第2章 優しさの境界線

 朝の鐘が、遠くで七度鳴った。

 けれど私は、まだ起き上がれずにいた。

 ――夢を見た。

 石畳の上に、自分の影が二つあった。ひとつは幼い私。もうひとつは黒いローブの女。二つの影が重なるたび、背中に熱い痛みが走る。

 目を覚ますと、シーツの端を強く握りしめていた。


「……ただの夢。ただの記憶の残骸」

 言葉にして、押し戻す。昨日のラベンダーの香りがまだ薄く残っていて、息を整える。

 私はゆっくり起き上がり、カーテンを開けた。朝露の光が床に散らばる。


 扉が軽く叩かれた。

「おはようございます、お嬢さま」

「マレーナ?」

「はい。侍医殿から“昨夜は眠れましたか”との伝言です」

「……まあ、途中で少し起きたけど」

「では、半分眠れたということでございますね」

「それ、変な励まし方です」

「半分は成功ですから」

 マレーナは微笑んで、湯気の立つミルクを盆に置いた。その匂いに少しほっとする。

 この人の笑顔は嘘っぽくない。けれど、“信じてはいけない”という警報が頭の奥で鳴る。

 優しさの裏には、きっと境界がある。私はまだそこを見つけていない。


 朝食のあと、兄様――アドリアンがやってきた。

「今日は父上の執務室へ行く?」

「行きません」

「じゃあ庭?」

「……図書塔。昨日の続き」

「また禁書庫の近く?」

「近くまで、です」

「“まで”ね。うん、覚えておく」

 兄様はいつものように私の背を軽く押し、歩調を合わせてくれる。


 階段を上る途中、私はふと昨夜の壁の石板を思い出した。あの抜け道は、偶然なのか。それとも――。

 兄様の目を盗んで戻りたい衝動を抑えつつ、私は質問を投げた。

「ねえ、兄様。この城って、昔、戦争に使われてたことある?」

「あるよ。祖父王の時代に、北方との小競り合いが続いていた。なぜ?」

「抜け道とか、あったりするのかな」

「ん?」

「もし敵が攻めてきたとき、逃げるための道」

 兄様は少しだけ口角を上げた。

「そういうことを聞くのは、歴史好きの子だけだと思ってたけど……レティ、逃げ道が好きだね」

「好きじゃないです。必要だから」

「じゃあ、もしもの時に案内するよ。だけど、今日は“もしも”じゃない」

 ――そう言って、彼は私の頭に手を置いた。

 暖かい。その手の温度が、心の奥の氷をまた少し溶かす。


 図書塔の三階。昨日の本棚の隣に、まだ触れていない一冊があった。

 タイトルは『古き王国の儀式と契約』。

 装丁の金の線が少し掠れている。私はページを開いた。

 ――その瞬間、息が止まる。


 《罪ある魔女は、己の血で契約を贖う。火はその証を天に返す。》

 文字が、脳裏に焼き付いた。

 指先が震える。ページの端が、火に照らされたように赤く見えた。

「……レティ?」

 兄様の声が現実に引き戻す。

「なんでもない。ただの、昔の言葉」

「顔色が悪い。座ろう」

 椅子に腰を下ろすと、兄様が膝を折り、私の目線に合わせた。

「過去のこと、無理に思い出さなくていいよ」

「……でも、知らないままだと怖い」

「知ることと、傷を開くことは違う」

 兄様の言葉が、柔らかくも鋭く突き刺さる。

 ――この人は本当に“優しい”。だからこそ、信じたら壊れる気がする。


 午後、母上が自ら図書塔に姿を見せた。

 王妃が子どもを迎えに来るなんて、普通なら有り得ない。

「まあ、本に夢中ね。お日様が恋しがっているわよ」

 そう言って、母上は手を差し伸べる。私は一瞬だけ躊躇してから、その手を取った。

 指が細くて、温かい。どこまでも穏やか。

「お外へ行きましょう。今日は“風見の丘”まで」

 風見の丘――城の裏手にある高台。

 マレーナが籠を持ち、兄様が後ろからついてくる。まるで家族の遠足みたい。

 私は胸の奥で何度も「これは作戦だ」と唱えた。こんな幸福は、長く続くはずがない。


 丘の上には白い風車が立っていて、羽根がゆっくり空を掻いている。

 母上が籠を開け、焼き菓子を差し出した。

「今日はあなたの好物を焼いたの。覚えているかしら?」

「……蜂蜜のクッキー?」

「そう。三滴分」

 思わず笑いが漏れた。

 あの朝のやり取りを覚えているなんて。

 ――こういうところが怖い。どこまで“観察”されているんだろう。


 焼き菓子の甘さが口の中に広がると、空が淡く滲んで見えた。

 母上が風を背に受けながら、私の髪を撫でる。

「レティ。優しさを疑うのは、悪いことじゃないのよ」

「……え?」

「信じる前に考えることは、あなたが“生きるために”身につけた力。だから、そのままでいい」

「でも、信じないと誰も……」

「誰も愛せない?」

 母上は微笑んだ。

「愛は、信じることの手前にもあるのよ」

 意味が、すぐには分からなかった。

 でも、その声の優しさが、なぜか胸の一番奥に届いて、涙が出そうになった。


 丘を下りる帰り道、兄様が少し遅れて歩きながら言った。

「母上の言葉、難しかった?」

「うん。でも、少し分かる気もする」

「どんなふうに?」

「……“優しさ”は、信じる前に受け取っていいのかもしれない」

 自分で言って、自分で驚いた。

 兄様は静かに笑って、空を見上げた。

「それなら、レティ。明日、もう一つ見せたい場所がある」

「どこ?」

「城の東棟。昔の礼拝堂だ。今は誰も使っていないけど、僕が子どもの頃によく隠れていた」

「隠れて?」

「うん。父上に説教されたあととかね」

「兄様でも怒られるんだ」

「当たり前さ。僕も人間だよ」

 兄様の笑い声に、風が混じった。私は思った。

 ――もし、あの礼拝堂に例の抜け道がつながっていたら。

 明日、確かめよう。観察の続きだ。


 夜。

 寝台に横になっても、眠気はなかなか来なかった。

 昼の光景が何度も浮かんで、心の中で波のように押し寄せる。

 母の言葉。兄の手。焼き菓子の甘さ。

 全部が現実なのに、夢のようだった。


 でも――あの石板の手触りだけは、はっきりとした“現実”だ。

 私は毛布を押しのけ、裸足で床に降りた。

 廊下の月明かりが青く光る。

 足音を忍ばせながら、昼間の回廊へ向かう。


 壁の前に立つと、心臓が早鐘を打った。

 指先で、あの石を押す。

 カチリ。

 薄い風が頬を撫で、闇の向こうに階段が覗いた。

 ――あった。

 私は一段降り、もう一段降りた。

 石の匂い。冷たい空気。何かの記憶が足首を掴む。

 火の熱、叫び声、誰かの名。

 喉の奥で息が詰まり、私は壁に手をついた。

 そのとき、背後で灯りが揺れた。


「レティ」

 兄様の声。

 手にランプを持って、階段の入口に立っていた。

 逃げ場は、ない。

「……観察の続き、です」

「夜の観察は禁止のはずだけど?」

「規則には書いてありません」

「じゃあ、明日から書いておこう」

 兄様はため息をつきながらも、怒っていなかった。

「怖くなかった?」

「……少し」

「なら、今はここまでにしよう。抜け道は逃げるためだけじゃない。戻るためにも使える」

「戻る?」

「うん。どんなに遠くへ行っても、帰ってくる道を忘れなければいい」

 その言葉に、私は胸がいっぱいになって、何も言えなかった。

 兄様は私の手を取って、ゆっくり階段を登った。


 夜風が、二人の髪を揺らす。

 振り返ると、闇の向こうに閉じた扉。

 秘密はまだ、そこに眠っている。

 でも――今の私は、もう少しだけ、この“優しすぎる世界”に触れていたい。

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