Under the Same Sky ― 圭と蓉 ―

ヤスぽろ

第1章Restart in the rain――止まっていた針が、静かに動き出す。失われた時間の続きを探す旅が、いま始まる。

第1話 Restart


時間は、止まったままだと思っていた。

けれど⸻あの日、ラピートの窓に映る街の灯が滲んだ瞬間、

圭の“時計”は、かすかに音を立てて動き始めた気がした。


座席に身体を沈める。

車内は、早朝特有の静けさに包まれている。

ただ、今日は違っていた。

静けさが、まるでこれから始まる物語の“予感”のように感じられた。


窓の外では、ビルの光が一つ、また一つと遠ざかっていく。

目を閉じると、残り香のように、

誰かの笑い声と、朝のコーヒーの香りが胸に広がった。


⸻もう戻らない日々。


あの日、最後に触れた寂しさが、

じんわりと胸のどこかに残っていた。


でも、終わらせるためではなく、

“もう一度、始めるための旅”が、いま動き出していた。


今朝、部屋の片隅に残っていたコーヒーカップと、

ほこりをかぶった写真立てを、箱にまとめた。

そのカップには、まだ微かに香りが残っていた。

指先に触れたその温度が、過ぎた朝のやわらかさを思い出させた。

二人で過ごした朝の名残のように。

 

捨てるのに迷いはなかったが、

カップを手に取った瞬間、わずかに胸が痛んだ。

   

それでも、何かを終わらせないと、次へは進めない。

 

