第6話 扉の掲示 ― 街は教室だ

 朝の白い橋は、今日も静かだった。

 水は痛くない。石は冷たいが、冷たすぎない。

 セレスティアは欄干に掌を置き、吐く息の長さを一定に数える。胸元には薄い木札の束――問カード。もう一枚、昨日書き足した札を確認する。


『“今すぐ”を読まない。怖いを言える教室が、王国を変える。』


「行くわよ、王女殿下」


 ミレーネが足音を立てずに並ぶ。紺のリボンを少しだけ締め直し、視線だけで橋の下を見た。

 そこでは朝の楽隊が音合わせを始めている。二拍目に境界を跨がない、三拍目に皮を寄せる――彼らは王国語を覚え、今日も痛くない音を作っている。


「先生、来ます」


 セレスティアが振り返る前に、杖の影が視界の端に入った。アルヴィン=クロウ。灰の外套。

 いつもと同じだが、いつもと違う光が瞳に宿っている。学院中庭で十二教授に“授業”をした翌朝だ。街の空気は昨日より軽いが、代わりに、目に見えない重さが遠くで身じろぎをしている。


「今日は扉の掲示を街へ配る。学院の内だけでは足りん。王国語が本物なら、王宮でも市場でも通る」


「配るって、具体的には?」


「貼る。扉に」


 アルヴィンは小さな巻物を二人に渡した。王立学院の印、公印の朱、そして短い三行が刻まれている。


この場では――

・今すぐは読まない

・怖いと言ってよい

・帰り道を先に書く


「まずは学院周辺の三つの場所。初等部の教室、施療院、そして**灰色区(グレイ・ワード)**の炊き出し所だ」


「灰色区に行くの?」


「王国を変える授業は、王国の外れでこそ試される」


 ミレーネが鼻を鳴らした。彼女は貴族の娘だ。だが、嫌悪ではなかった。たぶん、自分の速度で歩けない場所へ行くことへの苛立ちと、そこに潜む“問”への興味が混じっていた。


