見えない家族 -子供の目に映る世界-

彼辞(ひじ)

第1話 帰れない日

朝の光が、カーテンの隙間から静かに落ちている。

埃の粒が光の中を漂って、まるで時間そのものが止まっているようだった。

ぼくは、その中に立っている。

息をしているようで、していない。

音も、匂いも、届かない。

ただ、見ることだけができる。


母は台所に立ち、まな板の上で包丁を動かしている。

トントン、トントンと一定の音。

でも時々、包丁が途中で止まる。

そのたびに、母は窓の外を見る。

何を見るでもなく、ただ光の方向を確かめるように。

「陽、ごはんできたよ」

その声が出かかって、唇のところで止まる。

母は少しだけ首を振り、包丁を動かし直す。


父は新聞を広げている。

紙の音が静かな部屋に響く。

けれど、読んでいない。

目は文字の上を滑っていくけれど、意味は通り過ぎていく。

味噌汁の湯気が薄くなっていくのを、父はずっと見つめている。

「行ってきます」と言う声が、頭のどこかで響く。

でも、それはぼくの声だった。

父は顔を上げない。


姉の部屋のドアは閉まっている。

けれど中から、鉛筆のこすれる音がする。

ページをめくる音。

机の上のランプが朝なのに点いている。

ぼくはそっと覗く。

姉はノートに何かを書いている。

文字は途中でかすれ、涙の跡のようににじんでいる。

ページの上にぼくの名前。

その下に、“今日も話しかけてしまった”と書かれている。


家の中には、ぼくの写真がある。

仏間の一番奥。

青いコップと線香の灰。

写真の中のぼくは笑っている。

前歯が一本なく、口の端に米粒がついている。

母はその写真の前に花を供える。

花は少ししおれて、香りは薄い。

線香の煙がゆらゆらと上がっていく。

ぼくはその煙に触れようとする。

けれど、指はすり抜ける。

煙はぼくのいない場所へ、まっすぐ昇っていく。


玄関の方から、靴の音がした。

父が仕事に出る準備をしている。

「行ってきます」

その声は壁に跳ね返って、家の中に落ちる。

母は振り向かない。

ただ、小さく「いってらっしゃい」と言う。

けれど声は届かない。

二人のあいだには、目に見えない距離があった。

その距離の中に、ぼくがいる。


午後、姉はぼくの部屋に入る。

机の上には、描きかけの絵日記が開いたまま。

“明日は花火を見に行く”と書かれた文字。

その先は空白。

姉は鉛筆を取って、その続きを書く。

“花火は空で割れて、音が胸に残る”

書き終えてから、姉は手を止める。

ページを撫でるようにして、目を閉じる。

ぼくはすぐそばでそれを見ている。

けれど、声をかけられない。

呼ばれたら返事ができるのに、呼ばれないと存在できない。


夜。

家の中は暗い。

テレビの光だけが、壁に揺れている。

父はソファに座り、黙ってニュースを見ている。

母はその横で洗濯物をたたむ。

音がないのに、音があるように感じる。

部屋の空気が重たく、何かが言えずに止まっている。

誰も、ぼくのいないことを口にしない。

けれど、その沈黙の形が、ぼくの輪郭になっている。


夜更け、線香が短くなる。

母が火を消し、コップの水を取り替える。

その指先が濡れて、光る。

ぼくはその指を見て、なぜか少し安心する。

母の手が動いている限り、家はまだ生きている。

そして、ぼくもまだここにいられる。


――帰りたい。

そう思う。

でも、どこへ帰ればいいのかがわからない。

家の中にはぼくがいて、けれどぼくはいない。

家族は生きていて、でも、何かを失ったまま生きている。


ぼくはそっと、窓の外を見る。

遠くの空に、一筋の光。

朝が来る。

新聞と牛乳の匂いが、またこの家に戻ってくる。

それは新しい一日の匂い。

でもぼくにとっては、同じ日の繰り返しだ。


帰れない日が、また始まる。

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