第一章 第3節 恐律の影⑨

金と翠の光が空に散ったあと、灰の大地は深い静寂に沈んでいた。

イリスとナーファの共鳴律の余波が消えゆく中、

黒の王――ナールは、片膝をついていた。


その身を覆う黒霧は千切れ、形を保てず脈打つ。

裂けた胸元からは“恐れの霧”が滲み、風に焦げるように散っていく。

だが、瞳だけはなお深淵の色を宿していた。


「……感情の律で、私を揺らがせるとはな。」

その声は低く掠れていた。

「だが、“理なき光”では恐れを滅ぼせぬ。お前たちは、恐れの定義を知らない。」


イリスはルミナリアを構えたまま、無言でその言葉を受け止めた。

紫銀の瞳はわずかに揺れるが、もはや感情の色はない。

「……定義の外でさえ、恐れは存在する。

 ならば――理の枠で“静める”まで。」


アッシュの視界が、淡い白光に満たされた。

ノルディアの中枢が反応し、空間演算式が自動展開する。

その光は音のない祈りのように静かに瞬き、世界の秩序をひとつずつ織り直していった。

彼の声は、静かでありながら、どこか“始まり”のような響きを帯びていた。


「――観測域、全系統展開。ゼロ・モード、起動。」


幾何光が灰の大地に刻まれ、空間の座標が再構築されていく。

時間が滲み、光が捻じれ、現実の膜が呼吸する。

それは理の律動そのもの――沈黙の中で息づく“調律の前奏”。


ナールが立ち上がる。

足元の影が広がり、空が歪んだ。

世界そのものが、彼の呼吸に合わせて軋む。


「恐律第五階位――《虚界(デスパイア)》。」


その名を告げた瞬間、

祈祷塔の残骸が反転し、灰の大地が裏返る。

世界が“恐れ”の心象構造に変わる。

重力は崩壊し、上も下もなく、すべてが影の律に引きずり込まれた。


アッシュが一歩前へ出る。

「空間変異確認。理構造、崩壊率七十六パーセント。」

ノルディアが展開され、数千の光式が立ち上がる。

その一つひとつが空間を支える“理の杭”だった。


「……理で空を固定しようとするか。」

ナールが指先をひと振りすると、杭は黒に染まり、

恐怖の波動が理の構造を食い破っていく。


「理は恐れの前で沈む。秩序は脆弱だ。」


アッシュは応じない。

ノルディアの光が瞬き、白銀の陣形が反転する。

「理構造、再演算。――観測域、自己中心に固定。」


足元の灰が反転し、世界の上下が消える。

アッシュの身体は、世界の座標そのものと同期した。

観測と存在が重なり合う――“ゼロの演算領域”。


ナールの黒剣アビュスが唸る。

刃が虚空を裂き、“恐れ”の断層を生む。

その軌跡が触れた場所はすべて、音を失い、存在を忘れる。


しかしアッシュは、観測を断った。


「観測――遮断。」


世界が一瞬、無呼吸となる。

音も重力も、命の輪郭さえ凍結した。

彼の輪郭が崩れ、存在が“ゼロ”へ近づく。

視覚も質量も剣速も――すべての定義を放棄した“無の動き”。

ナールの刃は虚空を裂いたが、そこに“アッシュ”は存在していなかった。


次の瞬間、ノルディアの白光が背後から閃いた。

「……ゼロの観測、完了。干渉、再定義。」

白い刃が黒を断ち、時間が跳ね返るように空が震える。

ナールの腕が裂け、黒霧が飛散した。


だが、ナールは笑っていた。

「理で私を封じようとするか。愚かだ――“無”もまた恐れの影だ。」

その声が響くたびに、虚界が軋む。

空間の継ぎ目が悲鳴を上げ、灰の層が波紋のように反転した。


「――恐れは死なぬ。恐れこそが、理を創る!」

ナールの叫びとともに、影が爆ぜ、黒の奔流が押し寄せた。

世界の座標が歪み、時間が軋む。

虚空が燃え、街が再び“恐怖の律”に覆われる。


その瞬間――風が、再び歌った。

翠の光が灰を巻き上げ、風が世界を縫い合わせる。


ルーファの声が届く。

「イリス、今――」

イリスが頷く。

「理の均衡、保持。アッシュ、行って。」


アッシュがノルディアを掲げる。

「調律開始。観測域、全系統収束。――ゼロ・モード、最終展開。」


ナールが吠える。

「終わらぬ理こそ、恐れの源だ!」


その手が再び黒剣アビュスを呼び寄せた。

もはや刃ではなく、“恐れの凝縮”そのもの。

世界を斬るための剣――存在の境界を断つための最後の意志。


ナールが咆哮する。

「ならば――恐れごと、この世界を飲み込め!」


黒剣が振り下ろされ、空間が音もなく裂ける。

時間が滲み、光が崩れる。

だが、その中心に立つアッシュは、微動だにしなかった。


「存在式、再定義。恐れ――観測の内に還す。

 観測結果、ゼロ。

 恐怖は滅せず、静寂として世界の基調に融ける。」


ノルディアの白光が奔り、黒剣を包み込む。

光と闇が一瞬交錯し、世界が反転する。

黒は形を失い、ナールの腕から崩れ落ちていった。


ナールの叫びが、世界を貫いた。

「終われ――理の器ッ!!」


その声に呼応するように、虚界が震え、闇の層が波紋のように広がる。

だが、それを呑み込むように、アッシュの声が重なる。


「……終焉――否定。

 これは、“静寂の再調律”。」


ノルディアが閃光を放ち、世界が白に満たされる。

音が消え、風が止まり、すべての“恐れ”が静寂へと溶けていく。


ナールの影が崩れ落ちる。

その唇が、最後に微笑んだ。

「ゼロの調律……その静寂が、やがてお前たちを喰らうだろう。」


光が世界を満たした。灰が燃え、風が還る。

恐れは静まり、ただ“呼吸”だけが残った。


アッシュの視界に、世界の数値が零へと収束していく。

ノルディアの中枢が静かに明滅し、すべての演算式が一つの結果を示した。


「――調律完了。対象、封印安定。恐怖波、静止。」


声は無機質でありながら、そこに微かな“安堵”の律が混じっていた。

理の器であるはずの彼が、わずかに息をついた。

それは、人ではなく“調律そのもの”が呼吸を覚えた瞬間だった。


イリスが膝をつき、ルミナリアを支える。

紫銀の光がかすかに脈動し、静寂の中で安堵の息を吐く。

ルーファが隣で空を仰ぎ、風の鼓動を聴いた。

「……風が、泣いてる。」


イリスは静かに目を閉じる。

「泣いていい。

 風が生きている証だから。」


アッシュがノルディアを降ろす。

その白銀の核が、かすかに脈を打った。

それは感情ではなく――“理の震え”。


その奥で“何か”が――かすかに、息づいていた。

名もなく、まだ形もない“影の律”。

世界が均された後に生まれる、静かな歪み。


誰も気づかぬまま、それは世界の底で、確かに息づいていた。


――それは、まだ言葉を持たぬ“新たな律”の胎動。

けれどこの時、誰一人、その鼓動の意味を知らなかった。

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