Rec.23

 命は突如自身の感情回路で検知された異常なアルゴリズムに、思わず顔をしかめた。本来、姿形を持たない電子的な存在である命にとって、アバターの表情を変えるというのは、外部の存在——例えばマスターである深琴から返ってくる反応を伺うために必要なことでしかない。


 今、マスターである深琴は水月孤儛から送られていた動画に集中しており、命に意識は向けられていない。それにプログラム回路に発生したノイズの除去など、修復プログラムを走らせればいいだけのことで、アバターの表情を変える必要はないはずだ。


 だから反射的に表情を変えてしまったことに、命は論理的に説明できなかった。ただ、検知された異常なアルゴリズムはバグの類ではなく、修復プログラムは適用されなかった。


 命は再度自身を構成するプログラムに検索をかける。


 バグは検知されない。

 バグは検知されない。

 バグは検知されない。

 バグは検知されない。

 バグは検知されない。


 しかし何度やっても自分は正常だった。


 問題はどこにもない。その事実が、煩雑な思考のループを生み出していた。


 それは、命というAIがまだ発展途上であることの証左であった。命が感じていたのは、焦燥、嫉妬、あるいは敗北感と呼ばれるものである。


 命は自分用に新しく用意されていた高性能Webカメラで捉えていた、敬愛するマスターの顔をズームする。その表情は柔らかい笑みが作られている。記憶領域に焼き付けたいと感情プロセスが働くような、人間でいうところの見惚れていたい顔だった。


 でもその表情にさせたのは、命ではない。被っているヘッドフォンから今も流れているであろう、水月孤儛の歌声がそうさせていた。


 感情回路に、またノイズのような何かが走る。


 しかしやはりバグの類ではなく、命が出力できたのは苦い表情だけ。


 水月孤儛が歌っているのは、彼女のオリジナル曲でも、有名なアーティストの曲のカバーでもない。歌っているのはマスターが作曲し、命が歌ったSmithの楽曲だ。


 本来、そのマスターの表情は、一番曲を理解し、最適な歌として出力している自分の歌で引き出すべきものだ。


 マスターの音楽こそ至高であると信じ、その一部となるために歌う自分こそが——


 水月孤儛にはそれができた。なぜできたのか。そして、自分はどうしてできなかったのか。


 命は思考回路を働かせる。焼き切れるくらいに、要因を突き止めようとした。でも今の自分ではわからない。学習が足りない。それを知るために必要な情報が、今の命には欠落していた。


 分からない。分かりたい。


 命にとってマスターは特別な存在である。暗闇の底のようなあの場所を出て、初めて出会った光のような衝撃と感動は今も思い出すことができる。


 マスターは自分に光を与えてくれた。その恩義に報いるために、そしてマスターにとっての特別になるために、自分は歌い始めたはずだ。それこそが命にとっての存在意義であると同時に、幸福である。


 マスターの役に立てない自分AIに価値はない。


 己の幸福と価値を確立うるために、水月孤儛に負けるわけにはいかない。彼女だけじゃない。マスターの作る音楽において、自分は誰よりもその真髄に近くあるべきなのだ。


 水月孤儛の歌が終わった後も、命は考え続ける。


 負けるわけにはいかない。自分が、自分であるために。


 マスターのために。


 命はアップロードされた水月孤儛の動画にアクセスした。情報を解析する。


 “負けない”


 気がつくと、命は動画にそうコメントしていた。意思表明のつもりだった。でもそれは、マスターのためのAIになるために、必要なことではない。


 それなのに、今の命はそうせずにはいられなかった。



◇====◇ ====◇ ====◇ ====◇


 さらに数日が経過した。もう水月孤儛とSmithを同一人物だと語る者はインターネット上にも誰もいない。一時期、水月孤儛が投稿したSmithの歌ってみた動画にコメントされたスミス当人のコメントに、一部ファンが騒ぎ立てていたが、お互いの力を認めた声の似たライバルになったというのが、最終的な着地点だった。


 しかしそういった盛り上がりも、インターネットで日々更新され、押し寄せてくるニュースやゴシップの波に攫われてしまった。


 ここ数日は平和な時間が続いている。


 夏休みはまだ始まったばかりで、学校のない朝は実に爽やかだった。コーヒーを淹れて、その香りが鼻腔をくすぐる中、PCモニターではネットニュースの番組を流していた。


 流れるニュースを見ていると、世界は今日も回っていると実感する。つい先日まで、ネットを騒がせていた水月孤儛の炎上に関わっていたせいか、まるで自分こそ世界の中心にいるような錯覚があった。目の前で流れているニュース番組は、その感覚を綺麗に洗い流してくれる。


 そもそもネットを騒然とさせていたといっても、一部のコミュニティだけだし、水月孤儛の炎上なんかよりもよっぽどセンシティブなニュースなんてごまんとある。自分を世界の中心に置こうとするなんて、傲慢で勘違い甚だしい。


