第2話 信頼と検証の狭間で

 アーサーは自分がばかげていると確信していた。優秀で経験豊富な上司が、たかがカフスボタンのデザインと、些細な魔導式の類似だけで、敵のスパイであるはずがない。これは明らかに、新しい環境への適応ストレスと、スパイ小説の読みすぎが組み合わさって引き起こした、軽度の妄想症の初期症状だ。


「落ち着け、ペンドラゴン。」彼は朝の出勤途中、地下鉄の揺れる車内で自分に言い聞かせた。「君は魔導考古学者であって、妄想小説の主人公ではない。」


 その決意は、オフィスに足を踏み入れるまで続いた。デスクの上には、新しいファイルが山積みにされていた。マルコム卿からの付箋が貼ってある。「ペンドラゴン君、こちらにも『興味深い特徴』がないかチェックを頼む。―― M.F.」


 アーサーは一瞬、息をのんだ。これは単なる業務連絡か? それとも、何か含みのある言葉なのか? いや、違う。卿は単に、彼の専門知識を活用しているだけだ。そうに違いない。


 彼は深く息を吸い込み、一番上のファイルを開いた。今回は東欧諸国との「魔導技術交流」に関する往来文書の分析だった。一見、さらに退屈な仕事に見えた。しかし、アーサーの目は、自分でも制御できないほど注意深くページを追い始めていた。シレジアの結節点のようなものはないか? あるいは、あのカフスボタンの模様に似た文様は?


「中毒だな、まったく。」彼はこっそりと呟き、強制的に視線を文書の内容そのものに向けようとした。


 昼食時、彼は職員食堂で一人席に着き、サンドイッチを味気なくかじっていた。そこに、資料課のエミリー・カーターがコーヒーカップを手に近づいてきた。三十代前半の、物静かで常に礼儀正しい女性だ。


「お邪魔ですか、ペンドラゴンさん?」彼女の声はいつもより少しだけ柔らかく聞こえた。


「いえ、どうぞ。」アーサーは向かい側の椅子を指した。


 エミリーが座ると、彼女の左手がアーサーの目に留まった。指に一本、シンプルな銀の指輪をはめている。そして、その指輪の表面には――彼の心臓が一拍、飛び跳ねた――複雑に絡み合った細かい彫刻が施されていた。遠目には単なる装飾にも見えるが、あの「結節点」の図案とあまりにもよく似ているではないか!


「…ペンドラゴンさん?」エミリーが不思議そうな顔をした。アーサーは我に返り、自分が彼女の指輪をじっと見つめていたことに気づいた。


「あ、すみません。」彼は慌ててサンドイッチを一口かじり、でたらめな言い訳を考えた。「その指輪…素敵なデザインだなと思って。」


 エミリーの表情がほんのりと曇ったように見えた。あるいは、それも気のせいか。


「ありがとうございます。」彼女は指輪をそっと撫でながら言った。「故郷からの…お守りみたいなものなんです。」


「故郷?」アーサーは聞いた。自分の声音が少し鋭くなりすぎたかもしれない。


「ええ、ルーマニアの小さな村です。」彼女はコーヒーを一口すすり、どこか遠くを見つめるような目をした。「子供の頃から持っているんですよ。現地の職人さんの手作りだとか。」


 ルーマニア。東欧。魔導の古い流派が残る地域。アーサーの頭の中で、歯車が一つ、カチッと噛み合った。


「そうなんですか。」彼はできるだけ平静を装って言った。「確かに…独特の味わいがありますね。」


 会話はすぐに途切れた。エミリーはそっと会釈し、席を立った。アーサーは残されたサンドイッチを見つめながら、自分がまたしても同じ過ちを犯したことを悔やんだ。彼女は単に故郷を思う、ごく普通の女性職員だ。それなのに、彼はその身の上に、理由もなく疑いの目を向けてしまった。


「ペンドラゴン、君は病的だ。」彼は心の中でつぶやいた。


 午後、彼はマルコム卿のオフィスを訪れ、東欧文書の初期分析結果を報告した。卿は相変わらず穏やかにうなずき、時に鋭い質問を挟んだ。


「…そして、ルーマニア側の提案には、いくつか注意すべき点があるように思います。」アーサーは結論付けようとした。


 その時、マルコム卿がデスクの上の銀の印章を手に取った。アーサーの目が、それに吸い寄せられた。ライオンの彫刻。そして、その足元に刻まれた、あの忌々しい絡み合った文様。


