第一章 第1節 灰の黎明④
灰が風を裂くたび、影が増えていった。
世界の静寂が、裂け目の底から漏れ出すように。
感情喰らい――空虚の残滓。
封印から漏れ出した“ヴォイド”の欠片が、
この地の歪みに吸い寄せられ、形を取り始めていた。
イリスはその中心に立つ。
紫の瞳が静光をたたえ、手のひらには白銀の符文が浮かぶ。
「……数が増えているわ。封印の歪みが、群体化を許している。」
アッシュの無色の瞳が灰の海を走査した。
「二十六。再生周期、約三秒。
単一撃破では意味を成さない。」
イリスは一歩、灰の地を踏みしめた。
その瞬間、空気が変わる。
灰の粒が一斉に逆流し、
塔の残響が、彼女の存在に呼応して微かに震えた。
アッシュが観測を呟く。
「魔素濃度、異常上昇。……観測値、規格外。
貴女の魔力出力――記録上、神話域。」
イリスの横顔に、わずかな影が差す。
「神話域……ね。
けれど、力とは常に均衡を崩すもの。
調律の巫女が全てを解き放てば、世界の“律”そのものが壊れてしまう。」
風が彼女の白銀の髪を撫でる。
そのたびに空気の律が歪み、灰が光を孕んで軋む。
ほんのわずかに“力”を解放しただけで、
天地の魔素が震え、世界が息を潜めた。
(だから――私は、もう二度と暴走させない。
あの夜のように。)
瞳が紫紺に沈み、蒼紫へと揺れた。
抑制。制御。
その繰り返しが、彼女の存在そのものだった。
アッシュはわずかに視線を動かす。
「力を封じながら戦う……非合理。」
イリスは静かに息を吐いた。
「合理だけが、答えではないの。
この世界は“感情”で壊れ、“感情”で成り立っている。
だから私は、力を抑えながら均すしかない。」
風が髪をかすめ、白銀の束が淡く光を返す。
「力を使えば、確かに早い。
でも、感情の奔流に呑まれれば――それは私が最も忌避する“破滅”へと繋がる。」
アッシュの無色の瞳が、静かに彼女を見つめる。
「合理性を欠く選択。……それでも、行うのですか?」
イリスはゆっくりと頷く。
「ええ。力を使うことが救いにならないのだとしても。
――放棄することは、もっと罪だから。」
掌を掲げる。
灰の空に微光が集まり、音もなく震えた。
八つの感情を制御しながら、ただ一つ――“悲哀”だけを選ぶ。
「ならば、せめて。
哀しみを、静かに終わらせるために。」
イリスの瞳が淡い蒼に染まり、光が走った。
「静寂の海よ、哀しみを映せ――」
「悲律・
声は囁き。
しかし次の瞬間、風が泣いた。
蒼の旋律が空を切り裂き、波紋が灰を吹き飛ばす。
感情喰らいの群れが一斉に凍りつき、
その身を覆う灰の膜が剥がれていく。
「足止め完了。アッシュ――」
「了解。」
アッシュが踏み込む。
地を蹴る動きに、一片の無駄もない。
呼吸は揺らがず、筋肉の収縮すら“計算された機構”のように正確。
その瞬間、彼の全身が一つの方程式となり、衝撃と反動が完璧な均衡を描く。
腕に装着されたノルディアが白銀に脈動し、空気が震えた。
その拳が感情喰らいの胸を撃つ。
衝撃波が走り、灰が光に変わり、
一体が音もなく消滅した。
だが、次の瞬間。
灰が流れ、消えたはずの影が再び立ち上がる。
「再生確認。」
アッシュの声は機械的だが、その間には微かな“苛立ち”があった。
「中和波、効率不足。出力制御、誤差範囲外。」
イリスの眉が動く。
「……出力が乱れたのね。
覚醒したばかりの貴方には、まだ“感情波”の揺らぎが読めない。」
アッシュは沈黙する。
「理解。次回、補正。」
イリスは短く頷き、灰の群れへと視線を戻す。
「……中和の理は完璧でも、それを扱う貴方は、まだ人の形をしている。」
灰の波が地平を覆い、群れが咆哮を上げる。
世界そのものが、感情を吐き出しているようだった。
「後退を――」
そう言いかけた瞬間、
アッシュの足元の灰が爆ぜた。
影が伸び、絡みつく。
その形は人の腕。
否、かつて“誰かの絶望”だった残響。
アッシュの身体が一瞬沈む。
ノルディアが白光を放ち、灰の腕を中和する。
イリスの瞳が紫紺に沈み、蒼紫へと揺れた。