「いいわ。待つを速度に入れたの、覚えてるもの」


「よろしい。まずは初等部だ。――子どもはよい鏡になる」



 王立学院・初等部。

 小さな机が並び、窓辺に布で覆われた鉢が置かれている。教師は若い。声に張りがあり、言葉が少し速い。

 廊下に貼り出された新しい掲示に、子どもの背伸びした指が触れていた。


この教室では――

今すぐは読まない/怖いは言ってよい/帰り道を書いてから問え


 アルヴィンは若い教師に会釈をして、扉の内側にも同じ掲示を貼った。

 セレスティアは子どもの目線にしゃがみ、ゆっくりと声を出す。


「ここは、怖いって言っていい場所です」


 最前列の少年が手を挙げた。指が震える。


「ぼ、ぼく、難しいのは怖いです。算術の、黒い点々がいやです」


「言えたね。ありがとう」


 セレスティアは微笑み、黒い点々――分数の小テストの束を指で示した。


「今すぐは読まない。先生、今日のこのテストは明日に回して、“怖いの説明会”から始めませんか」


 若い教師は一瞬戸惑い、アルヴィンを見る。

 アルヴィンは首を振る。


「私を見るな。扉を見ろ」


 若い教師は掲示を見、息を吐いた。「分かりました」

 ミレーネが小声で囁く。「最短ならテストで選別した方が早いのに」

 アルヴィンは聞こえないふりで板書を始めた。式は短く、心は長く。

 最初の十五分で、子どもたちの肩の力が落ちていく。

 次の十五分で、“黒い点々”が粒になり、粒が粒のまま並び始める。

 最後の十五分で、少年が自分のノートに小さく書いた。

 ――『怖いと言えたから、分けられた』。


「いい鏡だったな」


 教室を出て廊下を歩くと、セレスティアの目つきが少し変わっていた。

 怖いを言ってもいい掲示は、王妹殿下の署名が支えている。昨日、彼女は“読む問を選びます”と板に書いてくれた。その意味の重さが、いま身に落ちる。


「次は施療院だ。ここで通らなければ、王国語は嘘だ」



 王都施療院。

 白い壁。鉄の匂い。祈りの歌が低い声で流れている。

 入口に掲示を貼ると、受付の女が怪訝な顔をした。


「“今すぐは読まない”? ここは今すぐが多い場所だよ」


「だからこそ、例外の手続きを書く。『今すぐ』が必要な場合でも、帰り道を先に」


 アルヴィンは別紙に二行書き足した。


例外:痛みと血は、今すぐ読む

ただし、次にどう休むかを先に書く


 施療院の院長が出てきた。白衣の裾を整え、掲示を一読して頷く。


「やってみよう。王妹殿下の署名がある以上、文句は少ないだろう」


 そこへ、慌ただしい足音。

 肩を刺された兵士が担ぎ込まれる。血は多いが、呼吸は浅すぎない。

 アルヴィンは掲示を指し、声を低める。


「今すぐ読む。血を止めろ。――殿下、怖いを言わせてやれ」


 セレスティアは兵士の耳に顔を寄せる。「怖いって言っていいです」

 兵士の目が少し潤み、「こ、怖い」と言えた。

 神官が縫合の準備をし、院長が器具を受け取る。

 ミレーネはその間に手順を書き起こした。短い文で。

1. 痛みは今読む(血を止める)

2. 次に休む場所と時間を先に決める

3. その後で治療の説明


 十五分後、兵士は布団に横たわり、呼吸は落ち着いていた。

 院長が掲示の下に小さく書き足す。


追記:痛いは言ってよい(施療院も教室の一部)


「この掲示、貼り続けるよ」


「ありがとう」


 アルヴィンは深く礼をし、二人と共に施療院を後にする。

 扉の外、空の色が少し濃くなっている。風が南から吹き、遠くの塔の鐘が不規則に二度鳴った。


「灰色区へ急ぐ。――嫌な流れになってきた」



 灰色区。王都の南東、古い城壁の内側に最後まで取り残された街。

 炊き出し所は、広場に机を連ねて大鍋を置き、列を二つ作っている。

 風の向きが少しでも変われば、鍋の火が揺れて具が生煮えになる。水汲みの魔法ポンプは午前に一度止まり、再起動の手順が分からず揉めたと聞いた。


 掲示を貼る前に、声が上がる。


「順番! 順番を守れ!」

「子どもを先に――!」

「働ける奴が並べ!」


 押し合いはまだ押しではない。だが、このままでは押す言葉に流れが変わる。

 アルヴィンは鍋の前に立ち、知らない顔を見渡しながら、扉の紙を高く掲げた。


「今すぐは読まない。怖いは言ってよい。帰り道を先に書く」


 誰かが笑った。誰かが罵った。だが、誰かが紙の文字を指でなぞり、誰かが声に出した。


「……今すぐは、読まない……?」


 アルヴィンは炊き出し所の責任者に紙を渡し、机の端に新しい紙を貼らせた。

 セレスティアが鍋の湯気を吸い込み、手を上げる。


「怖いを言ってください」


 沈黙のあと、最前列の老婆が言った。「怖いさ。孫が昨日から熱だよ」

 次の男が言う。「怖い。仕事がなくなるのが」

 次の女が言う。「怖い。今すぐに慣れちまったのが」

 言葉が場を一度洗い、押すが少し下がる。


「帰り道を先に書く」


 ミレーネが手順を短く示す。

1. 子どもと老人、病の者の列を別に(移動は私が案内)

2. 次に働き手の列。分量は後ろに並ぶほど増える(急かなくてよい)

3. 帰り道に困る者は、橋の下で音を聴いてから帰る(楽隊が午後も待つ)


 笑いが起きた。「音を聴いて帰る?」

 アルヴィンは鍋の火を少し弱め、境界を決めた。火の高さに指を置く。ここまで、ここから。

 鍋の沸きが痛くなくなる。具に火が通る速度は落ちない。

 水ポンプの方で怒号。魔法陣が逆回りしている。再起動の詠唱が短すぎ、押す言葉の連打で理が疲れている。


「殿下。行こう」


 ポンプの石枠に手を置く。冷たい側を先に確保。

 セレスティアは掌で石の温度を測り、「ここ」と言ってから、ほんの少し引く。

 ミレーネが逆回転の遅れを数え、「七拍目」と言い直した。

 アルヴィンが一度だけ石突を触れる。

 ポンプは戻る道へ傾き、痛くない音で水を押し上げ始めた。


 歓声が上がる。

 掲示の紙の周りに人が集まり、誰かが別紙に自分の言葉で追記を書いた。


追記:喧嘩は、明日読む(今日の腹に入れてから)


