Rec.12

 その日、城川凪沙しろかわなぎさの目覚めは、近年稀に見るほどの心地よく爽快なものだった。


 これもひとえにスミスと共演したあの番組を経て、これまで肩にのしかかっていた不安が解消されたからだろうか。


 今日は外の仕事もなく、1日中家にいることができる。このスッキリと気分のまま、家に引きこもることには微かな罪悪感を覚えるものの、逆に贅沢な気もした。


「何か飲み物でも頼んじゃおっかな」


 普段は頼まないが、今日はなんとなくこの気持ちをもっと楽しみたかった。クリームとキャラメルシロップが載せられたフローズンラテを注文する。


 宅配アプリには30分と表記されている。凪沙はそれを心待ちにしながら、配信の準備を始める。


 スミスと共演したあの番組が投稿された翌日。凪沙の今の気分は”猛烈に歌いたい”だ。


 ほぼほぼストレス発散に近いが、今日だけは視聴者に自分のわがままに付き合ってもらおう——そんな気分だった。


 配信の準備は整った。もういつでも始められる。あとは飲み物が届けば完璧だ。


 凪沙は飲み物を待っている間、スマホでVtuber関連のニュースサイトを開く。兼任疑惑が出てからというものの、何かと気にするようになってしまった。


 少し苦い思いがせり上がってくる。後遺症みたいなものだが、暇を持て余している今はわざわざ止めることもないだろう。


 水月孤儛についての記事は見当たらない。どうやら昨日の番組をきっかけに、話題の熱はすっかり冷めたようだ。


 その代わりに別の事件が話題になっている。ティープロの海外支社に所属している男性Vtuberが、配信中に双子の姉から突撃をくらったという話だ。


 凪沙も当然同じ会社所属として、面識はないものの知っているタレントだ。ティープロとしては珍しい男性アイドルユニットの1人で、日本人の父とアメリカ人の母を持ち、日本語も話しことができるから日本での人気も高い。


 双子の姉がいることも公開済みの情報だが、姉フラを受けた時は恋人ではないかとも思われたらしい。ただ、やり取りがあまりにも姉弟っぽくて、その後炎上することはなかったようだ。


