雪の降る町
一畳一間
第1話「日常」
この料理は『バルク・エキメッキ』という。
香り高いオリーブオイルをひいたフライパンでこんがりと焼き色をつけたサバを、紫たまねぎなんかの野菜と共にフランスパンで挟んだサンドイッチの一種だ。
一見すると魚の持つ独特な生臭さが邪魔をしそうであるが、絞られた柚子が爽やさをプラスし調和している。
香ばしい匂いが食欲をそそる。我ながら、悪くない出来だ。
「めっちゃウマ! アタシって下手な焼き魚も無理なんスよ! ほら、実家が魚屋さんなのに生魚ダメじゃないっスか。けどこれ全然そんな匂いしない──ってかなんかオシャな匂いするっス!」
そんな自信作を頬張るカウンター席の
ここまで喜ばれると、こちらも作った甲斐もあるというものだ。
彼女はまたひとしきりオシャ(本人曰くお洒落のオシャだとか)を堪能し、再びかぶりつく。
「ん〜しっかり味が染みたパンもウマァ〜! 塩味、ほのかな酸味とピリリとくるマスタード、マリアージュっスよこれ……」
北山さんの珍妙な語彙にずり落ちた眼鏡を掛け直す。ボキャブラリーが偏っているというか、感性の問題だろうか。
「いやぁ、にしてもサバってこんな脂ノってるんスねぇ……。なんちゅーか和? 日本の心? 的なの思い出したっス!」
「うん、これはトルコ料理ですけどね。どうもありがとう」
俗に言うサバサンド。現地では屋台なんかでよく食べられるB級グルメである。だが、屋台料理と侮るなかれ。その人気からレストランでも出されているほどの料理だ。
かくいう私も、初めて食べた時はエーゲの恵みに感謝したものだ。
「いやぁ
「ごめんなさい。私、これでも店はもう出してるんですよ。問題は、このまかないが店で出せる味か? ってお話なんです。そこのところどうです? バイトの北山さん」
私は北山さんから一つ空けた席に腰を落とす。
ここ『すのうどろっぷ』は
北山さんにまかない兼試食として提供したバルク・エキメッキも、その頃に食べたのを日本人向けにアレンジした物だ。本来の臭み消しと香り付けはレモンなのだが、こちらは代わりに柚子を使っていた。
「あ、これって新メニューっスか? おぉ〜いいっスね、採用! 大採用っス! やっとやる気を出したんスねぇ」
「ありがとうございます。では、試験的にメニューに足してみて反応を見ましょうか」
よく回る北山さんの舌は、味にもうるさい。そんな彼女の太鼓判がいただけたのだから、このバルク・エキメッキもきっと『すのうどろっぷ』の看板メニューになるだろう。
「いやーアタシ常々思ってたんスよ。このお店には足りないものがあるって」
「……その心は?」
「矢上さんのやる気とお客さんっスよ! 今も営業してるってのに、試食できちゃうくらいガラガラじゃないっスか! 今日金曜っスよ!?」
只今の時刻は午後七時。絶賛営業中──どころか、飲食店であればかき入れ時となる時間だ。五月の風はまだ冷たく、ほど近い大学の植物園もまだ芽吹き始めた頃。そんな肌寒い折に、ふと暖かいコーヒーを飲みたくもなろう。
にも関わらずカウンターに腰掛けているのは一人。それもお客さんではない。バイトの女子大生、
「試食でもお仕事になるのはいーんスけど、ぶっちゃけお店が不安っス。まーじに経営は大丈夫なんスか?」
「経営は……よくありません」
ほらぁ! と言いたげな表情の北山さんを両手を突き出し『待った』の姿勢で抑える。
「よくありませんが、副業でちゃんと稼げているので、問題なく経営できています」
それに加え、大きな声では言わないが今まで稼いできた分もある。一生遊んで暮らせる……とまではいかないが、老後の心配とは無縁である。
「副業って、アレでしたっけ? 駐車場とか」
「それも一つですね。ほら、アーケード街を超えたら歓楽街でしょう? 案外車止めようとしたら場所がないんですよ」