 灰色区に、扉が一本、増えた。

 アルヴィンは鍋の湯気の向こうで空を見上げる。風が変わる。

 塔の鐘が三度、乱れた。

 嫌な流れが、とうとう形を持った。



 鐘楼は古い。王都の東端、旅人に最初の音を渡すための塔だ。

 今日、それが折れかけている。

 灰色区の男たちが集まり、太い綱で塔を支えていた。揺れる。人が叫ぶ。逃げる足が混ざる。

 恐怖が押す言葉になる第一歩だ。


「離れろ! 下がれ!」

「誰の責任だ!」「税が足りないからこうなる!」


 アルヴィンは走らない。走らないが、先に着く。

 綱を握る男の手に、自分の手を添える。言葉は少し低く。


「怖いと言え」


 男の喉が鳴る。「怖い!」

 その声が合図になり、綱から手を放さずに、人が一歩ずつ下がった。

 セレスティアが塔の根に掌を置く。「痛いがどこにあるか」

 ミレーネが塔の揺れの遅れを読む。風と石、鐘と梁。

 アルヴィンは結び目の位置をずらすだけで、塔の振れを譲る形にした。押さない揺れ。

 鐘は落ちない。

 代わりに、塔の上で古い符がざらりと音を立てた。


 セレスティアの指先が刺すような冷たさに触れる。


「先生……これ、王都の符じゃない」


「古い時代の、戦の印だ。封じ目のひとつが、誰かに起こされた」


「誰か、って――」


「今は問を変えろ。『壊れるか?』ではなく、『戻れるか』」


 セレスティアは頷き、怖いを息に混ぜてから、石に囁いた。


「戻れますか」


 石は――ほんの少しだけ、頷いた。

 塔の揺れが痛くない範囲に収まり、男たちの掌から汗が落ちた。

 アルヴィンは結び目を解き、繋ぎ直す。帰り道を太い方へ移す。

 人々の胸に空気が戻り、怒号が言葉に戻った。

 誰かが言う。「今すぐは読まない!」

 掲示の言葉が、塔の下で誰かの口に宿り、場の言葉になった。


「よくやった」


 アルヴィンが手を離すと、白銀の髪が視界を横切った。

 第二王女イレーネが息を切らし、侍女も護衛も振り切った顔で現れる。


「先生、王宮からの使いを見て飛んできました! 灰色区での掲示、正式に許可が出ました。ただし、監察官の同伴が条件で――」


「監察官は扉の外で“今すぐ”を読め。中の言葉は、怖いを先に」


 イレーネはうなずき、塔の根に両手を当てる。

 彼女は王族だ。問われ続ける立場。読む問を選ぶ訓練を、昨日の授業で受けたばかりだ。


「この場では――今すぐは読まない。塔の修繕は帰り道を書いてから」


 彼女の声は、命令ではない。

 掲示を読み上げる声だ。

 灰色区の人々が頷き、怒りが作業に変わり、作業が休憩に変わる。

 王族の声が、押さずに譲る形で場を支配した。


「殿下、よくやった」


 イレーネは肩で息をし、笑った。「怖いって言いたかったの、わたしも」

 セレスティアが彼女の手を握る。「言えました」

 ミレーネが二人を横目に見て、塔の符に視線を戻す。「封じ目、触ったの誰」


「今は名前はいらない。形だけ覚えろ」


 アルヴィンは古い符の上に短い紙を貼った。そこに三行。


戦の符へ――

今すぐは読まない

怖いは言ってよい

帰り道を先に書く


 風が一度だけ向きを変え、符が疲れを吐き出す。

 それは封印を破って暴れる前の、深い呼吸だった。



 灰色区の午後は、朝より明るかった。

 炊き出しの列は、子どもと老人が先に受け取り、働き手は後ろほど分量が増える方式に慣れた。誰も走らない。

 掲示の紙は増え、扉の色も増えた。

 施療院の補助員がやってきて、「痛いは言ってよい」の札をもう一枚貼った。


 学院から伝令。

 学長ユリウスの短い手紙。太字の三行だけ。


学内全扉に掲示完了

監察官の報告:王宮、暫用の範囲を拡大

夕刻、王城にて評議


 イレーネが封を読み、顔を上げた。「先生、王城へ行きましょう」


「行こう。だが、その前に」


 アルヴィンは炊き出し所の責任者に近づき、扉を親指で弾いた。


「渡す。これからは君たちが、扉を増やすんだ」


「増やせるのかい、俺たちに」


「怖いを言えるなら、増やせる」


 責任者の男は笑って、紙の束を胸に抱いた。

 セレスティアが小さく手を振る。ミレーネは視線で「明日、見に来るわよ」と脅し半分の合図をした。

 灰色区を出るとき、朝の楽隊が橋の下から午後の音を上げた。痛くない音。

 その音が、王城への道を柔らかくした。



 王城・評議の間。

 円卓。椅子。旗。王と王妃。宰相。学長。宮廷魔導。監察官。