 自分の時とは酷い差だ。男性だからか、それとも視聴者層のほとんどが海外だからか…


 何せよもう本当に心配はいらないようだ。


 改めて胸を撫で下ろすと、そのタイミングでちょうどインターホンが鳴った。


 飲み物を受け取り、クリームたっぷりのフローズンラテを飲む。口の中が白い甘さとほろ苦さ、そして濃厚なキャラメルに支配される。


「おいしーっ」


 思わず声を上げる。いつもはカロリーを気にして滅多に飲まないから、余計に口の中の幸福に頬を緩めしまう。


 そしてめきめきと配信へのモチベーションも上がってくる。早くモニターの向こう側に、水月孤儛として飛び込みたい。


 すでに配信告知はSNSで発信している。凪沙は半分以下になったラテの容器を一旦テーブルに置いて、待機画面の配信をスタートさせた。


 その後凪沙は、冷たいラテを一気に喉奥に流し込んだ。空になった容器はキッチンまで持っていき、軽く洗ってからシンクの横に置く。


 素早くPCに戻り、配信ソフトの最終チェックに入る。もう配信のコメント欄は待機視聴者からの挨拶コメントが流れ始めている。


「あー、あー、よしっ」


 最後に喉の調子を確認して、凪沙は配信に臨んだ。最初はいつもの挨拶からだ。


「みなさん、ご機嫌よう。龍と人のハーフ、そして新人バーチャルライバーの水月孤儛ですっ」


 弾んだ声で凪沙は、水月孤儛としての活動を開始した。


「今日は少し久々の歌枠です。あっ、昨日の番組見てくれた? もう、緊張しすぎておかしくなってなかったですか?」


 孤儛は今日の配信内容を告げつつ、たくさん流れていた昨日の番組についてのコメントにも触れていく。少しだけ口の中が乾く。


 SNSではあの番組の反応は上々という感じだった。でもこうして、視聴者の生の声を聞くとなると少し不安だった。


「おかしくはなってたけど、面白かった? うぬぬ、素直に喜べない…」


 と言いつつ、孤儛は内心ほっとする。概ねSNSと同じ反応——今ようやく、全ての荷が降りたような気がする。


「よしっ、次はもっと頑張るとして、今日は思いっきり歌う! リクエストされた曲もどんどんやっていくからね」


 まずは一番得意な歌から歌おう。孤儛は用意していた音源リストの最初を再生した。


◇====◇ ====◇ ====◇ ====◇


「あ、あのっ…」


 それは日々夜奏の番組「カナでましょう」の収録が終わった後のこと。


 回っていた録画が停止し、場の緊張感が綻びた隙を狙い、孤儛は勇気を出して声を出す。


 結果喉奥から絞り出たのは、我ながら情けないか細い声。羞恥で顔が一瞬で熱くなり、もう一度言い直そうから迷っていると、


「どうかしたのですか?」


 どうやら自分のマイクは音声を拾っていてくれたらしい。そして孤儛の呼びかけは、正しく伝わった。


 スミスの様子は、収録が終わっても何も変わらなかった。声の調子も、態度も。きっと彼女こそ、Vtuberとして在るべき姿なんだろうと思う。


「少し、相談したいことが会って…いいですか?」


「もちろん! オレでよければ」


 孤儛にとっての憧れは、昔も今この瞬間も変わらず日々夜奏である。


 これまでVtuberという存在は、あくまでも動画サイトで活動する配信者という位置付けで、芸能人なんかとは一線引かれていた印象だった。


 でも日々夜奏のアーティスティックな活動は、Vtuberのブランドを底上げし、今や動画サイトだけの存在ではなくなった。


 その時代を切り拓いていく姿は唯一無二で、誰よりも格好良いと孤儛は思っていた。


 いつか自分も彼女のようになりたい。


 ティープロのオーディションに合格する前から、孤儛は日々夜奏の音楽を、何よりも目標としていた。


 ただ同時に、孤儛は自分が奏のようにはなれないと、初めから分かっていた。心構えとか、そういった話ではなく、至極単純に奏の音楽と、孤儛が表現できる音楽には決定的に交わらない部分があった。


 そう、声質である。


 奏は多種多様な表現力を持っているものの、一番の持ち味は、なんといっても海外の女性ロックアーティストばりに力強く、クールな歌声。


 それは天地がひっくり返っても、孤儛の声質では表現できないものだった。


 だからアーティストとしての日々夜奏の姿勢は目標にしつつも、具体的な歌い手として、技術的な目標としてはあまりにも方向性が異なる。


 そんな折に現れたのが、スミスだった。自分と似た声質で、自分とは明らかに一線を画す歌唱力と表現力。


 自分も今よりも頑張れば、彼女のように歌うことが出来るかもしれないと、そう思った。


「ほんと、ダメなら大丈夫なんですけど…スミスちゃんの投稿してる楽曲の音源、お借りすることって出来ないでしょうか」


「それはつまり…マスターの曲を、孤儛さんが歌いたいってことなのですか?」


 マスターの曲という言葉に一瞬だけ思考がつっかえてしまったが、そういえばそうだった。スミスというのは表にいる彼女と、その裏で曲を作っている皇深琴という人の総称なのだと。


 収録前には挨拶もしたのに、失念するなんて、あまりに失礼すぎる。孤儛は表に出なくてよかったと安堵しつつも、自分を強く戒める。


「…はい」


「うーん…ちょっとそれは、えっと」


 困ったような反応をするスミスに、しまったと焦る孤儛。元々ダメもとではあったものの、改めて考えると声質がにていると言われていた相手に、自分の歌を歌わせて欲しいなんて、何か他意があると思われても仕方がない。


 今更そんな可能性に考えが至り、孤儛はどんどん顔を青褪めさせていく。それなのに心臓は早鐘を打ち、言葉は喉に詰まったかのように出てこない。


「…良いみたいなのです」


「…え?」


 硬直していると、スミスが何故だか放心気味で答える。ただその答えは孤儛が求めていたものだった。


「本当に、いいんですか?」


「はい。問題ないのです。音源については、後からスタッフさんを通して送るのです」


 一瞬聞き間違えなのかとも思って聞き返したが、間違いではなかった。


「…あ、ありがとうございますっ!」


 スミスの曲も、既に何度も聴いている。歌詞もすっかり覚えて、お風呂では歌ったりもした。それを、今度は音源付きで思いっきり歌える。


 歌いたい——


 彼女の歌を、彼女のように。


◇====◇ ====◇ ====◇ ====◇


「——それじゃ、次の曲は…」


 喉のコンディションはすこぶる良い。気分も乗ってる。盛り上がり的にも、歌うべきは今かもしれない。


 孤儛は音源リストの一番下に追加していたスミスの曲に、マウスでカーソルを持ってくる。


 練習も改めてした。今の自分が、どれだけあの歌声に近づけているのか、知りたい——


「よし…」


 決意を固め、一度深く息を吸う。そしてごく自然と、配信者として癖で、孤儛はコメント欄に視線を向ける。


 瞬間、後悔した。それは決してスーパーチャットで強調されたものでも、多くの視聴者が繰り返し発しているものでもない。


 でも孤儛には、そのコメントが浮かび上がって見えた。


 同時に他のコメント達が歪んで、耳鳴りで思考が埋め尽くされていく。


「——えっと、次はそう…前回最後に歌ったあの曲をいこうかな」


 辛うじて、配信の流れを止めずに済んだ。何年も配信を続けてきた経験が、ほとんど無意識で場を繋いでいる。


 スミスの曲に当てられたカーソルを外して、別の曲に向ける。


 しばらくしてイヤホンから音楽が流れ始めた。前回の歌枠の最後で歌った曲。何度も歌ったことがある。でも頭の中にメロディは想起されなかった。


 その後自分がどう歌ったのか、孤儛は鮮明に覚えていない。


 頭の中がずっと、たった一つのコメントに占有されていたからだ。


“歌は相変わらず、スミスの下位互換だよな”


 誰かの嗤い声が、聞こえた気がした。

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