カウントダウン4

  一 文明の残響、流転の旅路

 夜明け前に野宿の地を発ち、もう二時間は経っただろうか。

 空は白み、東の端に昇りかけた朝日が森と谷を照らし出していた。冷え込んだ空気の中を二羽のダチョウが進む。蹄が街道の崩れかけた石板を踏むたびに、すこし湿気た音が薄い霧の奥へ吸い込まれてゆく。

 二人は小高い峠に差しかかった。狭かった視界が一気に開ける。

 背後を振り返れば、昨日越えてきた広大な草原が、朝靄の中に沈んで見渡すかぎりの銀色の海となっている。霧がうねるたび、遠くでかつての街道が白く浮き沈みし、またすぐに飲み込まれていく───幻想的な景色だった───。

 「───見ろ、エンドビス」

 ウェイが手綱を引き、ダチョウを止める。

 峠の向こう、そびえる山脈の裾に広がる、比較的新しい森。その木々の緑の隙間から、黒々とした石造りの影が顔を覗かせている。

 折れた塔、崩れかけの城壁、赤錆びた鉱山の枠組み。

 かつて繁栄を誇った大都市の残骸が、点々と森に飲み込まれて残っていた。

 「───タクタル、だよな」

 ウェイの声は自然と低くなる。

 「あの山脈の鉱脈で栄えた都市だ。アトランティスの鉱物資源の七割を支えてたらしいよ」

 エンドビスは眺めを一瞥して、ふっと口の端を上げる。

 「今は七割どころかゼロだな。人が消えても、瓦礫はそのまま。文明の名残ってやつ」

 「───皮肉か」

 「いや、事実だよ。あれを見て懐かしむやつがいなきゃ、ただの石と鉄さ」

 エンドビスは軽口を叩く。しかしその声音にはかすかな影が混じっているような気がする。

 ウェイはそれを感じとりながらも、返事をせず手綱を軽く叩き、先を急いだ。

 朝日が森の端を照らし、黒い廃墟の輪郭を際立たせる。

 瓦礫の上に繁った草木は、風に揺れてまるで都市そのものが眠りに就いているように見えた。

 それでも二人は進み続ける───サミトラ山脈を目指して。

 ───三兄弟が待っている。



  二 氷晶の意識、無限の静寂

 一方その頃、アシテルの洞窟。

 朝の川はまだ陽の光を見ていなかった。

 山脈から吹き下ろす風が、わずかな光を銀の粒に砕き、冷たい水面を滑っていく。

 川底の石は、氷を透かしたように蒼白く沈黙していた。

 コタルはその水の中に、膝まで浸かって瞑想していた。

 閉じた瞼の中にある眼球は、少しの動きも見せなかった。

 肩がわずかに上下し、呼吸のたびに白い息が静かに立ち昇る。

 しかしそれは、温かい息ではなかった。

 彼の吐息は、周囲の空気よりも冷たい。

 空気中の水分が瞬時に凍り、氷霧のような白を描いて消えていく。

 ──氷が、息をする。

 その呼吸は、もはや生人のものではなかった。

 生と死の境界で、冷たさだけが存在を主張している。

 彼の瞑想は、すでに三度目だった。

 初めはただの修行だった。

 しかし二度目からは、意識が変わった。

 氷を“感じる”のではなく、氷として在ることを目指すようになった。

 かつての師、アシテルは「魔術の総合」を志した。

 火も、水も、風も、大地も。

 その均衡の上に“完全なる無”を置き、意識の偏りを排した。

 ──無を生むことで、すべてに通じる。

 それがアシテルの哲学だった。

 だが、コタルは違った。

 「今は、時間が無い──目的のための最短距離を行かなくては」

 少年の胸奥で、誰にも聞こえぬ声が響いた。

 彼は瞑想中、氷の流れを意図的に呼び込む。

 体温を奪い、感情を削ぎ、意識の輪郭を薄くしていく。

 血液の流れさえ、氷の律動に合わせて遅くなっていくのを感じる。

 川面に微かな震えが走った。

 水の流れが止まり、次の瞬間、薄い氷膜が静かに張り始める。

 コタルの足下から半径数メートル、流れが封じられていく。

 川が“眠る”。

 彼の心もまた、同じ速度で冷えていった。

 やがて、彼はゆっくりと目を開けた。

 瞳は氷片を閉じ込めたように淡い光を湛え、深く、透明だった。

 そこにはもはや、かつての少年の影はない。

 ただ、冷たく透き通った静寂だけが残っていた。

 「──感情、思考の──意図的な閉鎖に成功した」

 呟きが、霧のように消えた。

 その声に温度はなく、音すら氷の表面を滑っていくようだった。


 コタルはゆっくと水を払う。

 水滴が微かな音を立て、初めて静寂を破った。

 洞窟の中は、外よりも冷たかった。

 岩壁の亀裂に沿って淡い青の光が流れている。

 それは、アシテルが残した魔力の痕跡──この地に染み込んだ彼の記憶そのものだ。

 コタルは奥の棚を開け、古びた革表紙の備忘録を取り出した。

 

 氷が軋むような静寂が、洞窟を満たす。

 外では、風がわずかに川面の氷を撫でた。

 ──音が、消えた。


    三 アシテルの備忘録

  さてここからは魔術の実践に入る。

 しかしその前に最も大切なことを書かねばならない。

 時間は無限ではない。枝道は無数に存在 し、それぞれが異なる理に繋がっている。

全てを修めることはこの天才なわしでさえも叶わなかった。魔術の世界は「均衡」を旨とするものではなく、「深化」と「特化」によってこそ力を得る世界だ。ゆえに、まず己が心底求める魔法を定め、それを修めることが第一である。


