第19話 ロビーの戦いのあとで、湯気と距離が近づく

戦闘の残響がまだロビーの隅々に残っている。

大理石には亀裂が入り、柱の装飾は欠け、粉じんが舞い続けている。

観客や探索者たちは騒然としつつも、名残惜しそうにその場を離れはじめた。

誰もが今日の光景を語り草にするつもりで目を輝かせている。


白石玲奈は、大剣を鞘に納めるとゆっくりと息を吐いた。受付カウンターへ戻る途中、彼女は仲間の受付嬢に指示を出した。


「今のは私がまとめる。会場整理、負傷者の応急処置、目撃者の証言取りまとめ──手分けして。あなたたちには外の長距離連絡と各部署への報告を頼むわよ。安易に外に出さないで、怪我人が出たらすぐに戻して」


同僚たちは少し驚きながらも、彼女の指示に従って次々と動きだす。

玲奈は一瞥で状況を把握して指示を捌く。

彼女の言葉は冷たくもあるが、確実に安全を確保するという温かさが隠れている。


その横で、遼はまだ少しふらつきながら立っていた。

汗まみれ、服は破れ、パーカーの肩には裂け目があり、胸元には砂と血の筋が混ざる。

だが顔はどこか誇らしげだった。

彼の心の中でさっきの戦いは映画のクライマックスになっており、観客の拍手と歓声が延々とエンドロールを流している。


玲奈は遼に近づき、視線を合わせた。

視線の先にあるのは、興奮と疲労が混ざった青年の顔だ。


「あなた。大丈夫?」

「は、はあ……多分。その、俺は大丈夫っすよ。」


玲奈の唇がわずかに動く。

声には出さなかったが、内心で「馬鹿」と思ったのは秘密だ。

だがその「馬鹿」さ加減が、どこか放っておけない。


「今はここで騒いでいる場合じゃない。施設の休憩所へ来なさい。私の指示で動いてもらう」


「え、俺、VIP扱い!? ちょっ、マジで?」


遼は思わず膨らんだ胸を張り、英雄らしいポーズを取ろうとしたが、足元がフラッとした。

周りの余波で笑いが起きる。


玲奈は冷ややかに「ふん」と鼻先で笑い、桁外れに事務的な声で言った。


「騒ぐんじゃない。休憩所でまずは洗いなさい。血と泥まみれのまま休めるつもり?」


遼の頬が赤らんだ。

英雄の姿で風呂に入る——という絵面を想像しかけたが、現実は違う。

彼の服は確かにボロボロであり、放置すれば感染症まではいかなくとも気持ちが良いものではない。


「まあ、女の子の部屋に上がり込んで湯に浸かるってのは色々と……」


遼の頭の中は一瞬で妄想ゲージがブッ飛んだ。

だが玲奈は軽く眉だけを上げ、続けた。


「あなたがここにいたら、庁の秩序も安全も保てない。私が連れて行く。文句は受付嬢特権無駄遣いで済むわ」


遼はごまかすように笑ってついて行く。

二人の間を見送るように、同僚たちは視線を向けつつさっさと業務に戻る。

ロビーはやがて騒がしさを取り戻し、玲奈と遼は背後に遠ざかっていった。




休憩所は、玲奈の「私物」といってもよい小さな個室だ。

外部には公開してない、庁の職員でも許可がない限り入れない。

静かで、落ち着いた空気が流れている。

ソファ、小さなテーブル、そして奥には簡素だが清潔な浴室と個室のベッドがある。

玲奈はドアを閉めると、振り返って遼に言った。


「まず浴室。服を脱いで入って。汚れを落として

くるの。ここで倒れても知らないから」


「えっ、えーと、あの……女湯じゃないよね?」


「安心しなさい、あなたに生足を見せられても私の毒舌が加速するだけだから」


遼は真剣にほっとしている自分に驚いた。

心のどこかで「ヒロインに風呂を薦められる」という些細なことで胸が一瞬だけ跳ね上がる。

だが現実は容赦なかった。

服を脱ぎ捨て、浴室へ向かう途中で自分の姿を省みると、笑いそうになるほど悲惨だった。

裂けたパーカー、焦げた汚れ、皮膚にはかすかな擦り傷。

まるで格好いいはずのスーパーヒーローが安いガラクタになったようだ。


浴室のドアを閉め、湯を張った浴槽に身を沈める。

熱めの湯が疲れた筋肉をほぐしていく。

遼は目をつぶり、心地よさに小さく息をつく。

あの騒ぎが遠い出来事のように感じられる。


(……ふう、これだよ、これが主人公の回復シーンだ。胸いっぱいに湯気を吸って、ここで決意の独白だ)


