第4話 微かな呼吸

午前5時。

はいアパートの窓から見えるとおりは、うっすらとやみを忘れ始めていた。

だが、私は眠っていなかった。


多分、それは彼も同じだった。

彼は背中を壁につけ、私と反対側の窓のすみで身をしずめていた。


部屋の中はほとん暗闇くらやみだった。

私たちは、同じ部屋にいながら、互いにねむるふりをして、相手の動きを見張みはっていた。


でも、その“うたがい”さえ、今は呼吸こきゅうが合うように思えてきた。


きりの中、遠くからタイヤがきしむ音を感じると、あかりのない通りに、不自然なほど静かにエンジンおんまった


ナンバープレートをかくした黒い車。

りてきたのは、男が三人。全員、軍用のボディアーマー。

その背に刺繍ししゅうされていたのは、赤い三角の紋章もんしょう


オルテンだ。

私達と同様どうよう、エイドリアンのPC内の情報を狙っている組織だった。


——来た。


私はすぐに目配めくばせした。

彼はわずかにうなずき、無言で銃を取り出した。


「窓から出る?」

「遅い。囲まれてる」


二階のこの部屋は袋小路ふくろこじだ。

いまりれば見つかる。動けばたれる。


私はポケットから小型通信機を取り出しかけて、躊躇ちゅうちょした。


——応援を呼べば、彼は“機密情報を所持する対象”として拘束こうそくされるはずだ。 任務は達成して終わる事ができた。


でも、迷った瞬間、彼はもう隣にはいなかった。


ドアに向かって、静かに歩いていた。


「……何してるの?」


「俺がとりでになる。君は逃げろ」


「正気なの?!」


私の声に、彼は初めていかりに似た眼を向けた。


たとえそれが任務でも、君は俺を助けた。だから、俺は君を信じた。それでだけで十分だろう」


「何を——」


「今度は俺が守る番だ。俺は君を裏切うらぎらない。だから行け」


私は言葉を失った。


——逃げれば任務が終わる。

——でも、彼はここで“消える”かもしれない。


ドアがれた。奴らが来た。


私は彼のそばった。


「行くなら、二人で」


「君は正気しょうきか?」


「あなたを見捨みすてるほど、訓練くんれんされてないの」


彼は私を正体に気づいても裏切らないと言ってくれた。

それが事実なら、それ以外は全部後回あとまわしにできる。


「死なせないさ」


私はそれを、信じた。



「来たわ」


低くささやくと彼はうなずき、かべに背をあずけた。

カビと古い木の匂いの中に、鉄の気配がじった。


ドアノブが、音を立てて回った。

私は足元あしもとびんつかみ、ドアへ投げつけた。

開く寸前、それはドアに当たって割れ、一瞬のすきができた。


私たちは同時に動いた。

私は左から射線しゃせんを取ると、彼は右へんだ。


やみの中から体がぶつかる音。

にぶく、重い。敵が一人、倒れ込んだ。


銃が床をすべった。彼がそのおとわせて、机をばした。

木片もくへんり、ほこりった。


私はひろった銃をかまえトリガーを引くと、銃声が室内にひびいた。


火花。破片。銃声。


闇の中で人影が動くと同時に、彼がさけんだ。


せろ!」


私は反射はんしゃ的に身を伏せ、くずれたたなかげすべんだ。


次の瞬間しゅんかん、火薬の匂いと共に壁が崩れ、部屋が一部いちぶ吹き飛んだ。


銃声が響く。壁がくだけ、ほこりつぶが白く浮かび上がる。


「行け!」


彼がさけんだ。

その声を合図あいずに部屋の奥の窓へ走った。


靴底くつぞこがガラスをみ、音を立てた。

外気がいきながんだ。冷たいきりが、もう足元までせまっていた。


東の空が、かすかに灰色をび始めていた。

建物の屋根があわ縁取ふちどられ、街全体が息をしているように見えた。


「飛べ!」


彼に言われ、窓の外へ身を投げ出した。

外壁がいへきすべり降りると、ひざを打った。そのすぐうしろを彼も続いてりて来た。


石畳いしだたみれていた。夜露よつゆ靴底くつぞこで鳴った。

冷たい空気が肺にさるようだ。


背後はいご怒声どせいが聞こえた。

だが、もうたれない。きりがすべてを包んでいた。


二人で裏路地うらろじけた。

薄いきりの中に、街灯がいとうがぼんやりと光のを作っていた。

その上に、秋のがたの空がゆっくりと広がっていた。



エイドリアンは息をあらげながら、ようやく立ち止まった。

胸の中の鼓動こどうがまだたたかいの音をきざんでいた。

ふと顔を上げると、空がうすだいだい色に染まり始めていた。


けるわ」


その言葉が、吐息といきのようにこぼれた。

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