 魔術はその性質により十にわけられる。


 炎系統 派生として火、熱系統

 水系統 派生として氷系統

 風系統 派生として匂系統

 光系統 派生として閃光、雷系統

 音系統 派生として雷系統

 土系統 派生として防御系統

 聖系統 主に神官が使用、神を讃える系統

 闇系統 派生として影、死、暗黒、死霊系統。 衰退期に出来た忌子である新系統。

 無系統 前述の系統に当てはまらない、極めて珍しい系統。


 細部を挙げればさらに限なく細分化されるが、その基礎構造はすべて共通している。

 ゆえに、究極的にはすべての系統はひとつの根に連なっているとも言える。

 その根幹は「想像」と「言霊」の「連携」にある。

 人が深く瞑想の境に入るとき、その者の発する言葉は魔力を帯び、現実の理に干渉しはじめる。

 想像が強ければ強いほど、そして精密であればあるほど、その干渉はより細やかになり、ついには素粒子の単位での操作さえ可能となる。

 思念によって世界を描き、その像を言葉に託して放つ──

 その瞬間こそ、魔術の真なる発現である。


四 掌の氷、静寂の光

 コタルは再び洞窟の外にでた。

 ───瞑想状態にあるとき、その発する言葉は魔力を帯びる───

 備忘録の内容を反芻する。

 ───実践あるのみ、だね───


 コタルは川の水を手にすくいとった。

それが冷たく冷え、凍ってゆく様を想像する。


〈この右手に溜まりし水は───

その水滴の一粒一粒は───

冷たく、固く、凍りつく───

   その術の名は───

カタリア───〉

 コタルの口から言葉が発せられる。

 手の中の水は、やがてその形を失いかけながらも、一瞬だけ──薄い氷の膜を張った。

 それは朝の陽光を受け、儚く輝いたのち、音もなく溶けてゆく。

 「───だめだ、こんなのじゃ」

 氷の欠片が掌の上で消えてゆくのを見つめながら、コタルは小さく息を吐いた。

 再び目を閉じ、深く呼吸する。

 心の奥に意識を沈め、流れ落ちる水のひとつひとつを思い描く。

 分子の粒が寄り添い、震え、凍てついてゆく様を。

 今度は──掌の中の水が音もなく凝固する。

 氷は消えない。

 指先の冷たさが現実の重みを帯びて、確かにそこにあった。

 コタルはそっと氷を見つめ、

 その表面に朝の光が淡く反射するのを眺めた。しかしこれでもまだ足りない。これではゴルゴットの卵を眠らせるには程遠い。

 「───次は、空気」

 彼は顔を上げる。

 周囲の空気を感じ取るように、両の手をゆっくりと広げた。

 空気の中に含まれる水分──

 それを極限まで冷やし、凍らせる。

 理屈は単純。けれど、世界は簡単には動かない。

 静かに集中を深めると、空気がわずかに揺らいだ。

 コタルは一つ一つの言霊を、確かめるように発していった。その言の葉は以前よりも透明で、それでいて輪郭が硬かった。

