社畜・Ver2.0

柏望

第1話 午前二時四十七分

 午前二時四十七分。

 フロア奥の壁に掛かった赤いデジタル時計が、静かに数字を刻んでいる。節電モードの蛍光灯は半分しか点いておらず、天井から落ちる薄い光と、ノートPCのモニターが放つ青白い輝きだけが室内を照らしていた。定期的に空調の低い唸りが耳を撫で、自分の指がキーを叩く無機質な音が床に反射する。缶コーヒーの残り香は酸味を通り越して金属臭すら混じり、肩にまとわりつく倦怠感が鉛のように重かった。


 ここ四時間、手はひたすら動き続けている。自分と管轄班の動向をまとめたレポート。終わりの見えない数字の列と単語と画像の羅列を、八時間後の部署間ミーティングでの使用に耐えるフォーマットへ落とし込む単調な作業は、誰に患うこともない時間に進めたかった。


「もっと速く、もっと多く、そして誰より正確に」


 俺の部署での評価基準はシンプルだ。が、他の部署では同僚たちとのコミュニケーションすら成果物の一形態とみなされる。自分も経営者でない以上は評価をされる側だ。数字と単語だけのメモを噛み砕いてやらねば評価に響く。理解できない者が悪い。そう言って切り捨てられるほど、企業は甘くない。


 とはいえ、人の心を推し量るより数値を積み上げる方が性に合っている。

 背もたれに体を預け、凝り固まった首を鳴らす。眩む視界の端には、わずかに白み始めている東の空が見えている。この時間帯になると、モニターのブルーライトが目の奥を焼くように疼く。


「朝まであと三時間。十二分だ」


 独り言はただの確認作業だ。次の瞬間にはホームポジションに置いたままの指が動き出し、カーソルは淡々とセルを移動する。これは『成果物を上げるための成果物』に過ぎない。本当の仕事は別にある。


 けれど、退屈の只中にも思わぬ躓きはある。

 フォーマットを貼り付けた瞬間、見慣れたフォルダ名――〈T–outputs〉が目に飛び込んだ。

「……妙だな」


 開く予定はなかった。帰宅したはずの部下である塚本つかもとの個人フォルダ。違和感を確かめるべくダブルクリックすると、タイムスタンプが最新順に並ぶリストの一番上に、つい十分前の交信記録が浮かんでいる。


 午前二時三十七分。


 当然、塚本はここにいない。彼は二十二時過ぎ辺りに「おサキ失礼します!」と白い歯をむき出して手を振り、始発で戻ると言い残して消えたばかりだ。ログイン情報のログも取ってみたが、リモート作業の形跡もない。


 不可解さに眉がわずかに動く。

 ファイルを開くと、グラフと画像が几帳面に整理され、正式な形での注釈まで付いている。異様に整いすぎている。


「伸びてはいる、が……なんだこれは」


 塚本の過去三か月の成果物を順番に遡る。スクロールを繰り返すほど、違和感は確信へ変わっていった。量だけでなく、質が跳ね上がっている。粗い部分は残るにせよ、一部は他人に真似をさせたいレベルにまで洗練されていた。


 経験則が頭を叩く。出力の量に比例して速度は上がる。しかし質がこれほど上がるには、時間の蓄積が要るはずだ。塚本はまだ入社二年目、新卒がやらかすような凡ミスも散見される。


 つまり、辻褄が合わない。


 俄には信じがたい現象に、思わず手を止めて考える。膝の上で指を組み、暗いフロアを見回す。

 深夜のビル、残業は自分だけ。のはずだ。『何か』が、自分の知らぬところで動いている。


「無駄だな。ここで考えても、生産性は上がらん」


 言葉と同時に、再びキーボードが空のオフィスに乾いたリズムを刻み始めた。だが思考の奥底では、別の歯車がひそかに噛み合う音がしている。


 夜明けまでに資料を仕上げ、始発で戻ってくる塚本を捕まえる。理由を聞き出せば、何が起きているか見えてくる。


 モニター左隅に常駐させているタスクボードに僅かな空白が生じたころ、レポートは完成した。セルはすべて埋まり、バージョン番号を更新してエクスポート。完璧な書式のPDFをプリンターに送信して、背もたれに深く身を沈めた。


 窓の外、隣のビルのガラス壁面が薄桃色に光を拾い始めていた。夜の深い青が薄明のグラデーションに溶ける。朦朧とした視界の端で、オフィスの自動照明が「朝」を検知して順に点灯し、蛍光灯特有の遅い点滅とともに白色光がフロアに満ちていく。


