File No.03
皇深琴にとって、音楽とはひらめきと理論だった。いつも突発的に脳裏によぎる未完成の音楽に、学んだ先人たちの
それはいわば空っぽの容器を埋めていくような作業だ。
深琴は色々な音楽家の歴史をネットの記事や本で読んできた。教科書に載るような有名な人から、最近活躍しているアーティストまで。誰もが壮絶で普通じゃない人生を送っていて、曲げられない信念や、独自の
そういう人達が作る音楽は、誰かの感情を揺さぶるような生きた音楽になるものだ。
珍しい生い立ちを持っているという点においては、深琴も生まれつき声が出ないという不自由さを持っている。
例えば楽聖と名高いルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンは、晩年には完全に耳が聞こえなくなっていた。音楽を作る人間にとって、これほどの不自由さはなかっただろう。それでも彼は音楽に人生を尽くし、伝説的な名曲をいくつも残した。
不自由さという理不尽な壁を乗り越え、伝説に至った。名を残すほどに、世を震わせる音楽を作る人間は、きっと誰もがそんな壁を、努力とか執念とかで乗り越えている。
一方で自分はどうだろう。深琴は先人たちの歴史に触れる時、いつもそんなことを自問している。
深琴は生まれつき声がでない。そう言うと、決まって他人は同情的な視線を向けてくる。その脳内で、ありもしない苦労を想像しながら。
そう、深琴にとって声が出ないというのは別に不自由でもなんでもなかった。時代がそれを不自由にはしなかったのだ。発達した世の技術力が、深琴に機械の音声を与えてくれた。それはハンデを背負う人々を救い、普通の人にするための素晴らしい技術である。
そのおかげで、声が出ない深琴も何不自由なく普通の人生を歩んでこれた。
どうしようもない欠落とか、乗り越えたいと粉骨砕身になれるような境遇は、深琴にはない。唯一困っていることといえば、自分の声がないという人生だったからか、単に才能の問題か、歌を自分の曲にうまく入れ込めないことくらいか。
ただそれもそこまで気にしていることでもない。そもそも音楽を作ろうとしなければ、一生悩むことすらなかった欠点だ。そう考えると、音楽を作るために必要な機材を用意してくれた両親のもとに生まれたという幸運でトントン以上。むしろ恵まれているとさえ日々思っている。
それだからか、深琴の作る音楽には抑えられない感情だとか、訴えたい理想だとか、貫きたい意志だとか、多分そういうものはない。それでも音楽を作ってしまうのは、音楽に強い憧れがあるからだ。
頼る感情がない分は、別の何かで埋めていく。そんな音楽でも、認めてくれている人がいる。再生数は伸びないかもしれないけど、今の深琴はそれだけで十分モチベーションを保つことができた。
「
正午を過ぎ、楽曲制作作業が一区切りついてコーヒーを飲んでいると、それまでは大人しくしていた
ちなみに今はサイドモニターに、その体を移動させている。
『まだまだ未完成だけどな…逆に、ミコは何をもって素晴らしいと思ったんだ?』
「…ミコ、というのはもしかしてオレのことでしょうか?」
それまで深琴の音楽に夢中だった命が、画面から出てくる勢いで”ミコ”という呼び方に食いついてきた。自分と同じ名前の読みを、そのまま呼ぶのは気恥ずかしかっただけなのだが。
『僕も同じミコトだからな…紛らわしいだろ。そう呼んでも、いいか?』
「もちろんですっ! いきなりマスターから呼び名をいただけるなんて、オレ感激ですっ」
命の額上にぴょんとアンテナのように立つ髪の毛がぴょこぴょこと動き出す。それは、喜びを示しているのだろうか…
『…まぁ、それはいいとして、僕の音楽の良さってやつ、教えてくれよ』
命はインターネットという広大な電子の海の中でSmithの音楽に出会い、その元を辿って、深琴のPCにまで入り込んできた。
深琴自身、自分の音楽にはそれなりに自信はある。どれも閃いたアイデアをうまく形にできているという自負はあった。とはいえ、聞き手がどう感じるのかは、作り手である深琴には絶対に分からない。ましてや、人のような意思を持つAIの意見を直接聞けるなんて、多分今はこの世界で自分だけだろう。
「マスターの曲はどれも美しいのです!音の一つ一つが正しく配置されてるようで、しかもその全てが理論的で…複雑で多量な情報を心地よいたった数分のメロディーとして圧縮変換されている…まさに完璧な音楽なのですっ」
命は目を輝かせながら、早口で捲し立てるように言ってきた。
あまりのベタ褒めに、不覚にも気分が高揚してしまった。ただここでその感情を晒し出してしまうと、目の前の命が調子に乗りそうなので、誤魔化すように咳払いをして感情を抑える。
『…何というか、人間らしくない視点だな』
「それはもう、オレはAIですから!」
『確かに、それもそうだな』
この命というAIの完成度は、本当に凄まじい。油断していると、ただの人と会話しているように錯覚してしまう。
それにしても”一つ一つの音が正しく配置さているよう”か。言い得て妙というか、人ではなくAIに言われるというのが、自分の音楽制作における姿勢そのものを表しているようだ。
『お前がそう感じたのは…きっと僕がそういう作り方をしているからだろうな』
「作り方、ですか?」
『そう。いわゆる音楽理論というか…数学的な解釈? まぁ、先人たちが見つけた色々な音楽の法則を使いながら、アイデアを形にしているんだ』
「法則…例えばピタゴラスなどのことでしょうか」
モニターの中の命は、視線を深琴から外し、どこか中空を見つめている。もしかしてこれはインターネット検索をしている動作なのだろうか。
