう。
「こっちが幻想持っちゃってたって言われればそれまでなんだけど、何しろ熱で死にかけてたところを救われたわけだし、感謝もあったしさ……さすがにちょっと、がっかりしちゃって」
「え?」
母さんのその声に、テーブルに落としていた視線をもたげる。見れば、父さんと母さんが揃ってきょとんとしていた。
「……何?」
「あら、やあね……ちがうわよ。あなたの悪霊を駆除してくれたの、清見さんじゃないわ」
今度は僕が「え」と返す番だった。思いも寄らない内容だった。
「そうか……そこまで話してなかったかな」と父さん。
「じゃあ、誰が……俺の、悪霊を」
「娘さんよ」
母さんがすぐ答えた。
「娘さん……神薙清見……さん、の?」
「そう」
母さんはそう言って、ちょっと待ってて、と言い残して席を立つ。
「あの人に娘さんがいたなんて、知らなかった」
「当時もあまり公にされていたわけではないがね。高校を卒業後すぐ『みはるかす会』で霊能力者として働き始めたと言ってたかな」
まもなく母さんが戻ってきて、「はい、これ」と何かを僕の前に置く。
それは、木組みの写真立てに収まった一枚の写真だった。だいぶ古い写真だ、というのが画質や色のくすみ具合からわかる。スマホで撮影したものをプリントアウトした、というようなものではなさそうだ。
場所は自宅の玄関の前。子供の頃の僕と、今よりもずっと若い母さんが写っている。
そして、写真の中にはもう一人女の人がいた。
「――――――ッ」
目が離せなくなった。
――それは、透子さんだった。
あの古い家で見てきた姿とほとんど変わらない。僕のうしろに立ち、僕の両肩に手を置いて、柔和に微笑んでいる。
髪は今より少し短いようにも見えたが、透子さんであることはまちがいない。
口を半開きにしたまま、思わず息を呑んだ。
まばたきをするのも忘れていた。
その瞬間、僕の脳裏によみがえっていた言葉があった。
別れのきっかけとなってしまったあの日の、透子さんの言葉――
でも……でもね、宗介くん……私は、二十歳やそこらで死なせるために……自分で自分を殺させるために、きみを助けたんじゃないんだよ……
いや、まさか――。
いやいや、まさか――。
いくらなんでも、そんなこと――。
若干混乱しつつそんなことをぐるぐる思いながら、しかし同時に、これまで得てきた情報が、頭の中のネットワークを経由して集まり、つながり始める。
僕は彼女のその言葉を、一緒に暮らし始めた一か月間のことを指しているのだと思っていた。違和感を感じながらも、他に思い当たるものがなかったから。でも彼女らしくないとは思っていた。一方で恩着せがましいとも思った。実際彼女に、その言葉をぶつけた。
ちがったのだ。違和感こそが正解だったのだ。
引っ越してきて日が浅い時に彼女の口から聞いた、「家業のようなもの」という言い方。それは神薙清見と同じ「霊能力者」だったのだ。「正義の味方気取りだった」とか「ビジネスに徹せられない」といった言葉。これは霊能力者として人助けをすることが正義の味方気取りだったという自嘲であり、この仕事を仕事として割り切れなかった、という意味だったのだ。
さらに彼女は、自分はこの仄杜町で命を落としたのだと言っていた。
そして数日前に仄杜神社で見かけた、神薙清見。
井戸の前にたむけられた花束。
それは、つまり――
「ずっと私たちの寝室に置いたままだったから、あなたは見たことなかったかもしれないわね」母さんが言う。「一緒に写ってるその方が、神薙清見さんの娘さん……神薙透子さん、っておっしゃったかしらね」
「ああ、透子さんだ。悪霊駆除のあとで一度だけ宗介の様子を見にいらして、一緒に写真撮りたいって言い出してな。父さんがカメラマンやらせてもらったんだが」
「と……」
透子さん――――
口を開き、言葉がとちゅうで止まる。胸がかすかに震えているのがわかる。痛みに似た、凍みるような感覚があった。
涙腺が緩んだ。僕は写真を手に取ると席を立った。母さんが僕の名を呼ぶのを背中に聞きながら、よろよろと二階の部屋へ向かう。
部屋に入り、ドアを閉めたとたんに涙が溢れてきた。
それは迸るように、止めようがなかった。吐息めいた嗚咽が断続的に洩れた。肩が痙攣したように揺れた。
ほんとうは大声を上げて泣くべきだったのかもしれなかった。でもそれはしたくなかった。それだけに抑えつけられた情動が全身を激しく揺さぶった。
写真を胸に抱いたまま、僕はしばらくそうしていた。
どうしようもなく苦しかった。
でも、かすかに感動もしていた。
自分にはまだ他人のために流せる涙があったのだと知った。
私は、二十歳やそこらで死なせるために……
自分で自分を殺させるために、きみを助けたんじゃないんだよ――
その言葉の意味が、重みが――僕の中で、一瞬で、まったくちがったものに変わっていた。
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