頭の中で勝手に台詞が流れる。だがそのまま意識がシフトして、まぶたが重くなる。温もりと疲労が結んで、世界がゆっくりと溶けていった。


「……ちょっと、いい?」


外から玲奈の声が聞こえたが、彼の耳は遠い。

夢の中で、彼は再び竜巻と影を蹴破り、観客の喝采を浴びていた。

立派な主題歌が脳内で流れる。

だがその歌はいつのまにかフェードアウトしていき、残るはただ、温かさと心地よさだけ。

浴室の片隅、鏡に映った自分の疲れた顔を見て、彼はふと笑った。

英雄の疲労は、少女漫画のヒーロー並みに美しいのだ。

しかしそこまで考えたところで、瞼はもう開かなくなった。

ゆっくり、ゆったりと沈むようにして、遼は湯の中で静かに意識を失った。



時間がどれだけ流れたかはわからない。

休憩所の外にいた玲奈は、業務を一段落させてやっと落ち着いた。

だが予定より遼の方が長く出てこないことに気づいて、眉を寄せる。

受付嬢としての勘が、何かを告げていた。「遅い」と。


「なんでいつまでもお風呂にいるのよ……」

彼女は自分に呟いて、浴室の扉に向かった。

戸口で一度ノックを入れると、中からの返事がない。

少しだけ力を入れてドアを開けると、湯気がふわりと迎えた。

人の気配を探すように洗い場を見回すと、浴槽の中で沈みかけた遼の黒髪が、湯面にちらりと揺れていた。


「っ……!」


玲奈は浴槽に飛び込みそうな勢いで駆け寄る。

湯気の中、彼女は躊躇せずに彼を抱き上げた。緊張で声が強くなり、髪の先が汗で張り付く。

遼の体はぐったりとして重い。

頬に触れたとき、彼の体温は少し低い気がした。

冷静さを取り戻しつつも、玲奈は内心で小さく怒った。

彼の無茶を叱りたい気持ちと、目の前で無防備に眠る姿に胸がきゅっとなる気持ちが入り交じる。

だが彼女はそこを見せまいと、厳しい顔を作って言った。


「なんで……こんなに遅いのよ。あんた、本当に馬鹿ね」


「す、すいません……英雄気取りで……」


遼はとろりとした半分覚醒の状態で、申し訳なさそうに俯く。

だがその様子がむしろ愛らしく、玲奈はつい眉の端が緩む。


「さっさと上がる。私が拭くから、動けないなら私が運ぶ」


「えっ、ちょっ、そ、それは……」


遼の顔が真っ赤に染まり、現実に嬉しさと恥ずかしさが同居する。

彼の頭の中では再び妄想が始まる。

だが玲奈は露骨な優しさを見せずに、きっぱりと続ける。


「あなたね、ヒーロー気取りはいいけど、受けるべきケアは受けなさい。ここは庁の施設よ。無理に格好つけても見てる方が心配になるだけ」


彼女は素早くバスタオルを取り、遼の頭を支えてそっと引き上げた。

湯気の香りに混じって、さっきまで戦っていた汗の匂いがほんの少し残っている。

玲奈はその匂いを嗅ぎ、ふっと目を細める。

自分でも驚くほど、胸の奥が暖かくなる。

遼をベッドへ運ぶ。

彼女の腕は強い。

深層へ潜っていたときの、あの重量ある剣を振るう筋力がここで生きている。

タオルで彼を包み、体をタオルで軽く拭いながら、玲奈は無口に様子を見守る。

眉間に寄せられた皺を解くように、彼女は小さなため息をついた。


「……ほんと、無茶ばかりする」


「ごめんなさい。次からは気をつけます」


「口ではそう言うでしょ。でも行動が直らなければ、言葉なんて意味がない」


玲奈はワンアクションで包帯や応急キットを取り出し、肩や腕の浅い切り傷に消毒を施す。

遼はまだ半分夢の中だが、手の感触に暖かさを感じて、ふわりと微笑む。