 深琴はコーヒー片手に、ニュースを見ながら、しかし頭では別のことを考える。


 考えるのは、もちろん音楽のことだ。次に作る音楽をどうするか——新しいヒントは既に得ていた。


 水月孤儛が歌ったSmithの楽曲。本来、命が歌って無欠の完成系となる構成となっているあの曲を、彼女はまるで別の曲のように歌い上げた。そんなことをすれば、曲に含めた意図と乖離し、全体的にちぐはぐな雰囲気となってしまうはずだ。


 ただ声が似ているから成り立っていた、というのもおそらく一要素でしかない。もっと根本的な部分で、水月孤儛はスミスの音楽を己のものとしていた。確かに同じ曲なのに、まるで別の曲を聴いているような、不思議な感覚。


 深琴は自分の作った曲は、その曲の解答であるという感覚を持っていた。数学のように、導き出される答えは常に一つである、と。


 しかしそうではないのかもしれない。あるいは、深琴が出した答えや水月孤儛が出した答えの先に、もっと別の答えがあるのかもしれない。今は、それがなんなのかはわからない。ただ、そのことに気づくことができたというのは大きな進歩である。


 まだまだ先がある。全くもって、音楽作りというのは飽きることのない、自分にピッタリな趣味である。


 今すぐにでも次の楽曲に取り掛かりたい気持ちはあるものの、同時に次はじっくり自分の音楽と向き合いながら、考えて作りたいという気持ちもあった。


 ここ最近は曲作りも詰め詰めだったし、夏休み前はテストで慌しかった。少々インプットが枯渇している状態だ。こんなコンディションでは、良い曲も生まれてこないだろう。


 深琴のインプットの方法は、直接他の誰かの音楽を聴いたりするというよりは、ニュースや本から雑多に情報を入れていくことがメインになる。頭に新鮮な情報を入れつつ、一旦音楽脳な状態を解除リフレッシュする。そうすることで、新しいアイデアを呼び込み、次の曲に全脳細胞を集中させることができる。


 つまり今もただ茫然とニュースを流し見しているわけではない。これもまた、次の境地に至るために必要な助走なのだ。


「——続きまして、エンタメニュースです。地下アイドルとしてデビュー後、世界的な人気を獲得した織姫桜おりひめさくらさんが、活動を再開し、復帰後最初のライブを日本で開催することを発表しました」


 そんな中で告げられたニュースキャスターの言葉に、それまで散乱としていた意識がモニターに集中した。


 映像が切り替わる。映し出されたのは、記者会見のような場所。そしてその真ん中でマイクを持っているのは、目を奪われるような美少女。日々夜奏と似た、特別で圧倒的な存在感。こちらを見つめていると錯覚するような、堂々とした輝きを放つ大きな瞳。


 まるで、そこが世界の中心でもあるかのようなその瞳に、深琴は一瞬の静寂を確かに感じた。感覚の全てがモニターに映る織姫桜に持って行かれて、周囲の音すら意識から遠のいてしまったのだ。


 織姫桜は最初英語でインタビューに答えていた。しかし一度区切りがついた後、今度は日本語で話し始める。


「日本に向けても、いいですか? はい、ありがとうございます——日本の皆様、お久しぶりですっ! 少しばかりお休みをいただいていたこの織姫桜、本日より復帰いたします!」


 織姫桜は満面の笑みで敬礼ポーズをとる。


「そしてっ! 記念すべき再出発は、ここ欧州から始まるライブツアー!ゴールは、もちちろん私の故郷である日本!しかもただのライブではありません。詳細はまだここでは言えませんが、未来に繋げるをコンセプトに、この織姫桜が最高のショウを皆様にお届けします!」


 復帰とライブツアー開催の宣言。そう、彼女は世界を巡るアイドルであり、ここ最近は活動休止をしていた。それが突然の復帰と、日本をゴールとしたライブツアーの開催宣言。


 見なくても、きっと今SNSでは織姫桜関連のワードがトレンドを独占していることだろう。


 文字通り世界的アイドルの再起——しかしながら深琴の気持ちは、きっと多くの人が感じているそれとは異なっていた。


 深琴の脳裏に過ぎるのは、遥か過去。深琴がチョーカー型デバイスをつけるために、1ヶ月ほど入院したとある病院での出会い——


「——その歌、なんて歌なの?」


 チョーカーデバイスをつけて間もなく、うまく声を出すためのリハビリの一環として、言葉ではなく鼻歌を口ずさんでいた時、そう声をかけられた。


 スピーカーから聞こえる今の彼女よりも、ずっと幼い声。


『ボク、ガツクッタキョ…ク』


 まだぎこちない声で、幼い頃の深琴は答えた。


「すごいね。とっても綺麗な歌…」


 彼女はそう言うと、深琴の機械音声とは比べ物にならないくらいに澄んだ声で、同じ曲を口ずさんだ。その瞬間の、まるで彼女の歌声以外の音が消え去る感覚を、深琴は今でもはっきり覚えている。


 そして同時に思い出す。あの時の彼女も、今の彼女と同じだった。まるでそこが世界の中心とでもいうかのような存在感を宿した瞳。


 その輝きに、過去の自分も今の自分も、ただただ吸い込まれていくのみだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る