 イレーネは王妃の斜め後ろに控え、セレスティアは一歩引いて立つ。王女としてではなく、生徒として。

 アルヴィンは礼を短く、言葉を短く。自分の命が長い分だけ、言葉を長くしない。


「王国語は、学院内だけでなく、街でも通った。初等部、施療院、灰色区。

 必要なのは、扉だ。扉に掲示を貼り、入る者に読む問を選ぶ目を渡す」


 監察官が巻紙を読み上げる。「灰色区の炊き出し所、負傷者の列の混乱が減少。施療院、暴言の発生率が三分の一。

 鐘楼崩落の危険、回避。――報告は以上」


 宰相が細い目を開き、唇を横に引く。「美談だ。だが、統治に必要なのは統一された命令であって、掲示の言葉は解釈を生む。混乱する」


 アルヴィンは首を傾げた。


「命令は必要だ。扉の外では。

 扉の中では、教えるが先だ。解釈は、余白を生む。余白があれば、怖いが言える」


「王城は学校ではない」


「だが、王国は“学んで”いる最中だ」


 ユリウス学長が手を上げる。「宰相、現に数字が動いている。三日の暫用期間を、三十日に延ばそう。扉の掲示は王都全域に。王妹殿下の署名と、王女殿下の副署で」


 部屋の空気が少し動いた。

 王は笑わない。笑わない代わりに、視線で三人――アルヴィン、セレスティア、イレーネ――を順に見た。

 王妃は何も言わず、掌を軽く握った。

 王が口を開く。


「――三十日、やってみるがよい。扉を増やせ。

 ただし、戦の印(しるし)に触れるときは、必ず報せよ。古い時代の封じ目が、誰かに起こされている」


「承知」


 アルヴィンは頭を垂れ、視線だけで【問】の丸を心に描いた。

 誰が起こしているか。それは今日の問ではない。

 今日の問は――どれだけ扉が増やせるか。どれだけ“怖い”が言えるか。



 評議が終わり、城を出る。

 夕暮れの風が白い橋を金に染め、川の音が痛くない。

 セレスティアがふと立ち止まり、橋の下を覗いた。


「先生。王国を変える授業って、もしかして……」


「もしかして、扉を増やすことか、と?」


「はい。教室の数を」


「教室は箱ではない。扉だ。掲示があるところは、どこでも教室になる」


 ミレーネが欄干を軽く叩く。


「扉が増えれば、“今すぐ”を押す声が入ってくる前に、読む問を選べる」


「そうだ。そして扉は――君たちが増やす」


 セレスティアは頷き、問カードに新しい一枚を書いた。


『扉を増やす。掲示と、人。』


 橋の反対側から、ゆっくりと拍子木の音が近づく。

 巡邏の衛兵だ。掲示を見て、笑って、痛くない声で通り過ぎた。

 イレーネが小さく手を振る。


「王城にも扉を増やすから。父上と母上の扉にも」


「頼もしいな」


 アルヴィンは杖を肩に担ぎ、空の色を確かめた。

 遠くの塔の上、古い戦の印がひとつ、夜に混ざって見えなくなる前に、息をした。

 それは警告ではない。呼び声でもない。

 ただの存在だ。千年前の問いの、残り香。


(急ぐな。今すぐは読まない)


 彼は心の板書に、三つの丸を描いた。【問】【扉】【余白】。

 扉は増える。

 余白も増える。

 押す言葉は、扉の外に置かれるだろう。

 そして――いつか、戦そのものにも扉を開く日が来る。


 白い橋の下で、楽隊が短い音を鳴らした。痛くない音。

 老いた賢者は、その音に合わせるのではなく、寄った。

 夕暮れは、夜に向かって戻れる。

 授業は続く。

 王国を変えるのは、掲示と、短い式と、長い心だ。


 ――翌朝から、王都じゅうの扉に紙が増え始めた。

 市場、施療院、鍛冶場、城門、井戸端、牢獄の面会室、酒場の裏口。

 紙は短い。字は大きい。

 今すぐは読まない/怖いと言ってよい/帰り道を先に書く。


 最初に破られた紙は、翌日に二枚になった。

 最初に笑われた紙は、翌日に読まれた。

 最初に燃やされた紙は、翌日に貼られ直し、燃やした本人が謝った。


 街は、ほんの少しずつ、痛くなくなる。

 その痛みの引き方は、戦場よりも遅い。

 だが、遅いからこそ長く続く。


 アルヴィンはその遅さを知っている。千年前の遅さと、いまの遅さの違いを。

 彼は橋の上で立ち止まり、問カードの白に一行、書いた。


『王国を変える授業=扉を増やし、戦の印にも余白を置く』


 風が紙をめくり、川が痛くない音で返事をした。

 歩き出す彼の背で、王都の扉がひとつ、またひとつ、教室になっていく。

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