目を閉じたまま、彼の口元に小さな言葉が漏れた。


「…ありがとう」


その一言は、戦いの後の疲労で掠れていたが、胸に直接落ちる音がした。

玲奈は動きを止め、一瞬だけその声に震えた。

小さな頬がまた少し赤くなる。


「……余計なこと言わないで」


だが声はいつもより優しい。

目の端に見え隠れする感情を必死に押し殺して、彼女は布団の脇に腰を下ろした。

遼はベッドで穏やかに眠っている。

眉の形がやわらかで、呼吸が深い。

彼女はその寝顔を見つめながら、ふと自分の幼い日のことを思い出す。

昔、兄がまだ現役で探索者だった頃、同じように彼女も誰かを守ることに燃えていた。

今は立場が変わり「受付嬢」という表舞台にいるが、心の奥底で変わらないものがある。それは「人を守りたい」という素直な願いだ。


「馬鹿ね、あんた」


玲奈は小さな声で呟く。

口では叱っているが、手は思わず遼の頭を軽く撫でた。

短い触れ合い。

その指先に伝わる体温が、彼女の胸をわずかに震わせる。

遼が夢の中でまた小さな声を漏らす。

今度はしっかりとした声で、寝言めいた台詞が聞こえた。


「俺、もっと強くなる。玲奈さんに迷惑かけないように……それと、あの時の出来ごとは俺の……あ、寝言だよ、寝言!」


玲奈は苛立ち混じりに吹き出し、ついでに顔を赤らめる。

ツンデレの常として、彼女は素直に喜べない。

腕を組んで背を向けるが、視線は自然と遼に向いたままだ。

夜の空気が静かに流れる。

外からは庁の低い照明と、遠い車の音がかすかに聞こえる。

二人だけの時間が、ほんの少しだけ長く感じられた。

彼女はベッドの傍らで小さなメモを取り、応急処置の記録を残す。

プロとしての細やかな仕事だが、その一方で、彼に今後どう接するかという個人的な配慮も一つ書き添えた。

例えば、「食事の提供」「睡眠の継続監視」「後日談話(精神ケア)」など、些細でありながら気遣いに満ちた項目だ。

書き終えると、ペンを置き、瞳に光が宿る。


「……ふふ、まあ、面倒を見てやるか」


口は冷たいが、その言葉はどこか甘い。

自分でも気づかぬうちに、彼女の中に芽生えた感情が少しずつ根を張り始めている。

遼はまだ眠り続ける。

時折、口角がぴくりと動き、夢の中で笑っているのだろう。

玲奈はベッドの隅で小さく笑ってから、掛け布団をそっと引き上げた。

冷たい受付嬢の仮面の奥に隠れた、暖かな人間らしさがそこには確かにあった。

最後に玲奈は、遼の額に指先を軽く当てて熱を測るふりをした。

無意味な仕草だが、自分の中での「保護の印」として納得できるものだった。

小さく唇を噛み、明日の予定を考える。

気づけば彼女の頬にほのかな紅が差している。


「くだらない……でも、あんたのことは放っておけないのよ」と呟きつつ、瞼を閉じる。

そのまま彼女も椅子に腰を下ろして、静かに夜の時間を共有した。

二人の距離は、いつのまにかずっと近づいていた。

英雄気取りの新人と、紅蓮の剣姫にして氷の受付嬢。

物語はまだ長い。

だがここから少しだけ、誰かを守るという事情が、二人の関係を「個人的なもの」へと動かしていくのだった。

A little later—と誰かが言いそうな、ふざけた安堵と本気のほのかな恋の片鱗が、休憩所に残された湯気の中で静かに漂っていた。

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