晩蒼伝 〜いつわりの愛を告げるおまえは、限りなく優しく一方で冷酷な顔を隠していた〜
雨 杜和(あめ とわ)
第一節
第一章 彼との出会い
ぼろぼろになった美しい男
荒い海から、風がうなり声をあげながら吹きつけてくる。どうしようもなく寂れた崖っぷち。
そこには絶望しかなかった。
崖の上から自分が落ちようとしているか。あるいは、落ちる誰かを救おうとしているのか。
──やめろ!
大声をだして目覚めると、シンとした寝台の上にいた。寒い夜にもかかわらず嫌な汗が吹き出してくる。
夢か……。
奇妙な夢だ。
夢の記憶ははかない。数分もすれば、その記憶も遠く消えていく。
「はあぁ……」
従者が影から声をかけてくる。
「皇子さま」
「眠っていなかったのか」
「うなされていらしたので」
「夢を見ただけだ。もう眠れ、夜も遅い」
おそらく、こんな悪夢を見るのは、明後日から帝立
この年、彼は太学に入学する十八歳。
考えただけでも、うんざりする。
王国は救いようもない極貧国家だ。
不毛な大地は荒れ果て、無気力な人びとは安易に人生をあきらめ、略奪や暴動が絶えない。
この国の皇子である立場から逃げ出したいが、それも容易いことではない。
運悪く帝の一人息子で、皇位継承権第一位の皇太子であるからだ。
その上、国の権力は病弱な父帝にはなく、
いつか、この国の奴らに教えてやりたい。
世界はそれほど絶望的なのか。絶望に安住していいのかと。
いや、これは笑えるな。わかっているんだ。実際に
「皇子。悪い夢でもご覧になりましたか」
「ああ……。もう寝ろ」
外では大粒の雪がふわふわと舞う凍えるように寒い日だった。
そっと寝台から降りると、裸足の足に床の冷たさがしみる。
彼は衣装部屋に入ると、お忍び用の服に着替えた。
「皇子さま」
「しばらく、歩いてくる。すぐ戻る」
「雪が降っております」
「それが、なんだ」
従者は彼の気まぐれに慣れている。
いっそ無駄に声をかけて不興をかっても、
幼いころから武術を習い、武芸においては天才という名をほしいままにしていた。
生まれもった恵まれた体躯を、さらに鍛え抜き細身だが腕が立つ。とくに切れ長の鋭い視線でにらまれると、誰もが雷獣にいすくめられた小鼠のような気分になる。
だからこそ、怒らせると恐ろしいと従者は骨身にしみていた。
従者が消えると、彼は庭に降り、外部を遮る高塀にむかって身軽にトンッと地を駆った。
そうして、あっという間に塀を飛び越え、さらに通路を抜け裏門から王宮の外部へと出ていた。
王宮の裏門から貧民窟まではそれほど遠い距離ではない。
繁栄した通りの裏道を歩いた一角に、多くの貧しい者がたむろする貧民窟がある。
灯籠も消えた雪あかりのなか、男がひとり、数人のゴロツキたちに絡まれていた。ズタボロの雑巾のようになるまで殴られているようだ。
こんな光景は界隈では見慣れている。
殴られている男の姿は雪あかりだけでははっきりしない。
黒く見える体躯は、痩せこけ、ひょろりとしている。しかし、おそっている
容赦なく繰り出される足蹴りに、男は両手で頭を抱え耐えている。まったく抵抗もせず血まみれだ。
いったい何人だ。
一、二、三、四、五人か。
──ああ、面倒くせえ。
この先に彼の気に入りの場所があるのだが、乱闘のため狭い道が塞がれていた。
「おい」
声をかけても誰も振り向かない。
血を見て興奮するアホばかりなのだ。
殴られている男の目が、ちらりと見えた。冷静に状況を分析しているような冷たい目をしている。たぶん、こいつが無抵抗で殴られているのは、このゴロツキたちには理解できない、ある種の嫌悪感からだと気づいて興味がわいた。
「おい!」
「うっせえな。おまえも殴られたいか!」
「あっ! お、おい、
「
その声の主が相手が誰かを悟るまえに、拳がはいっていた。
瞬時に
次は?
にらむと男たちは後ずさった。
「い、
「やあ、おまえら。なあ、そんなことより本気だせよ。そんな弱気じゃあ、俺が退屈だろ」
一番近い奴に蹴りをいれた瞬間、ほかのゴロツキは逃げていた。
たわいもない奴らだった。
そのまま立ち去ろうとしたとき、足首をつかまれた。
「……や、めて、欲しい」
殴られていた男は口もとから血を吹きこぼし、苦しそうに咳き込んだ。
「はあ?」
「放っておいて……、よかったんだ」
「おまえ、あれか。あっちの異常者か。その、殴られて喜ぶって性癖なんか」
暗くてよくわからないが、切れ長の細い目が冷たい。男はぺっと口から血を吐き出した。
「ずいぶんと、やられていたが。まだ、やられ足りないんか」
「そろそろ……、殴る、の、も、飽きたはずだ。放っておいても、やめた」
「早めに終わったんだ。感謝しろよ」
「そ、そこが、愚かなんだ」
手を差し出すと奴は左足を
「なにを言ってんだ」
「あいつらは欲求不満を解消できなかったはずだ。ちっ、イテッえ。これじゃあ、殴られ損だ」
「どういう意味だよ」
「また、殴りにくるだろう」
「じゃあ、殴り返したらいい」
「短絡な奴だな」
威晩は面倒になり、肩をすくめて歩きだした。
背後から追ってくる足音が聞こえる。折られて片足が不自由になったのか、石畳に不規則な足音が響いている。
雪明かりのもと、周囲の景色が闇に沈む。
振り返って見た男の顔からは血の気が失せ、頬は青白く、口もとに流れた血の色が余計に目立つ。
長いまつげの下から、気を許すと吸い込まれそうな目がにらみつけてきた。
ぞくっとした。
自分でもその理由がわからないが、
男の容姿に奇妙なほど惹き込まれる。
こいつは雪あかりの薄い光でも、ぞっとするほど美しい顔をしていると頭がやっと理解した。
彼は小刻みに震えており、泥でひどく汚れていたが、それでも気品を損なってはいない。
その青ざめた顔は流れる血によって、さらに悪魔的に美しく、ほんのりと色気まで漂わせている。
ゴロツキどもが憂さ晴らしに殴った理由は、その辺りにもありそうだ。
後でいくら考えても、その時、自分のした行動の理由がわからないが、彼は歩調をゆるめたのだ。
背後から、荒い息を弾ませ不自然な足取りがずっと追ってくる。
「なんで付いてくるんだ」
「おまえが守ってくれ」
「おい、どんだけ甘ったれてるんだ。まったく意味不明というか、どういう理論だよ。面倒な奴だな」
「僕は
雪が止み、雲が切れ、半月がのぞく。
月明りに照らされた
それにも関わらずと、威晩は思った。
──男でも女でもないような中性的な、強いていえば精霊のような儚い魅力に溢れた男だ。
女たちが、いや男だって、こんな容姿を無視できないと思うと、威晩は、なぜかひどく笑いたくなった。
誰かが言ったものだ。
本当に美味しいものや、好きなものに出会ったとき、人は意識せずに笑いたくなるものだと。
彼は蒼空を見つめた。
彼の目に惹き込まれそうになるのを、かろうじて残った理性が止めていた。
(つづく)
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