第4話「氷の王子、森で遭難する」

 隣国アークライト王国の第二王子、カイウス・デ・アークライトは、焦燥に駆られていた。

 お忍びでの国境付近の視察。それは、近頃不穏な動きを見せるグランツ王国への警戒と、国境に広がる『魔の森』の魔力調査を兼ねた、ごく内密な任務だった。

 しかし、供を二人だけ連れた視察は、些細な油断から最悪の事態を招いた。崖下を偵察中に足を滑らせた供を助けようとして、自分もろとも滑落してしまったのだ。もう一人の供とはぐれ、鬱蒼とした森の中で完全に道を見失ってしまった。


「くそっ……ここはどこだ」


 カイウスは悪態をつきながら、険しい表情で周囲を見渡す。滑落の際に足を捻挫しており、思うように歩けない。日が傾き始め、森は刻一刻と闇を深めていく。

 ここは魔の森。強力な魔物が跋扈し、一度迷い込めば二度と出られないと噂される禁断の地。冷静沈着で「氷の王子」と称される彼も、さすがに焦りの色を隠せない。


『このままでは、朝まで体力がもたない』


 食料も水も尽きかけている。最悪の結末が脳裏をよぎった、その時だった。

 ふわり、と温かく清らかな風が彼の頬を撫でた。それは、この不気味な森にはおよそ似つかわしくない、心地の良い風。風に乗って、微かに花の香りと、楽しげな歌声が聞こえてくる。

 歌声? こんな森の奥で?

 幻聴かとも思ったが、声は確かに聞こえてくる。それは、少女の澄んだソプラノだった。

 カイウスは、痛む足を引きずりながら、声がする方へと必死に進んだ。蔦をかき分け、険しい斜面を登りきると、信じられない光景が彼の目に飛び込んできた。

 森の奥深くに、ぽっかりと開けた空間。そこには温かみのあるログハウスが建ち、色とりどりの花が咲き乱れる庭が広がっていた。そして、庭の中心で歌っていたのは、一人の少女。

 夕陽を浴びて輝く、プラチナブロンドの髪。陽気な鼻歌を歌いながら、不思議な生き物たちと戯れている。額に宝石のような角を持つ、毛玉のような生き物。そして、彼女の傍らには、神話に謳われる聖獣グリフォンが、まるで忠実な番犬のようにおとなしく控えている。

 グリフォンは、あろうことか少女に頭を撫でられ、気持ちよさそうに目を細めていた。


「な……んだ、あれは……」


 カイウスは絶句した。魔の森のイメージとはかけ離れた、まるでおとぎ話の一場面のような光景。聖獣を手懐け、精霊たちと歌う少女。彼女はいったい何者なのか。

 夢でも見ているのではないか。カイウスは呆然と立ち尽くす。

 その少女、エレオノーラは、ふと視線を感じて顔を上げた。そして、茂みの陰に隠れるカイウスの姿を捉える。


「あら? どなたかしら?」


 彼女の鈴を転がすような声に、カイウスははっと我に返った。見つかってしまった。お忍びの視察中だ、身分を明かすわけにはいかない。咄嗟に、旅の商人を装うことを決める。

 エレオノーラは、カイウスの姿を見ると、少し驚いたように目を丸くしたが、すぐに穏やかな笑みを浮かべた。


「まあ、お客様なんて初めてだわ。大丈夫? お怪我をされているようですけど」


 彼女は警戒するそぶりもなく、カイウスに歩み寄ってくる。彼女が近づくにつれて、清浄な魔力の気配が強くなる。この森を満たしている心地よい魔力は、この少女から発せられているのだと、カイウスは直感した。


「……いや、大したことはない。少し道に迷ってしまってな」


 カイウスはぶっきらぼうに答える。いつもの彼ならば、もっと冷たく突き放していただろう。だが、目の前の少女の屈託のない笑顔は、彼の「氷の仮面」に小さな亀裂を入れた。


「それはいけませんわ。夜の森は危険ですもの。さあ、こちらへどうぞ。手当てをしますから、温かいお茶でもいかがですか?」


 エレオノーラは、ごく自然にカイウスに手を差し伸べた。

 その瞬間、カイウスの胸に、今まで感じたことのない温かい感情が流れ込んできた。冷酷非情と噂され、常に孤独であった彼の心に、一筋の光が差し込んだような感覚。

 彼は、差し出されたその小さな手を、無意識のうちに掴んでいた。

 エレオノーラの柔らかな手の感触に、カイウスの心臓が、とくん、と大きく跳ねた。

 これが、氷の王子と元悪役令嬢の、運命の出会いであった。

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