 プリンターの駆動音が止まる。吐き出された数十枚を束ね、ステープラを打ち込むと、塚本のフォルダにあった謎のファイルが脳裏を過った。


 自席の時計は午前五時十一分を指していた。塚本が言った通り始発でオフィスに戻るなら、早ければ六時前にはつくはずだ。

 指導にも体力が必要だ。開けた缶コーヒーの残りを流しこんで僅かでも糖分を補給する。


 エントランス側のカードリーダーが短く電子音を鳴らしたのは、それからほとんど間を置かずのことだった。


「おはようございま――す……?」


 ドアの向こう、塚本が姿を見せる。短髪を丁寧に撫でつけ、人懐こく笑っている口元からは白い歯が並んでいる。少なくない時間を外見のセットに使っているのだと理解はするが、俺の評価基準に外観はない。


「いいか、塚本。少し話がある」


 塚本の表情は読みやすい。素直に頷き、鞄からノート PC を取り出す動作に余計な警戒はない。


「はい? あ、昨日の分っスか。けっこう頑張ってみたんスけど――」


 自身の目で確認したのは、『頑張った』の域を超えた質と量の跳躍だ。なにがあったのか、二人しかいない早朝に聞くのが一番適している。

 始発が着く時刻を五分ほど過ぎたフロアに、乾いた電子音が跳ねた。

 カードリーダーの信号音とほぼ同時に、自動ドアがゆっくり開く。朝焼け混じりの沈んだ橙を背に、塚本が駆け込むように姿を現した。短髪を一糸の乱れもなく纏め、輝くように白いワイシャツは皺の一つも見当たらない。白い歯を覗かせながら、塚本は落下するような勢いで頭を下げた。


「おはようございます! 加瀬かせ班長」

「ん。話がある、今すぐ来い」

「っざっす! でも、いいんですか? 朝の誰もいない時間いただいて。今日、部間ミーティングっスよね。仮眠は無理でもせめてシャワーくらい」

「お前の無駄口次第だ」


 塚本は「すんません!」と頭を下げ、小走りで自分のデスクに向かっていく。夜間モードだった空調が昼設定へ切り替わったらしく、天井から吹く風が微かに温度を増していく。

 朝焼けに包まれているフロアはまだ静かだ。取引先の電話も他部署からの問い合わせも、今はない。だからこそ、この時間は貴重だった。


「最近の成果物だが、量は予想以上に跳ね上がっている。なのに品質が揃わん理由を聞かせろ」


 単刀直入に切り込むと、塚本は一拍置いてから胸を張る。


「AI、っス。チャット型の。作業を分担してもらってます」

「AIだと?」


 眉がわずかに動くのは止められなかった。学生時代に趣味で触れたことはある。寝食削って完成させた自然言語モデルは、壁を感じさせる玩具だった。それ以来、自然言語による汎用モデルは眉に唾を付けて情報を追っていた。のだが時代は進んだらしい。あれから十年近く経っている、大企業のマンパワーがあるならば。そこまで思考を進めた段階で、なにやら得意げな塚本が頬を緩めた。


「『シュタイヤー』ってヤツです。お世話になってます」

「外注先が人間でも機械でも構わん。責任が取れるならな」


 低い声に含んだ刃を悟ったのか、塚本の軽口がわずかに鈍る。


「了解ッス。機械がやったでも、お客さまへの責任は自分で持つってことですね」

「生意気を言うな。お前の責任は俺が指示した範疇の中にしかない。出力内容は必ず指差し確認して見直せ。始電で出勤しているうちは、なにを使っても成果は出せんぞ」

「き、肝に銘じます」


 塚本が改めて姿勢を正す。早朝の陽光が斜めに差し込み、その気合いの入った表情を照らし出した。


「わかったらミーティングは終了だ。今日のタスクを十分以内に送ってこい。AIを使ってもいい、やれ」

「っざっす!」


 塚本は一礼すると、そのまま自席へ早足で戻っていった。足音がフロアに乾いたリズムを刻み、やがて遠ざかる。


 残された静寂で、加瀬は深く息を吐いた。ディスプレイを切り替え、ブラウザに『Steyr』とタイプして検索窓を叩く。サイトを開けば、たちまちログイン画面が表示される。試しに作ったアカウントで新規セッションを開き、最上段のプロンプトに指を置いた。


〈以下の内容で記される業務報告書の要約を四百字で作成し、箇条書きで論理的問題点を三つ提案せよ〉


 エンターキーを押す。カーソルの脇に現れた点滅ドットが、落ち着きなく明滅を繰り返す。十秒、二十秒、進捗バーは遅々として進まず、ブルーライトの刺激が疲労した眼球に重くのしかかる。


 メールチェックを初めてしばらく後、ついに返ってきた回答は、ぎこちない日本語で埋められたたった五段落の幼稚な文章だった。しかも、『お疲れさまです。ご自愛ください』というくだらない社交辞令までついている。


 無言でウィンドウを閉じて目を瞑る。


 期待外れだ。


 指先から急速に体が冷えてきたようで、少し休むべく席を離れた。背広の内ポケットで社内 ICカードを探りながら、無人の通路を歩く。LEDが順次点き、白い光が足音を追いかける。東側の大窓から射し込む朝日は橙を失い、眩しく光を放っていた。今外に出ると目がやられるのを確信したので、社内で済ませるものだけ用を足すと決めた。

 休憩スペースの自動ドアが開くと、豆を挽く小さなモーター音と焦げた香りが鼻孔を擦った。投入口に百円玉を滑らせると、簡易エスプレッソマシンが蒸気を吐き、紙コップから新鮮なカフェインが一滴ずつ落ちる。濃い液体がコップを満たす間の時間ですら、仕事をしない時間としては異様なほどに長く感じた。


 紙コップを掌で包む。エスプレッソ用に強められた熱が、冷えている指の関節にじくじく染みる。仕事を外注できるほど、あのAI、『シュタイヤー』は成熟していない。返ってきたのは、形なしの要約と愚にもつかない駄文。極めつきは「健康にお気をつけください」などという、どこかの販促メールのような締め文句だ。


 これを『使える』と言ったのか、塚本は。


 まだ湯気の立っているコーヒーを一息に啜る。舌もバカになっているらしく、コーヒーのはずなのに白湯を飲んでいるような感覚しかない。溶け残るくらい砂糖を入れておくべきだった。

 壁際の時計は午前六時十二分。ミーティング開始までまだ四時間あるが、資料を既に仕上げてあることをこんなに喜んだことは久しぶりだ。

『シュタイヤー』に落胆したのが良くなかったのか。頭は空転し、思考の歯車が噛み合っていない。身を休める必要を感じたので、近くのソファに腰を下ろした。

 休憩室の蛍光灯は無機質な白を吐き、窓のない空間を均一に照らす。エスプレッソマシンの湯切り音が止まり、沈黙が落ちた。相当な量のカフェインを入れたはずだが、意識が天井へ向かって細かく千切れていく。


 硬い背もたれを感じながら目を閉じると、暗闇の裏側でAIの点滅カーソルがまだ瞬いている気がしてきた。塚本の笑顔、異様に整っているが意味のないグラフ、出力の末尾の社交辞令。


「失望するほど、期待していたのか。そんなはずないだろう」


 吐息と共に洩れた独り言は、リノリウムの壁に吸い込まれていった。掌にあったコーヒーの温かみは薄れ、紙コップは冷たくなっている。空のカップをゴミ箱に放ると、深呼吸をして伸びをする。


 次に手を動かすのは、少し休息を取ってからにしよう。


 どうせ三十分も眠っていられないのだ思えば、瞼はなんの抵抗もなく閉じていく。蛍光灯の白が淡く瞬く中で、徹夜のまどろみは静かに重力を増していった。

 座っていたはずなのに、なぜか立ち上がっている。夢だと気づいた瞬間、足元のタイルがぼんやりと滲んだ。白すぎる廊下──現実の職場とは微妙に違うレイアウトが、ここを〈脳がでっちあげた職場〉であると静かに告げている。だが目を閉じても醒める気配はなく、深い眠りの底で、私はただ歩みを進めるしかなかった。


「加瀬くん、ちょっといい?」


 背後から届く、柔らかなアルト。振り向く前に、声の主がかつて仕事をした相手の綿谷わたやだとわかった。ショートカットの隙間で小さく揺れる小さな雪の結晶の形をしたイヤリング──細部まで当時のままなのは、私の記憶力が執拗だからか、それとも後悔の結晶なのか。


「……十分でいいか」

「ありがとうございます」


 いつもどおりの軽い会釈。眠っているはずの脳は、彼女と交わした数知れぬやり取りを、正確すぎるくらいに再生する。肩を並べて歩くたび、スマートウォッチが袖口から覗き、薄い金のリングが薬指で光った──あの頃も見えていたはずの印を、自分は見逃していた。


 ミーティングルームの自動扉が、溜め息のように閉まる。テーブルの中央には、一枚の封筒。赤い決裁印だけが鮮烈で、そこだけ画面の彩度を上げたようだ。


「内容を読んだら、ここにサインを」

「……わかった」


 拒む選択肢はない。拒んだ瞬間、耳鳴りとともに現実へ弾き返されるのを、この夢で自分は何度も経験してきた。ペンを取る掌が汗ばむ。用紙を広げれば、完璧な書式の〈異動願〉。段落の余白にまで几帳面な人柄が滲んでいる。


 読むしかない。読み終えた以上、署名しないわけにいかない。自分の名前を走らせるインクが、乾ききらないうちに胸の奥を焼く。


「……本当に、ごめんなさい」


 紙越しに頭を下げる綿谷。私の声帯は凍ったまま動かず、かろうじて唇が震えた。


「あとの処理は……こっちでやる。期日までに引き継ぎを進めてくれ」


 言い終えた瞬間、空調の音が遠のき、視界の端が滲む。廊下の非常灯が、警告のように赤く瞬いた。


 非常灯の赤が脈打つたび、景色はコマ落ちの映像のように飛んだ。

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