第五章:2025年4月24日 木曜日 22時10分
「岸さんか。赤松だ」
受話器の向こうから聞こえてきたのは、先日スイスパビリオンのオフィスで対峙した時の、あのどこか醒めた男のものとは思えないほど硬質な声だった。紗江子はホテルの自室で、武田のパソコンからコピーしたデータの解析を香港の支局に依頼していたところだった。
「赤松さん……何か『思い出す』ことがおありで?」
彼女は、彼の言葉をそのまま返した。一瞬の沈黙。その沈黙が、肯定を意味していることを紗江子は感じ取った。
「我々は、致命的な見落としをしていた。これは単なる――」
赤松の言葉は、そこで途切れた。
代わりに紗江子の耳に届いたのは、乾いた破裂音。そして、激しいノイズと共に通話が切れた。
「赤松さん!? もしもし!」
呼びかけに、応答はない。紗江子は背筋を氷水が流れ落ちるのを感じた。今の音は、ただ事ではない。事故や混線などという生易しいものではない。彼女の脳裏に、最悪の可能性が浮かび上がった。
その頃、赤松はコンクリートの壁に背を押し付け、荒い息を殺していた。
彼が発信ボタンを押した直後、長年の諜報活動で培われた第六感が、殺意の存在を告げていた。それは視線ではない。気配ですらない。自分に向けられた、揺るぎない「意図」の指向性。
彼は通話しながら、無意識に半歩身をずらした。そのコンマ数秒の動きが、彼の命を救った。
甲高い炸裂音と共に、彼がさっきまで持っていたスマートフォンが木っ端微塵に弾け飛んだ。衝撃でしびれる右手を振りながら、彼は即座に人混みの中へと転がり込む。一瞬見えた。対面のビルの屋上に、陽炎のような、ほんのかすかな人影。
狙撃。それも、
警告だ。次に会ったら殺す、という明確なメッセージ。赤松は路地から路地へと駆け抜け、追跡を振り切るための不規則な動きを繰り返す。上着を脱ぎ捨て、裏返して着る。コンビニで買った帽子を目深にかぶる。人相を変え、監視カメラの死角を選びながら、彼は完全に闇の中へと溶けていった。
一時間後、彼は公衆電話から、使い捨てのプリペイドカードで国際回線にアクセスし、複雑な迂回ルートを経由してGPWの代表メールアドレスに一本のメールを送った。本文はない。件名だけだ。
『件名:Re: 配管の幽霊について。明日正午、中之島、猫のいる書店の三段目』
それは、賭けだった。彼女がこの記事にどれだけの価値を見出しているか。そして、彼女にこの暗号を解く知性があるか。
翌日、正午。中之島にある、古書と喫茶の店。
紗江子は、指定された書棚の前で、思想史の専門書を手に取るふりをしていた。三段目の棚の端に、眠った姿の黒猫の置物がある。彼女は周囲を警戒しながら、その置物にそっと指で触れた。
「その著者は、現実の比喩として、しばしば『劇場』という言葉を使った」
背後から、低い声がした。振り返ると、昨日までの警備員の制服とは違う、地味な作業着姿の赤松が、いつの間にか隣に立っていた。その顔には深い疲労の色が浮かんでいたが、瞳だけは剃刀のように鋭く研ぎ澄まされていた。
二人は店の奥にある、窓から最も遠いテーブル席に向かい合った。
「昨夜、撃たれました」
赤松は、単刀直入に切り出した。紗江子は息を呑む。
「相手はプロだ。警告が目的だったようだが、次は確実に殺しにくる。そしておそらく、あなたもリストに載っている」
「……なぜ、そこまで」
「あなたが嗅ぎつけたからだ。武田信介の死は、事故でもなければ、単なる口封じですらない。それは、もっと巨大な計画の、ほんの序章に過ぎない」
赤松は、佐野から得た情報を簡潔に伝えた。フランクフルト経由の軍事レベルのハッキング。改竄されたセンサーログ。これは、博覧会協会の手に負える隠蔽工作ではない。背後にいるのは、国家レベルの組織だと。
今度は紗江子が話す番だった。
「私も、武田の遺品から妙なものを見つけました」
彼女は、武田が残した『大屋根リング風速シミュレーション』のデータファイルについて話した。そして、消えたマイクロSDカードの存在も。
「データは香港に送って解析中です。でも、なぜ風のデータが? それがメタンガスと何の関係があるというんです?」
「関係ないからこそ、意味があるのかもしれない」
赤松は、考え込んでいた。
「武田は、本当のデータをSDカードに隠し、この風のデータをカモフラージュとして残した。我々の注意を、全く別の方向に向けるために。だが、敵は彼の上前をはねて、SDカードを奪っていった」
二人の間に、重い沈黙が落ちた。点と点だった情報が、一本の線で繋がり、恐ろしい全体像がおぼろげに見え始めていた。
「我々は、巨大な獣の尻尾を踏んでしまったらしい」
赤松は、まるで自分に言い聞かせるように呟いた。
「このまま一人で動けば、我々は個別に潰される。だが、もし手を組めば……」
「……共倒れになるかもしれない、と?」
紗江子が、その言葉を引き取った。彼女の瞳には、恐怖と、それを上回るジャーナリストとしての強い光が宿っていた。
「ええ、結構よ。共倒れも、世紀のスクープも、紙一重でしょう?」
彼女は、不敵に笑った。
赤松の口元にも、かすかな笑みが浮かんだ。それは、三年ぶりに感じた、獲物を前にした狩人の笑みだった。
元公安調査官と、国際ジャーナリスト。
食うか、食われるか。疑念に満ちた、危険な共闘が始まった。
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