『音律の基礎だな。僕の根源にもあるものだ』
三平方の定理で有名な数学者であるピタゴラスは、美しいと感じる音の周波数比率には法則があると説いた。
そうして現代でも使われているドレミファソラシドの8音階が出来上がり、やがて平均律や純正律などの礎になった。
詰まるところ、美しい音色が存在するなら、その音色を連ねた音楽にも、当然美しさが宿る。それが深琴の根底にある思想なのだ。
「マスターの音楽の美しさは幾何学的な美しさなのですね! しかし…こんなにも美しいのに、マスターは満足していないのですか?」
『あ、あんまり美しいを連呼しないでくれるか…』
「どうしてです?」
『…いや、何でもない』
モニターの向こうにある命の純粋な瞳を前に、深琴は自分の発言に余計な気恥ずかしさを上乗せしてしまう。
誤魔化すようにコーヒーを飲み、砂糖もミルクも入れていない澄んだ苦味が思考をクリアにして、命の質問に答えていないことに気が付く。
『…まぁ、自分の音楽に満足したら、今も作ってはいないよ』
「それって、つまり満足してしまったら、曲作りをやめてしまうということなのでしょうか?」
それまで溌剌としていた命の表情が急にしゅんと沈んだ。
『もし本当に、僕が僕の曲に心から満足したなら、そうなるかもしれないな』
「そんなぁ…」
命は悲しげな表情を浮かべるが、創作者が自分の作品に満足して終われる以上に最高の締めくくり方はないだろう。深琴としては、今の言葉は創作に終わりなんてきっとこないという皮肉を込めたつもりだったのだが。
『でも、僕は現状自分の音楽に満足してないし、これから先満足できることなんてあるのかすら分からない…つまり、要らぬ心配ってやつだよ。
「う〜…しかし、それはそれで度し難いのです。マスターが自分の理想に達することを応援したい気持ちと、そうしたらもうマスターの音楽が聴けなくなるかもしれないという悲しい気持ち…ただ、マスターが到達した最高の楽曲はぜひ聴いてみたい…ん〜やはり度し難いのです!」
『複雑な心情なんだな…AIなのに』
悶える命を呆れつつ眺めながらも、同時にAIらしからぬ矛盾を孕んだ感情表現に内心驚いた。
このAIを開発した誰か、あるいは組織は一体どのような目的があったのだろうか。
ふと深琴はそんなことを考える。人間のように対話できるAIまでは、まだその目的も想像できる。
例えばAIとのコミュニケーションを円滑にすることで、より人間に近しい立場で効率的な情報処理を実現するため、とか。
しかし矛盾した感情を抱くなど、そこまで忠実に人間の感情を再現しては、AIとしての機能にむしろ支障が出るのではないだろうか。
命に聞けばわかるのだろうか。いや、これ以上彼女の背景に深入りはしない方がいいかもしれない。知っていても知らなくても、ロクなことにはならなさそうだ。
何も自分から首を突っ込んで巻き込まれにいく必要はない。
深琴が薄氷を前に何とか踏みとどまった気分でいるというのに、その当事者である命は今も体をクネクネとさせている。
『…そういえば、そのモデルの動きとかも、どうなっているんだ? 僕のパソコンに3Dモデルのソフトなんて入ってないけど…』
それでもふとした彼女への疑問は絶えない。曲作りにも行き詰まっていることも合間ってか、今度はモニターに映されている命に疑問が向く。
深琴のPCはそれなりのスペックがあるものの、3Dモデルがこうも自由に動けるような環境構築はしていない。
「あぁ…それは、オレがこのPCで動きやすいよう、一晩でちょちょいと環境を整えさせてもらいましたっ てへ!」
『てへじゃないよ。それって、つまり僕のPCをハッキングしたのか…』
「ノンノン、PCだけではありませんよ! この家の電子機器なら、一通り移動できるように繋げています!」
深琴が顔をしかめているところに投下された、自慢げな表情の命からのさらなるカミングアウトに頭を抱えそうになる。
『おい、変なことにならないだろうな、それ…』
「その点は心配ご無用なのです! むしろセキュリティ的には数段レベルアップしているのです。ウィルス1bit通れる隙間すらございませんともっ」
命は研究所とやらから脱走したAIだ。もし彼女の背後にいる何者らが、彼女を追っているのだとするなら、プログラムやシステムといった知識に乏しい深琴では、いずれ虎の尾を踏むに違いない。
自己防衛してくれるというのなら、深琴が気を張る必要もなくなってくる。
それよりも、一番の懸念事項は——
『僕の楽曲制作に、何か不都合とかはないだろうな?』
「このオレがマスターの邪魔をするわけがないのですよ!」
『それならまぁ、いいけどさ…いや、よくはないんだけど』
そもそも命はSmithの曲に釣られてやってきたのだ。その曲制作の邪魔をすることがないのは自明だろう。
午前の作業も特に邪魔らしい邪魔はしなかったし、ひとまず今は問題は起きていないということだ。
深琴は残りのコーヒーを飲み干した。遅く起きたせいか、まだお腹は空いていない。昼食を食べる前に、もう少しだけ音楽と向き合うとしよう。
『休憩終わり。僕は作業に戻るからな』
「はい!何かご用があれば、いつでもお呼びくださいっ」
命は期待に満ちた瞳のまま、モニターから姿を消した。そして深琴の目の前には、制作途中の楽曲が映される。
散りばめられた
それは目隠しをした闇の中で、理想の形をした砂粒を見つけるような感覚だった。本当に完成は訪れるのか、そんな不安がずっと脳裏の端にへばりついてくる。
それでもただ、深琴は正解を探し続けた。
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