 やがてコタルの周囲に、冷たい白い靄が生まれる。

 氷でできた霞は、彼の掌の間で渦を描きながら膨らんでいった。

 指先が微かに震えた。

 コタルは両手を前に向け、

 意識の流れとともに靄を押し出す。

 〈もっと速く───もっと冷たく───〉

 その声に応じて、靄は鋭さを増した。

 氷霧はさらに凝縮し、風を切る音を立てる。

 鉄よりも硬い、凍るような氷の風が、空を裂いて駆けた。

 冷気が走り抜けたあとには、

 草の葉に薄い霜が降りている。

 コタルはそれを見て、

 小さく笑った。

 それは子供の笑みではなく、

 どこか神秘的な、祈りにも似た微笑だった。

 

  五  コリネの役割

 朝の光が、森の梢を金色に染めていた。

 昨夜の瞑想で得た静寂の余韻が、まだ胸の奥に残っている。

 体の内側に流れる重さの向きを、コリネははっきりと感じていた。

 重力は地面にだけあるものじゃない───

 人にも、物にも、空にも、魔術にも。

 あらゆるものに重力は流れている。

 そして重力は全てを引き寄せ合い、離れ合う。コリネはそれを操ることが出来る。

 

 朝日に染まった小高い丘の上、コリネは目を閉じて息を吸う。

 身体の中に存在する重力を横に流す。

 地を蹴るよりも先に、自分が横向きに落下するような感覚。

 重力の傾きを操作し、斜めに滑る。

 瞑想の成果だ。以前よりも、流れの変化がはっきりと見える。

 「───やっぱり、僕は戦えない」

 独り言のように呟く。

 大きな身体も、強い魔術も、硬い盾もない。

 けれど、動ける。誰よりも速く。

 丘を駆け下りながら、コリネは重力を細かく切り替えた。

 斜面を滑るように走り抜け、足が地面を離れるたび、身体がふっと浮く。

 朝の風が頬を裂くように吹きつける。

 速度を増すたびに、周囲の景色が薄れ、暈けていった。

 「僕なら届けられる───みんなの想いを、誰よりも速く」

 コリネは思い出す。

 ウェイが言っていた。

 「通信が阻害されるかもしれない」

 なら、自分が走ればいい。

 魔法で届かないなら、肉体で繋げばいい。

 父が残したテネル占星術。父はその全てをコリネに受け継がせることは出来なかった。

 父から受け継いだ「テネル占星術」──

 その過程で重力操作は生まれた。

 天体の動きを読むため、重力を感じ取る訓練の中で偶然掴んだ“手触り”。

 いま、コリネは地上でその力を使っている。

 父が見上げた星を、今度は自分が見下ろす番だ。

 息を吐き、空を見上げる。

 太陽がもう高い。昼が近い。

 彼は幼く笑った。

 「僕の役目、やっと見つけた」

 次の瞬間、風がはじけ、地面が遠ざかる。

 小さな影が草原を斜めに横切り、陽光の中へと消えていった。

  


六 紅紫の道、静寂の刻

 二人が進むにつれ、山道は次第に険しくなっていた。

 紅に染まった空は、夕方のけだるい日差しを増し、やがて紫の影を投げかけ、ゆっくりと沈んでいく。街道を離れ、サミトラ山脈への山道に足を踏み入れてからというもの、荒廃の色合いは先ほどにも増して濃くなった。

 石畳はところどころ途切れ、土道が露出している。

 道端には草木が生い茂り、枝葉が互いに絡まりあっていた。

 だが、その中にも人の手が及んだ痕跡があり、古びた石垣や、斜面に並ぶ小さな畑、草を刈った形跡が見て取れる。荒れ果てた自然の中で、わずかに残る生活の気配が、この地の静けさを一層際立たせていた。

 土埃を巻き上げながら進む二羽のダチョウは、羽毛にうっすらと砂塵をかぶり、荒い呼吸を繰り返していた。

 夕暮れの光を受け、羽根の間に影が落ち、細かな羽毛の一枚一枚が金色に輝く。その動きに合わせ、土の匂いと枯葉の香りが入り混じった風が顔を撫でた。歩みは緩やかでありながらも確実で、足先が滑りやすい斜面に触れるたび、二人は体のバランスを微かに調整する。

 道の脇には、一本の古びた墓標が立っていた。苔むした石には、長年風雨に晒された跡が見て取れる。その前には誰かが供えたばかりの花が揺れ、夕風にそっと揺らされている。淡い光を受け、花びらは幽かに透けるように見えた。

 「なあ、エンドビス。花がいけてあるな」

 ウェイの声は、砂埃に少し消されながらも確かに届く。

 「そうだな──お前とは違って気の利く奴だ」

 エンドビスは皮肉を交えつつ、疲れを滲ませた声で応えた。

 肩の力を抜き、短く息を吐く。

 その声の奥には、長旅の疲労だけでなく、この土地に残る微かな人の温もりを感じ取った気配もあった。

 「もうすぐ着くな」

 ウェイが言った。

 彼の視線は前方の道に集中している。

 「ああ。日の暮れる前につけるといいな」

 エンドビスの声は、体を進める自信を含んでいた。

 短く沈黙が訪れ、周囲の森の音が耳に届く。

 遠くの谷あいでは、鳥たちの羽ばたきや、風に揺れる枝葉のざわめきが微かに反響していた。

 「まったくだ」

 ウェイは同意し、口元に小さな笑みを浮かべた。

 疲労と緊張が少し和らいだ瞬間だった。

 谷の向こうに、かすかな煙が立ち上っていた。

 夕餉の支度を知らせるその煙は、遠くからでも匂いが届きそうなほど生々しく、どこか懐かしい気配を帯びていた。

 木々の隙間から差し込む残照が、煙の輪郭を柔らかく照らす。

 ウェイはそれを見て、胸の奥に暖かさが広がるのを感じた。

 


七 古き友、迫る世界

 ミスリテールから東に約二百キロ、サミトラ山脈の麓にある谷間の廃れた炭鉱町───メリア。その寂れたはずれに道場はひっそりと建っていた。

 灰色の瓦屋根、塗装の剥げかけた巨大な木の門。

 しかし一歩足を踏み入れれば、整えられた中庭と緊張感の漂う空気が、未だそこが現役であることを物語っていた。

 威圧感を隠しきれないその外観は、度々訪問者を圧倒する。


 アレノア三兄弟と言えばメリア近郊では知らぬものはいない。

 長男のアクトは剣術師範。

 身長百九十cmを超えるその巨体は遠くから見ても目立ち、その腕力と正義感で町の治安を支えてきた。

 酒にもめっぽう強く、町の住人の憧れの的だ。

 次男のイムラは弓術の天才。

 驚異的な視力と身体能力で数キロ離れた的にも、正確さを欠かすことなく命中させる。

 自分の才能が高いのを当たり前とし、他の人間を軽んじる説があり、そのプライドは鼻につく。

 プライドが高いゆえに弟子は採っていない。

 しかしその無駄に高いプライド以外は素晴らしい人格者だった。

 三男のサスタリは齢十八なのにもかかわらず、幼い頃から病弱なため身長が低く、痩せている。

 しかし三人の中では最も優れた頭脳を持っており、恐らくその明晰ぶりは全アトランティスでも屈指だろう。

 サスタリは町の賭博場では「白い狐」と呼ばれ、度々現れてはその策士っぷりを発揮した。

 そんな三人とウェイは長い友人同士だった。

 

 ウェイとエンドビスは、その道場の古びた扉の前に立ち、しばし息を整えた。

 夕陽の光が赤く木肌を照らす。

 ──迷っている時間はない。

 拳で軽く扉を叩く。

 「おう」

 奥から響いた低い声。アクトの声だ。

 重い扉がゆっくりと開いた。中から現れたのは、以前よりもさらに体格を増したアクトだった。

 「───ウェイじゃねえか。まさか、こんな時間にどうした」

 「───前にも増してデカくなったな、アクト───話がある。三人とも揃ってるか?」

 アクトは一瞬眉をひそめ、それから頷いた。

 「イムラもサスタリも中にいる。入れ」

 道場の中は、夕暮れの赤い光に満たされていた。壁には古びた木剣や弓が整然と掛けられ、床には稽古の跡が生々しく刻まれている。

 三兄弟は卓を囲み、ウェイとエンドビスの話を黙って聞いていた。

 「──つまり、お前らは、神殿の地下から出てきた“卵”を、凍らせに行くと」アクトが低い声で言った。

 ウェイは頷く。「ああ。三日前に掘り出された。今はミスリテールの宮殿に安置されている。皇帝ランビスが厳重に守ってんだ」

 エンドビスが口を挟む。

 「ランビス皇帝はその卵を利用しようとしてる。ゴルゴット──それは古代に封じられた、破壊の神だ。皇帝はそれを解体し、失われた技術を取り戻そうとしてる」

 「ゴルゴット───?」アクトが呟く。

 「聞いたことねえな」とイムラも首をかしげる。

 「まあ、ゴルゴットを解明してその技術を今の文明に取り入れよう、ってんだから一概に悪い奴とは言えねえんだが」

 そのとき、これまで黙っていたサスタリが小さく口を開いた。 

 「───僕は、知ってるよ。ゴルゴットのこと」

 兄たちが同時にサスタリを見る。

 サスタリは怯えるように目を伏せた。

 「古い文献に、何度か名前が出てきたんだ。ゴルゴットは、戦前の時代に造られた“兵器”。

 あれは神なんかじゃない。人が───いや、“人だったもの”が作った、人の限界を超える存在だよ。解明なんてまず無理だ。孵化した途端に世界が滅びる」


 「滅びるだと?」アクトが唸る。

 「そんなものが、本当に地下にあったのか」

 「信じられないかもしれないが、俺たちは実際に見た」ウェイは答える。

 「封印の術がもう持たない。もし明明後日、完全に目を覚ませば───世界が消える」

 イムラが立ち上がり、部屋を歩きながら舌打ちした。

 「話が飛躍しすぎてる。───だが、ウェイがここまで顔色変えて来たってことは、本当なんだろうな」


 「目的は倒すことじゃない」ウェイが言った。

 「コタル───魔術師を卵のもとへ送り届ける。それだけでいい。奴が氷漬けにできれば、再び眠らせられる。だが、皇帝軍の包囲を突破するには、俺たちだけじゃ足りない」

 アクトは腕を組んだまま、しばらく黙考した。

 「───つまり、お前は命懸けの護衛を頼みに来たってわけか」

 「そうだ」

 アクトは唸る。

「放ってはおけねぇな。行くぞ、すぐにだ」

「兄貴、またそれかよ」イムラが苦笑した。「あんたはいつも人助けばかりだ」

「お前だって断れねぇだろ、イムラ。あのプライドじゃな」ウェイが口を挟む。

イムラは鼻を鳴らした。

 「───まあな。俺の弓が必要とされるなら、行ってやってもいい」

 「僕は行かない」

 静かな、けれど断固とした声がした。

 二人の兄はサスタリを見る。

 「僕たちが行っても、焼け石に水だよ。助けられる保証なんてない。そんな博打、命懸けでする意味がどこにあるの?」

 二人が黙り込む。


 やがて、ウェイがゆっくりと頷いた。

 「───わかった。無理にとは言わない。けど、明明後日にはすべてが終わる。間に合わなければ、もう誰も助からない」

 静寂。

 風の音が軒を揺らす。

 夕陽が障子越しに差し込み、サスタリの横顔を赤く染めていた。

 彼は諦めたように頷く。

 「分かった。明日の朝まで待って。それまでに決断する」

 そう言ってサスタリは腰を上げた。

 


八 理論の淵、夜空の方程式

 日付が変わろうとしていた。

 夜の闇が温度を奪い、空気が冷え込んでいる。

 サスタリはひとり、道場の屋根に登っていた。

 瓦は昼の熱をわずかに残し、冷えきった空気に沈んでいる。

 空には無数の星が散り、風が山の向こうから吹き抜けてくる。

 彼は膝を抱え、目を閉じた。

 考える。

 いつものように、徹底的に。

 ──勝てる道はあるか。

 まず戦力差。

 皇帝軍は数万、こちらは六名。

 罠、兵器。

 正面から戦えば、一刻と保たない。

 ならば潜入か。

 夜襲、撹乱、陽動──いずれも、軍勢に囲まれた市街地では意味を成さない。

 そもそも戦力が足りない。


 ひとつずつ、思考を積み上げては崩していく。

 戦略は組める。

 理論上、穴は塞げる。

 だがそのどれも、現実の数歩先で破綻する。

 「詰んでる───」

 小さく呟いた声が、夜風にさらわれた。

 では、逃げるか。

 逃げたとして、何が残る? 

 ゴルゴットが孵化すれば、世界はどうなる?

 サスタリは脳裏に、古書の断片的な記述を思い出した。

 ──“創造の獣は、光を孕み、大地を腐らせた”──

 放射能。

 古代の記録に書かれていた言葉。

 それはただの比喩ではなかった。

 ゴルゴットの体内から発せられる力は、空気と水を、そして土壌を侵す。

 生命は絶え、再生まで数億年。

 「───終わるんだな」

 それは、恐怖ではなく、事実としての結論だった。

 彼は夜空を見上げた。

 無数の星が、冷たく瞬いている。

 生きる意味を計算で求めようとしても、どこにも答えはない。


 額を押さえ、サスタリは息を吐いた。

 その瞬間、ひとつの考えが閃く。

 そうだ。

 碧隼を飛ばせばいい。

 山を越え、海を越え、彼らのもとへ──。

 アトランティスには、七十五人の“道の達人”たちがいる。

 剣、弓、医術、術理、工学、舞、書、戦術──各分野で頂点に立つ者たちだ。

 碧隼に手紙を運ばせ、その手紙に転送陣を書き入れる。

 彼らが一人でも動けば、状況は変わるかもしれない。

 サスタリは立ち上がり、風を受けながら指先で虚空に数式を描いた。

 転送陣の座標計算。

 術式の符号化。

 個々の戦力の数値化。

 圧倒的な戦力差。

 ──脳内で、幾千もの数式が流れた。

 それでも結果は変わらなかった。

 どちらにしろ全ては滅びる。

 しかし彼の意思はすでに決まっていた。

 「───バカみたいだな」

 自嘲気味に笑って、頬を撫でた風の冷たさを感じる。

 理屈でいえば、集めた勢力を死に送るようなものだ。

 でも、理屈なんて、もうどうでもよかった。

 星空の下で、彼は静かに目を閉じた。

 恐怖は、まだ胸の奥にあった。

 ───僕が行かなきゃ、世界は終わる。

 ───僕が行っても、世界は終わる。

 ───だったら、最後までもがいてやる。

 サスタリは、ふっと口の端に不敵な笑みを浮かべて立ち上がり、山風に吹かれながら、ゆっくりと屋根の縁を降りた。

 冷たい空気の中、瞳の奥だけが確かに燃えている。

 彼の小さな影が、夜の闇に溶けていった。


エピローグ 白き狐、夜明けの決意

 

 夜はまだ更けていなかった。

 新月の近づく季節、地上は真っ暗に等しかったが、上を見あげると、かえって星の光が賑わしい。

 サスタリは空を見上げ、息をついて、道場の扉を開けた。


 

 道場の中はひどく静かで、炉の火もとうに消えていた。

 外では冷たい風が軒を叩き、木々の間を渡ってゆく。

 ──秋が近づいて来ていた。


 どうやら熟睡出来なかったのはこちらの人たちも同じらしい。サスタリの気配に気づき、うつらうつらとしていた瞼を開けた。

 サスタリは口を開いた。

 「理屈詰めで全ての選択肢を洗った」

 「決まったか」アクトが問う。

 「うん。僕も着いて行くことにする───いや、僕がみんなの頭になる。みんな、僕に、着いてきて」




 夜が、音もなく退いていく。

 氷の森の上空には、まだ星の残光が瞬いていた。

 サスタリは道場の庭に立ち、両手で碧隼を抱いた。

 鳥の体は驚くほど軽く、そして温かかった。胸の奥で鼓動が速く、小刻みに震えている。

 「怖いのはお前たちも同じか」

 つぶやくように言い、碧隼の瞳を見た。深く澄んだ翡翠のような光が、炎のようにゆらめいた。

 風が一度、強く吹いた。

 空気の流れが変わる。

 夜と朝の境が交わる。

 彼は結びつけた手紙をもう一度確かめた。

 「───この鳥が届けば、まだ勝ち目はある。七十五人の誰かが応じてくれる。───そう信じてる。さあ行け───星を越え、彼らのもとへ」

 七十五羽の碧隼は短く鳴き、翼を大きく広げた。

 

 夜の空に、ひとつの光の矢が裂けるように走った。

 碧隼──青鳥の血を引くその翼は、空間を捻じ曲げて超音速飛行を可能にした。

 それは摩擦熱で微細な光の粒子を散らし、まるで流星群を引き連れたかのように尾を輝かせる。

 翼先端の炎のような光は、暗闇の森を斬り裂く刀の刃の軌跡にも似ていた。

 その速度は常軌を逸し、空気の壁を切り裂くたびに低く唸る衝撃波が轟く。

 耳を塞ぎたくなるほどの音が森の樹々に木霊し、夜の静寂を押し流した。

 碧隼の目は閉ざされており、障害物を避けるのは周囲に張り巡らせた無数のセンサー魔法によるものだ。

 樹々の葉や岩の突出、建物の角までもが、光の閃きのように察知され、瞬時に翼の軌道が微調整される。



 その姿は、巨大な兵の神が光輪をまとい空を覆うときの威圧感を思わせた。

 空間を支配するかのような圧倒的な存在感。

 しかし、それが運ぶのはただ一つの書簡。

 命を省みぬその役割のために、あらゆる力を全力で振るう──野性味に満ちた伝書鳥の矛盾した姿だった。


 夜空に消えた後も、森に残るのは光の尾と衝撃の残響だけ。

 まるで神話の幻影が、ほんの一瞬、現実に溶け込んだかのようだった。



 サスタリは目を細め、その小さな影が遠ざかるのを見送った。

 雲の向こう、星のかけらをすり抜けて、碧隼は飛ぶ。

 アトランティスの七十五の地へ。

 眠れる賢者たち、剣士、技術師、術師、舞踊師──

 それぞれの場所で、まだ知らぬ運命を呼び覚ますために。

 やがて、東の空が白み始めた。

 夜の最後の星が、ゆっくりと光を失う。

 サスタリは静かに息を吐いた。

 「これでいい。───ここからが始まりだ」

 

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