 卿は何気なく印章を弄びながら、アーサーの報告に耳を傾けている。その動作は無造作に見えた。しかし、アーサーには、卿の指が、特定の部分――まさにその「結節点」らしき模様の上を、繰り返しなぞっているように見えてならなかった。


「…ペンドラゴン君?」


「はい?!」アーサーははっとした。


「話は終わったのかね?」マルコム卿はわずかに眉を上げた。その視線は、銀縁の眼鏡の奥で、冷静にアーサーを観察しているようだった。


「は、はい。以上です、sir。」


「了解した。」卿は印章を置き、書類を整えた。「では、詳細な分析を続けてくれ。」


 アーサーがオフィスを出ようとすると、卿がふと口を開いた。


「そうだ、ペンドラゴン君。」


 アーサーは振り返った。


「何か気になることがあれば――どんな些細なことでも――遠慮なく報告してくれ。」マルコム卿の口元が、ほんのりと微笑んだ。「我々の世界では、『思い過ごし』であることが判明する方が、『見逃し』を後悔するよりずっとマシなのだから。」


 その言葉は、上司としての当然の励ましに聞こえた。しかし、アーサーの耳には、何か別の意味――ほとんど挑発的な響きに聞こえてしまった。


 自分の席に戻り、アーサーはしばらく呆然としていた。卿は単に親切心から言ったのか? それとも、彼の疑念に気づいていて、それとなく牽制しているのか? あるいは、さらに悪いことに、彼をテストしているのか?


 彼はデスクの引き出しを開け、昨日つけたばかりのメモを見つめた。「シレジアの結節点? カフスボタン?」その下に、彼は無意識に新しい行を追加していた。「エミリー・カーター。ルーマニア。銀の指輪。」


 彼はため息をつき、そのメモをくしゃくしゃに丸めてゴミ箱に投げ入れた。


「妄想はもう十分だ。」


 その夜、アーサーはロンドンの裏路地を歩きながら、自分を戒めた。彼は普通の生活を送る必要があった。スパイではない、普通の二十代の男性のように。


 彼はよく行くパブに入った。アレクサンダー・“アレックス”・マクドゥガルは、すでに隅の席でスタウトのジョッキを待っていた。大学時代からの数少ない友人の一人だ。民間人。


「おい、アーサー! ここだよ!」アレックスは陽気に手を振った。「新しい仕事はどうだ? ついに何か面白いことをしているのか? 『英国博物館の魔導遺物整理係』とか?」


 アーサーは弱々しく笑った。「まあ、そんなところだよ。」彼は注文したエールを一口飲み、ほっと一息ついた。ここには疑念も陰謀もない。ただのパブの雑音と、友人の無邪気な好奇心だけだ。


「でもな、アーサー。」アレックスは突然、少し真面目な顔で言った。「お前、少し疲れて見えるぞ。大丈夫か? その…『博物館』の仕事、プレッシャーがきついのか?」


 アーサーは答えに詰まった。彼はすべてを打ち明けたい衝動に駆られた。奇妙な上司、指輪の同僚、そして自分自身のどす黒い疑念について。しかし、もちろん、そんなことはできない。


「ああ、ちょっとね。」彼はエールのジョッキを揺らした。「どうやら、僕は…物事を深読みしすぎる癖があるみたいだ。」


「深読み?」アレックスは笑った。「お前がか? 驚いたな! 中世の魔導紋章の意味を十年かけて議論してる連中の中にいたんだぞ? そりゃ、深読みのプロだろ!」


 その言葉は、冗談のつもりだった。しかし、アーサーの心には、鋭い痛みを伴って刺さった。彼はまさにその「深読み」のせいで、自分の新しい人生を台無しにしようとしているのではないか?


 パブを出て、冷たい夜気が顔を撫でる。アーサーは空を見上げた。星はロンドンの明かりに霞んで見えない。


 彼はある決断をした。正気を保ちたければ、この愚かな疑念を断ち切らなければならない。マルコム卿は忠実な僕だ。エミリー・カーターはただの同僚だ。銀の装飾は、単なる銀の装飾だ。


 彼はそう心に誓った。


 しかし、彼が知らなかったのは、そのほんの少しの「深読み」こそが、この「家内工業」という名の危険な森で、唯一彼を生き延びさせ得る道具であることを。


 そして、その道具は、一度手に取ってしまうと、もう簡単には手放せなくなるものだということを。

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