圭は箱のふたを静かに閉じ、玄関のドアを開けた。

朝の光が差し込み、空気が少しだけ冷たかった。


旅のはじまりに、理由はいらなかった。

ただ、“止まった時間”の続きを、探したかった。


誰かと向き合うために、

一度、自分の心を静かな場所でそっと“整えたかった”。


机の上に残されたスマホの通知を見ないまま、電源を切った。

飛行機のチケットは衝動だった。

ベトナム行き。

観光でも、仕事でもない。

ただ、空の向こうへ行ってみたかった。

何かを変えたいというより、

何も考えない時間が欲しかった。


「ひとりでの出国だ」 


機内に入り、シートベルトを締めたとき、

窓の外で地上スタッフが手を振るのが見えた。

その光景をぼんやりと見つめながら、

圭は小さく息をついた。


次にこの空港に戻るとき、

少しでも違う自分でいられたらいい。


エンジン音が響き、機体が滑走路を走り出す。

座席の背もたれが身体を押しつける感覚が、

現実と過去の境目をゆっくり遠ざけていった。


ベトナム・ダナンに着いたのは、午後3時を少し回った頃だった。

湿った空気と潮の匂いが肌にまとわりつく。

空港の出口では、タクシー運転手たちが笑顔で客を呼び込んでいた。

一人の男が声をかけてくる。


「どこ行く? ホテル? ホイアン?」

「ダナンの市内でいい」

そう言うと、運転手は頷き、

「オーケー! ダナン、ビューティフルビーチ!」と笑った。


車が動き出すと、外の景色が勢いよく流れていった。

オートバイの列が途切れることなく続き、

クラクションが遠く近くで交錯していた。

道端の屋台からはフォーの湯気が立ち上り、

油と魚醤の香りが入り混じる。


しばらく沈黙が続いたあと、

運転手がバックミラー越しにこちらを見た。

「ユー、ジャパニーズ?」

「そう。日本から来た」

「オー、ジャパン! ワンピース、ホンダ、スシ!」

嬉しそうに笑う運転手に、圭も思わず笑みをこぼした。

海外では必ず聞かれるこの質問も、

いまはどこか心地よかった。

誰かに“どこから来たのか”を尋ねられることが、

自分がまだ世界の中に存在している証のように思えた。


チェックインを済ませたホテルのフロントで、

「朝陽のきれいなビーチですよ」とスタッフが笑顔で教えてくれた。


朝陽がきれいだと言われたのは、いつ以来だろう。

そういえば、朝陽を見ることすら忘れていた。


圭は軽く頷いた。

その言葉が胸の奥を静かにあたため、

そのぬくもりをそっと心の隅に置いた。


翌朝4時。

窓の外はまだ薄暗く、遠くで鳥の鳴き声が聞こえる。

フロントで聞いたあの言葉を思い出し、

圭は身支度を整えて海へ向かった。


薄闇が残るミーケビーチ。

白い砂浜に足を踏み入れると、波がゆるやかに寄せては返す。

東の空だけが、ほんの少し色を変え始めていた。


裸足で波打ち際を歩きながら、圭は思う。

⸻ここには、過去も未来もない。

あるのは、ただ “いま” だけだ。


やがて、まだ暗い水平線の縁から、

ひとすじの金色がゆっくりと顔を出した。

海を割るように昇るその光が、

圭の胸の奥を静かに、確かに照らしていく。


周囲では、地元の人々が散歩をし、

若い男女が写真を撮り合っていた。

その日常的な光景が、なぜか遠い世界のことのように見えた。


圭はそっと手首の古いSEIKOを外し、

波打ち際の乾いた砂の上に置いた。


寄せる波が足元を濡らす。

朝陽を映す水面の下で、

小さな魚の群れが銀色の軌跡を描いた。

⸻まるで、新しい一日の始まりを告げるように。


ふと、彼は思った。

止まった針も、また動かせるのだろうか。

時間を、巻き戻すことはできないとしても。


ホテルのロビーで小さな地図を広げ、

目にとまった「ホイアン」という文字を指でなぞった。

かつて日本人がこの地に住み、橋を架けたという⸻

その話に惹かれるように、彼はタクシーに乗り込んだ。


1時間ほど走ると、古い町並みが現れた。


古い家々の壁と瓦屋根が連なり、

午後の光に照らされたランタンが、川風にゆっくり揺れていた。

太陽が容赦なく照りつけ、

風のない空気の中を、観光客と自転車がすれ違う。


ふいに耳をかすめた笑い声に、心がわずかに揺れた。

立ち止まりはしない。けれど、歩幅だけが静かに変わった。


その先に⸻


小さな屋根付きの橋が、

木の温もりと古い石の質感をまとって、夏の光を浴びていた。

来遠橋⸻日本橋。


400年前、日本人がこの地で中国人街と日本人街を結ぶために架けたという。

橋の中央には、小さな寺があり、

旅の守り神・Tran Vo Bac Deが祀られている。


欄干に手を置いた瞬間、梁の隙間から小鳥の声がした。

巣の中の雛に餌を運ぶ親鳥が、短く鳴いて飛び去っていく。

四百年という時の流れの中で、

こうして命だけは絶えずこの橋を往き来しているのだと思った。


東の通りには中国語の看板、西の通りには日本の面影。

そのあいだを結ぶこの橋を、

かつての日本人たちは何を思いながら渡ったのだろう。


異国で誰かを想い、

遠い国の人と心を通わせた者たちが、

確かにここにいた。


昼下がり、圭は川沿いのカフェに入った。

屋根の下では扇風機がゆっくりと回り、

川面を渡る風がテーブルクロスをふわりと揺らした。

深煎りのコーヒーをひと口飲む。


苦味とともに、胸の奥にわずかな静けさが広がった。張り詰めていた心がゆっくりと解けていくのを感じる。

人々が笑い合い、カメラを向け合う昼下がりの中で、

圭だけが少し違う時間を生きているようだった。


ふと見上げると、青空の中に白い雲が流れていた。

まるで止まっていた時間が、少しずつ動き出しているかのように。


その夜、圭は再び海辺へと向かった。

日中の喧騒が去った浜辺には、屋台の灯りが点々と並び、

香ばしい匂いと油の音が潮風に混ざって漂っていた。


「ミスター! フレッシュスプリングロール? ノー? オーケー! フライドロール! ベリーベリーデリシャス!」

呼び込みの兄ちゃんが、笑顔でトングを振りながら声をかけてくる。

その人懐っこい笑顔に、圭もつられて頬がゆるんだ。

「じゃあ、それをひとつ」


鉄板の上では揚げ春巻きが弾ける音を立て、

店主の手際よい動きが光を反射している。

皿の上に乗せられた春巻きを頬張ると、

パリッという音とともに、野菜と海老の甘みが口いっぱいに広がった。


砂浜の向こう、波打ち際では恋人たちが足跡を残しながら歩いている。

屋台のスピーカーからは、どこか切ないラブソングが流れていた。

圭はひとり、缶ビールを片手にそれを眺め、

過去と未来の間あいだに立っているような気がした。


「こんな夜も悪くない」と呟いた。


夜風が吹き抜け、屋台の提灯がゆらりと揺れる。

湿った木のテーブルに指先で文字をなぞる。


⸻“Restart”。


波音だけが、その文字の続きを知っているようだった。

風がその跡をやさしく消していった。


翌朝、ホテルのロビーでスマホを開くと、

見慣れた名前からメッセージが届いていた。


【Jake】“Grand opening next week. Drop by if you’re in town. Tsuen Wan.”


圭は短く返信した。

【圭】“One day, maybe.”


そう送って画面を閉じた。

だがその “one day” は、思っていたより早く訪れることになる。


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