第4話「緑の手が紡ぐ奇跡」

 カイの腕の中で目覚めた朝、僕は生まれて初めて「幸福」という感情の意味を理解した気がした。

 隣で眠る彼の穏やかな寝顔を見ているだけで、胸の奥から温かいものが込み上げてくる。この時間が、永遠に続けばいいのに、と柄にもなく願ってしまった。

 その日を境に、僕とカイの距離はさらに縮まった。彼は以前にも増して僕を気遣い、僕は彼のそばにいることが当たり前になっていった。領民たちはそんな僕たちを、温かい目で見守ってくれている。


「エリアス様の【緑の手】は、本当に奇跡の力ですね」


 ある日、領主の館に併設された小さな診療所で、薬師の老婆リリアが感心したように言った。

 僕は、食料となる作物だけでなく、薬草の栽培にも力を入れ始めていた。この辺境では、怪我や病気になっても王都から薬を取り寄せることは難しい。自分たちの手で薬草を育て、備える必要があったのだ。

 僕の力で育った薬草は、ただ生育が早いだけでなく、その薬効も驚くほど高まっていた。リリアが調合した塗り薬は、深い切り傷さえ数日で塞いでしまう。滋養強壮の薬湯を飲んだ老人たちは、まるで若返ったように元気になった。


「このカモミールも、香りが全然違う。心を落ち着ける効果が、今までの倍以上はあるでしょう」


 リリアは乾燥させたカモミールの花を指先で揉み、その芳醇な香りにうっとりと目を細めた。


「お役に立てて、嬉しいです」


「本当に……あなたは、この土地の女神様ですよ」


『女神様、か』

 王都で「役立たず」と蔑まれたこの力が、ここでは「奇跡」と呼ばれ、「女神」とまで言われる。世界が変われば、物の価値もこれほどまでに変わるのか。僕の心は、誇らしさと、ほんの少しの戸惑いで満たされていた。

 僕の力がもたらした変化は、それだけではなかった。

 辺境の土地は、見違えるように緑豊かになっていった。畑には色とりどりの野菜が実り、牧草地では家畜が丸々と太っていく。以前は枯れ木ばかりが目立っていた森も、僕が毎日少しずつ力を注ぎ続けた結果、若々しい緑の葉を茂らせるようになっていた。

 そして、ある驚くべき発見があった。


「カイ!見てください、これを!」


 その日、僕は森の奥で、一本の不思議な木を見つけた。今まで見たこともない、黄金色の果実をたわわに実らせている。カイを呼びに行くと、彼はその果実を見て息をのんだ。


「これは……『陽光の果実』じゃないか。伝説にしか存在しないとされていた果物だぞ」


「陽光の果実?」


「ああ。どんな病も癒し、食べた者に活力を与えると言われている。何百年も前に、乱獲されて絶滅したはずだったが……」


 カイは信じられないといった様子で、その黄金色の果実を一つ、そっともぎ取った。半分に割ると、中から蜜のように甘い香りが溢れ出し、キラキラと光る果汁が滴り落ちる。

 どうやら僕の力は、ただ植物を成長させるだけでなく、その土地が本来持っていた生命力を呼び覚まし、時には絶滅したはずの種さえも復活させることがあるらしかった。

『僕の力は、地味で役立たないものじゃなかったんだ』

 それは、僕にとって大きな自信になった。アランやリオルに植え付けられた劣等感が、少しずつ剥がれ落ちていく。僕は僕のままでいい。この力は、僕だけの、誇るべき力なのだと。

 その日の夜。

 僕たちは、採れたての『陽光の果実』を領民たちと分かち合って食べた。口にした瞬間、体中に温かい力がみなぎっていくのが分かる。誰もがその奇跡の味に驚き、喜びの声を上げた。


「エリアス様、ありがとう!」


「これで、今年の冬は誰も飢えずに済みそうだ!」


 人々の笑顔に囲まれながら、僕はカイの隣に座っていた。彼は、僕が人々に感謝されている姿を、自分のことのように嬉しそうな顔で眺めている。


「よかったな、エリアス」


「はい。僕、ここに来て、本当によかった」


 心からの言葉だった。追放された時は、人生の全てが終わったと思った。けれど、違った。あの日々は、この幸福な未来にたどり着くための、長い序章に過ぎなかったのだ。

 宴が終わり、人々がそれぞれの家に帰っていく。僕とカイは、二人で夜空を見上げていた。北の空は空気が澄んでいて、星々の輝きが王都で見るよりもずっと強く、美しい。


「なあ、エリアス」


 不意に、カイが僕の手を取った。ごつごつとして、傷だらけの、働き者の手。その手が、僕の指にそっと絡められる。


「ん……?」


「あんたは、この土地の女神だと、みんな言ってる。俺も、そう思う。だが……俺にとっては、それだけじゃない」


 カイは、絡めた手に力を込めた。彼の金色の瞳が、満天の星々よりも強く、僕だけを映している。


「俺にとってあんたは……ただ一人の、大切な人だ」


 心臓が、大きく跳ねた。

 それは、紛れもない告白だった。飾り気のない、真っ直ぐな言葉。貴族たちが交わすような、回りくどい恋の駆け引きなど何もない。ただ、魂から発せられたような、純粋な想い。


「カイ……」


 彼の名前を呼ぶのが、精一杯だった。顔が熱い。きっと、熟れたトマトのように赤くなっているに違いない。


「返事は、急がない。だが、俺の気持ちだけは、知っておいてほしかった」


 カイはそう言うと、絡めていた手を離し、僕の頬にそっと触れた。その指先が、ひどく熱い。


「あんたがここにいてくれるだけで、俺は幸せだ」


 彼の眼差しは、どこまでも優しく、そして切なげだった。僕は、その瞳から目が離せない。この無骨で、不器用で、誰よりも優しいアルファのことが、どうしようもなく好きだ、と。はっきりと、自覚した。

 僕も、あなたのことが好きです。そう伝えたいのに、声が出ない。ただ、彼の手に自分の手をそっと重ねることしかできなかった。

 それでも、僕の気持ちは伝わったようだった。カイは、僕の手を優しく握り返すと、今まで見た中で一番幸せそうな顔で、ふっと微笑んだ。

 その笑顔を見た瞬間、僕の世界は、この辺境の地に咲き誇る花々のように、鮮やかに色づいたのだった。奇跡は、畑の中だけで起きているのではなかった。僕の心の中にも、確かな奇跡が芽吹いていた。

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