一般客もそれなりに利用するが、主な利用者は歓楽街に勤める人々だ。ほぼ毎日来なくてはならない彼らに、一月一万円で貸し出していた。十人貸せばそれで十万円にもなり、そこに通常利用者も来るわけで……。まぁ、それなりの収益になっている。
そもそも歓楽街に行くのに酒も飲まず車で帰るほうが少数派であるから、飲まずに働きに来ている人間をターゲットにするのは当然とも言える。
「んーでももったいないっスねぇ。もっと宣伝しましょうよ。SNSやったり、あと〜……こんな感じのクーポン配るとか!」
そうして眼前に突き出されたのは『コーヒー百円引き!』と丸文字が躍る紙製のコースター。
おかわり自由で三百円のブレンドコーヒーに対し、あまりにも酷な仕打ちである。
「あまりそういうのは……。算盤弾いて経営するほど、採算を気にしてもいないので」
私はその提案をやんわりと断り、その手からコースターを取り上げる。
「あっ! じゃあれっス、ダーツっスよ!」
店内を見回した北山さんが、ちょうど背中側の壁に掛けられた今度はダーツボードに目をつけた。そうして、カウンターの脇に置いてあるダーツの矢を手に取る。
「ここにちょうどよくダーツあんだから、こうやって投げ、て! 真ん中だったら半額とか! それかそれか! 三投して──」
北山さんの放ったダーツはすっぽ抜け、あわや壁へ刺さるところだった。矢の行方もそこそこに、机上の空論をどんどん押し広げていく。
このダーツ割に自信があるのか、思った以上に一方的なプレゼンになり、少し辟易してくる。
──そもそも、バレルの握りが雑なんだ。あれじゃどこに飛ぶかわかったもんじゃない。
矢を放つには力はいらない。
ダーツを一つ手に取り、打つ。
狙いはあやまたず、ブルズアイに突き刺さる。
北山さんの歓声が消えぬ間に、二投三投をまとめて打つ。
無論、的中。こんなもの、距離を測るまでもない。気づけば北山さんの声も止んでいた。
「半額がこんなに簡単だと、さすがに破産してしまいますね」
綺麗に平らげてくれた皿を取り、流しに向かう。いちいち洗い物をするのも効率的でないが、もう来客もないだろう。
そんな
「あっ、じゃあこうしましょうよ! 紹介割! アタシ今度、友達連れてくるんで! それならいいっスよね?」
「友達というと、料理研究会の?」
北山さんはバイトの面接の際に、大学では料理サークルに入っていると言っていた。彼女がもっぱら食べるばかりで料理はからきしだと知っていたら、自分は採用していただろうか?
……まぁこうなっていただろうな。この人当たりの良さと、ちゃきちゃき動くのはホールにぴったりだった。
そんなことを考える私をよそに、元気印の看板娘は大きく頷く。
「そっス! アタシら来週テレビ出るんスよ! なんか食育? がどうとかっていう。それの打ち上げしたいっス!」
水道を止め、水切り棚に皿を置く。
テレビ取材か。まぁ、店のテレビでチャンネルを合わせておけば見れるだろう。
「えぇ、構いませんよ。テーブル席は空いてると思いますが、一応リザーブしておきましょう」
ここに連れて来ようというくらいだから、そう大人数ではないだろう。せめて二つも抑えておけば全員座れるはずだ。
頭の中に『埋まる心配もないのだから抑える必要もない』という囁きが聞こえるが、知らんフリをする。
「そろそろ閉めますか。どうせ、ガラガラのお店ですからね」
「……あのー。もしかして、ちょっと根に持ってたりします?」
私は再びカウンターまで行き、ダーツを一本手に取る。そして北山さんに微笑み掛け、打つ。
既に
「えぇ、ちょっとだけ」
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