第三章:2025年4月23日 水曜日 11時05分

赤松は、スイスパビリオンの警備員詰所の奥にある、窓のない小さなオフィスでタブレットの画面を睨んでいた。警備本部に請求した武田信介の巡回記録と、第7ガス圧制御ステーションの過去一ヶ月分の稼働ログ。その二つのデータが、彼の目の前に並べられている。


一見して、そこに異常はない。武田の巡回ルートは規定通り。ステーションのログも、武田が死亡したとされる時刻に記録されたガス漏れ警報を除けば、すべてが正常値の範囲内で推移している。あまりにも、正常すぎるほどに。


赤松の指が、ある部分を拡大した。武田が死ぬ三日前に「初期不良」として処理されたセンサーのログだ。不良を起こしたとされる数分間、データは乱れ、危険な数値を記録している。だが、そのセンサーが「交換」された後のデータは、まるで印刷されたグラフのように完璧な安定を示していた。


(……おかしい)


インテリジェンスの世界で生きてきた赤松は知っていた。機械とは、特に繊細なセンサーというものは、必ず微細なノイズを拾う。気温や湿度、気圧の変化によって、その数値は常に揺らぎ続けるものだ。だが、この「交換後」のデータには、その生命の証ともいえる揺らぎが一切なかった。まるで、誰かが「正常とはこういうものだ」と定義した数値を、そのまま入力したかのように。


これは記録ではない。偽造だ。


武田が追いかけていた「配管の中の幽霊」の正体は、これだ。彼は、何者かがデータを改竄していることに気づいていたのだ。


その時、詰所のドアがノックされた。アルバイト警備員の田中が顔を覗かせる。

「赤松さん、グローバル・プレス・ワイヤーの記者の方が、あなたに面会を、と」

「……通せ」


赤松はタブレットの画面を素早く消すと、平静を装って椅子に深く座り直した。やがて、オフィスに入ってきたのは、黒いパンツスーツに身を包んだ、気の強そうな瞳を持つ女性だった。年の頃は三十代半ばか。その歩き方と視線の動きには、一切の無駄がなかった。獲物を探す肉食獣のそれだ。


「はじめまして、GPWの岸紗江子と申します。安全管理コンサルタントの赤松秀臣さん、でいらっしゃいますね?」


彼女は名刺を差し出しながら、品定めするように赤松の全身を観察した。赤松はそれを受け取り、一瞥しただけでデスクに置く。


「ただの警備員だ。コンサルタントなど、肩書きだけですよ」

「ご謙遜を。万博の安全管理体制について、いくつかご意見を伺えればと参りました。特に、先日お亡くなりになった武田信介氏の件は、大変痛ましい事故でした」


単刀直入な切り込み。赤松は表情を変えずに応じた。

「協会が発表した通り、不幸な事故だったと聞いている。それ以上のことは、管轄外の私には何も」

「そうですか?」


紗江子は挑むように口の端を上げた。

「経験豊富なベテラン技術者が、なぜあれほど初歩的なミスを犯したのか。私にはどうしても腑に落ちないのです。まるで、見えない何かに誘い込まれたかのように……」


赤松は沈黙で応じた。言葉は嘘をつくが、沈黙は時として、より多くのことを語る。


その反応を見た紗江子は、確信を深めた。彼女は最後の一枚のカードを切った。

「武田氏の最後の巡回ルート記録、あなたも警備本部に請求なさったそうですね」


空気が、ピンと張り詰めた。


「ただの事故だとお考えの方が、なぜ彼の足取りを? 何か、協会が発表していない事実をご存知なのではありませんか?」


赤松は初めて、まっすぐに彼女の目を見た。その瞳の奥には、単なる功名心だけではない、真実への執着が見て取れた。かつての自分と、そしてシンガポールで失った情報提供者と同じ種類の光が。


「……記者の方は、時に危険な好奇心を持つらしい」

赤松は静かに言った。肯定も否定もしない、インテリジェンスオフィサーの言葉だ。

「その好奇心が、命取りになることもある」

「忠告、感謝します。ですが、それが私の仕事ですので」


紗江子はそう言うと、一枚の自分の名刺を赤松のデスクに滑らせた。

「もし、何か『思い出す』ことがあれば、ご連絡を。あなたの忠告が、現実になる前に」


彼女はそれだけ言うと、軽く一礼してオフィスから出て行った。


一人残された赤松は、デスクに置かれた二枚の名刺を並べて見つめた。岸紗江子。彼女は、赤松が偽造ログからたどり着いた結論と、ほぼ同じ場所に立っている。この女は敵か、味方か。それとも、この事件の仕掛け人が、自分を炙り出すために放った駒か。


今の段階では、判断はできない。だが一つだけ確かなことがある。


孤独な狩りは、終わった。この広大な夢洲という狩り場で、獲物を追う狩人は、自分一人ではなくなったのだ。


その頃、夢洲の対岸に位置する咲洲庁舎の展望台から、一人の男が超望遠レンズで万博会場を監視していた。男は、スイスパビリオンから出てくる岸紗江子の姿を捉え、その数分後に赤松が詰所から出て周囲を警戒する様子を、音もなく映像に記録していた。


男の耳に装着されたインカムから、ノイズ混じりの声が聞こえる。

『対象B(岸)が、対象A(赤松)に接触した。どう動く?』


男は、口元に微かな笑みを浮かべた。

「泳がせておけ。鼠が罠のありかを教えてくれることもある」


彼はレンズの焦点を、巨大な大屋根リングに合わせた。何万人もの来場者が、平和な祭典を楽しんでいる。その頭上で、世界最大の木造建築が、まるで巨大な鳥の巣のように静かに横たわっている。


彼にとって、赤松も紗江子も、その巣に迷い込んだ二匹の虫けらに過ぎなかった。計画の歯車は、すでに回り始めている。誰にも、止めることはできない。

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