「……怒りよ、焼き払え。」
右手が弧を描く。
火のようでいて、熱を持たぬ紅の奔流が灰を薙ぐ。
怒りと悲哀、二つの感情が同時に共鳴し、
灰の空が悲鳴を上げた。
「悲しみと怒りよ、交わりて焔を為せ――」
「複合律・
紅と蒼が混ざり合い、紫紺の爆風が奔る。
灰が吹き飛び、地平が光に割れた。
光が消えるまでの一瞬――音がすべて止まっていた。
それは、世界が痛みに耐えるための“沈黙”のようだった。
「二重複律……出力制御、限界近い。」
「問題ないわ。これで均す。」
彼女の言葉と同時に、灰の地が光に裂かれた。
感情喰らいたちが悲鳴を上げ、灰の中に沈む。
だが、灰の底から新たな黒煙が湧き上がる。
群れの中央に、巨大な影が現れた。
人の形をしている。だが顔がない。
その胸の空洞が脈動し、
中から“声なき叫び”が漏れた。
アッシュが構える。
「大型個体。反応、異常強度。」
「……因子密度が高い。あれは――核。」
イリスは静かにルミナリアを掲げた。
白銀の杖が低く共鳴し、空気の粒が震える。
微光が杖の先端から滴り、音にならぬ音が世界を撫でた。
「静謐なる理よ、すべての波を均せ。
怒りを沈め、悲しみを癒し、喜びを還せ。
我が声は調律の弦――」
灰が光り、符文が地を覆う。
塔の残響が遠くで共鳴し、世界の色が揺らぐ。
だが、感情喰らいの核が咆哮する。
灰の腕が伸び、詠唱中のイリスを貫かんと迫る。
その瞬間、白銀の閃光が走った。
アッシュが身を投げ出し、腕でそれを受け止める。
ノルディアが唸り、灰の腕を中和。
「イリス、詠唱を続行。」
声には感情がない。
だが、わずかな“熱”があった。
イリスの視界に、灰の中でアッシュの姿が揺れる。
その姿にいつかの記憶が重なった気がした。
そして、詠唱が完成する。
「――均衡は、此処に在る。」
「調律・
灰の粒はゆっくりと落下し、音のない安息が訪れた。
世界が――ほんの一瞬、呼吸を思い出したかのようだった。
感情喰らいの群れがひとつ、またひとつと消えていく。
イリスはそっと目を閉じ、静かに祈りを捧げた。
*
感情喰いは消え、沈黙だけが残った。
戦いの余熱はもうない。
ただ、世界そのものが息を潜めて、二人を見つめているようだった。
イリスは小さく息を整え、指先に残る光の欠片を見つめた。
それは、誰かの“悲しみ”の名残。
だが、ほんの一瞬だけ――その光が“安らぎ”にも見えた。
アッシュはその横顔を観測していた。
彼の視界には、淡い呼吸の揺れ、頬をかすめる灰の流線、
そして、イリスの瞳の奥に浮かぶ“微弱な色”。
「……異常。」
彼が小さく呟く。
「心拍数、通常値より上昇。表情筋、緊張波形を観測。
――感情の発露、ですか。」
イリスは少しだけ目を伏せた。
「……ただの、疲労よ。」
それは否定でも肯定でもなかった。
風が再び流れ、彼女の髪が頬を撫でる。
その白銀の束がアッシュの瞳に映り込み、
一瞬だけ、世界が“色”を取り戻した気がした。
その感覚に名はない。
だが、確かに――何かが、始まりつつあった。
アッシュが静かに立ち上がる。
ノルディアの表面に、ひとしずくの灰が落ち、蒸発した。
「これが……感情の戦い、ですか。」
イリスは目を閉じる。
「いいえ。――これはまだ、序章にすぎない。」
その声は祈りのようで、断罪にも似ていた。
彼女の言葉が灰に溶け、風がそれを運ぶ。
短い沈黙ののち、イリスはルミナリアを握り直した。
アッシュが視線を巡らせる。
灰の地平の向こう、遠くで風が生まれ、また消えていく。
「行くのですね。」
「ええ。塔の外を――世界を、もう一度見なければ。」
白銀の髪が風に揺れ、瞳に淡い光が宿る。
その光は、過去の調律ではなく、まだ見ぬ旅のための“理”だった。
灰が舞い、二人の足跡が静かに伸びていく。
風がそれを追い、微かな旋律を刻んだ。
――灰はまだ、終わっていない。
けれどその中に、確かに“始まり”の音があった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます