赤色旗の麓で。
iTachiの隠れ家
第1話 戦の残火
「君には西側に情報を流した嫌疑がかけられている」
俺は眼の前に座る痩せこけて虚ろな目をしている男にそう言った。
「……違う。俺はやってねえ」
「君の友人――エーリヒ中尉からの密告だ。彼は私の部下だ。証拠は、これだ」
冷たい空気の漂う尋問室に、一枚のビザの写しが置かれる音だけが虚しく響いた。
俺は続けた。
「君には……確か娘がいる。まだ小学校に入ったばかりの、小さな、何も知らない少女だった」
「……やめろ」
「君には……娘がいるのだから、勿論妻もいる。銀行で真面目に働いていた、謙虚な奥さんだったらしい」
「やめろ!」
男は鉄の机を叩いた。目が血走り、呼吸が荒くなっていたが、俺は尋問を続けた。
「今、二人はガス室の中。安心しなさい。まだボタンは押していない。話すなら、今だ」
そうすると、男はべらべらと口を割るのだ。仲介人の話、そして逃亡した仲間の話、隠しルートの話。何もかも丁寧に話してくれた。
俺はノートに丁寧にそれらをまとめ、鉄格子の外を眺めながら言った。
「君のような人間には、心底うんざりしている。戦争が終わって、もう三年だ。核の汚染だって、ほとんど消えたのに、どうして逃げる?」
「……」
男は黙ったまま、下を向いた。
俺は尋問終了の合図を出した。
部下たちが男を引き連れて部屋を出た。彼は今から処刑場へと向かい、そこで地獄に叩き落されるのだ。
全く、哀れな男だ。大人しく自らの運命を受け入れていれば、こうはならなかった。
「少佐。見事でした」
入口にいたエーリヒが俺に言った。
「君の活躍だ。給料は弾むだろう」
微笑みすらしないエーリヒに、俺はそう言って尋問室を出た。
緊張の糸が切れ、俺はため息をついてコンクリートがむき出しになっている廊下を歩いた。
階段を登り、右折。
突き当りの右側のミヒャエル・ベンヤミン大佐の執務室の扉をノックした。
「入れ」
「失礼します」
扉を開けると、山積みになった書類が暇を持て余していた。その合間から覗くミヒャエル大佐の顔は、いつもよりも一段と老け込んでいるように見えた。
「君か……報告だね?」
「はい。処分が終了しました。……所で、その書類、お手伝いさせて貰えませんか?」
自分の仕事が終われば、積極的に上司の手伝いをして、機嫌を取る。そうして階級は上がってゆくのだ。
大佐の返事を待っていると、彼は少しだけ微笑んでから言った。
「いや、結構。ルーカス少佐、そこに座りなさい。君に話がある」
俺はソファの埃を払って、腰掛けた。彼も俺の反対側のソファに座った。
大佐は前かがみになり、小さな声で言った。
「君に、とある任務を授けよう。極秘任務だ。」
俺と彼のテーブルに、スッと、一枚の写真が滑り込んだ。
「これは……?」
「CIAの特殊エージェント。我々の間では『スワン』と呼ばれている」
金髪でサングラスを掛けており、分厚いコートを着た女だった。顔立ちからして、ラテン系アメリカ人だろう。
「どこに潜伏していますか?ドイツではありませんよね?」
「ああ。場所はパリだ。来週、とあるホテルでドイツ軍の少将と会うらしい。君には、少将の護衛として一緒にパリへ行ってくれ。もちろん、それ専用の身分も用意する」
パリか。なかなか面倒な所を選んだものだ。
だが、それが断る理由にはならない。
「了解しました」
俺はその写真を胸ポケットにしまい、大佐の執務室を出た。
薄暗い階段を下っていると、下で待っていたエーリヒが俺に小さな段ボールを渡した。
「モスクワからです。内部のX線検査で安全は確保しています」
「ああ、ありがとう」
段ボールを小脇に抱えて、俺は準備のために早退の連絡を入れて外に出た。
近くのバス停で十分程待ってから、古めかしいエンジン音を立てるバスに乗り込んだ。
途中、落日が街全体を緋色に染め上げ、ドイツ民主共和国の国旗が柔らかな冷たい風になびいていた。
◆
「あら、おかえりなさい」
妻のエラが俺を出迎えてくれた。暖かい光が俺を包み込む。
「明日から出張で数日家を空ける」
シュタージの制服を彼女に渡しながら俺は言った。
俺の制服をハンガーにかけて、クローゼットに入れ、俺の食事の準備をしてくれた。
食卓にはサラダやポテトなど、簡単な食材が並んでいた。
「ねえ、あなた」
エラが俺の顔を見て言った。なんだか嬉しそうな顔をしている。
「何だ?」
彼女は少し頬を赤らめ、躊躇する素振りを見せてから、小さな声で言った。
「私……授かったわ」
「本当か!?男の子か?女の子か?」
「もう、せっかちね。まだわからないわよ」
クスクスと笑うエラに、俺の口元も自然に綻びていた。彼女は小さく咳払いをして言った。
「もし、この子が生まれたら、あなたの背中を見て育って欲しいわ」
「……俺の背中は止めておいたほうが良いな」
咄嗟にそう言ってしまった。
シュタージの人間の背中を見て育った子供なんて、ろくな大人にならない。それに、仕事に誇りを持っている隊員ではなく、俺という少し特異な、エーリヒと同じような、階級を上げることにしか興味のない人間の背中だ。
止めておいた方が良いに決まっている。
「どうして?別に良いじゃない」
少し悩んだのか、エラが遅れて、そう聞いてきた。俺はとっさに、はぐらかすように答えた。
「男だったらまだしも、女の子だったらどうする?俺は君によく似た少女に、こんな仕事はしてほしくない」
「まあ、こんな仕事なんて。国のために働く、いい仕事だと思うわよ」
彼女は、シュタージが何をやっているか知らないのだろう。いや、正確には知ろうとしない方が正しい。
僕はポテトを口に放り込みながら、彼女の顔を見た。微笑んで入るが、どこか淋しげな雰囲気を醸し出していた。
「どうした?」
俺がそう聞くと、彼女は言った。
「やっぱり、私は不安ね。いい仕事だけれど、あなた、危ない場所に自ら飛び込みすぎよ。この前だって―――」
「その話は無しだ」
「……ごめんなさい」
静寂の食事を終えて、俺は一人シャワーを浴びてベッドに入った。
すぐにエラが俺の隣のベッドに入り、俺に一つのブレスレットを渡した。
「これは何だ?」
「お守りよ。あなたの無病息災を祈って」
「……ありがとう。受け取っておく」
俺は枕元の棚に、身分証と一緒にそれを置いて眠った。
❖
記録文書
氏名:ルーカス・ハルトマン
階級:少佐
所属:■■■■■■■■■(極秘任務中につき秘匿)
生年月日:1935年(31歳)
出生地:ベルリン
教育歴:フンボルト大学
家族構成:エラ(妻)
備考:■■■■作戦を実行中
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