救国の乙女は、胸のうちを明かせない。
七條太緒
序 雨の月夜に舞い降りた祈り
雨が、降っている。
窓を濡らし続ける雨は、硝子の表面にたどたどしい線を描いて落ちていく。
だが、風はなく静かに更けゆく夜だった。
暗がりの中、ベッドから身を起こした少女は窓際へと歩み寄る。素足が踏む床板までもが、どことなくしっとりしている気がする。
湿っぽい溜息は、硝子に一瞬小さな白濁を作って消えた。
雨が降り始めてからもうすぐ一週間になる。そのせいで、少女はずっと家の中にいなければならなかった。
けれども、大人たちは、天気に関係なく用事があれば外に出ていた。五歳年上の兄だって、そのまた一つ上の姉だって。
それなのに。
二日前、出かける姉に自分も一緒に連れていってほしいとせがんだ。
「何言ってんのよ。それでまたあんたが熱を出したら、私が怒られるじゃない」
すっぱりと断ると、姉は振り返り困ったように笑った。
「……晴れたら、連れて行ってあげるから」
嘘つき。
ちっとも晴れないじゃない。
唇をとがらせ、窓際に乗せた両肘の上に顔を乗せる。ゆらゆらと体を揺する度、亜麻色の髪が頬を撫でた。
自分が生まれて間もない頃に、女神さまはいなくなったらしい。
――あの頃の日照りに比べりゃあ、こんな雨なんて大したことないね。むしろ有難いくらいさ。
大人たちは、口を揃えてそう言う。どこか楽し気にさえ見える表情で。
「……よく言うよ。ほんとは晴れてもらわなきゃ困るくせに」
そろそろ種まきを済ませないと、夏野菜の収穫に間に合わない。あまり丈夫でない自分が手伝える、数少ない仕事なのに。
雨なんて、ちっとも有難くなんてない。
恨めし気に窓の外に視線を投げた、その瞬間。
「……?」
少女の青い瞳は、淡い光を捉えていた。丸まっていた背中が伸びる。
村はずれにある小高い丘の上で、白っぽい明かりがふわふわと浮遊していた。
「なに、あれ――」
蛍、にしては大きすぎるし、色も違う。誰かが灯りを持っているのだろうか?
いや、こんな雨の夜にあんな場所で何の用事があるというのか。
お月さま?
気づけば、長く覆っていた曇天から梯子のような月光が降り始めていた。
皓々と輝く月の下、夜を纏った木々の間を仄かな光が渡り歩く。
そのまま行き過ぎるのかと思えば、すっと後退したりその場で留まってみたりと不規則な動きを繰り返している。
まるで、踊るように。
「…………っ」
ぱっ、と少女は踵を返した。そっと、そうっと扉を開ける。音を立てないよう、慎重に靴を履いて――外へと踏み出す。
大丈夫、まだみんな眠ってる。
ちょっと近くまで行ってみるだけ。
あの光が何か、わかったら帰るんだから。
静かな雨が、少女の髪を濡らしていく。月明りがまだ幼い輪郭をやさしく浮かび上がらせていた。
だんだんと、丘が近づいてくる。遠かった光が、大きくなっていく。
「――――」
少女の足が、動きを止めた。傍に立つ木に寄り添うように立つ。その青い瞳は丘の頂上を見つめ続けている。
ああ、ほら。
雨が降り過ぎたせいで、月が溶けちゃったんだ。
そう思ってしまうほどに美しい光景が、少女の瞳に映し出されていた。
月の雫のように見えたのは、人だった。
自分と同じ年頃の少女が、夜天の下で舞っている。優美な動きに合わせて、赤銅色の長い髪が揺れる。月光に照り輝くさまは、絹糸にも似て。
「…………」
声も出せずに、ただ見惚れる。
雨音の隙間を縫って響くのは、鈴の音を思わせる声。小さくて言葉は聞き取れない。けれども、それが何かの旋律を奏でていることはわかった。
ゆっくりと、踊る少女の瞳が開く。
まるで、晴れ渡る空のような青。その清々しい色は、見つめる少女の心の中までも届きそうな光を湛えていた。
少女は、理解した。
これが、”祈り”なのだと。
翌朝、雨は止んだ。
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