第4話 賢者の講義 ― 理解できぬ者たち

 王立学院の大講堂は、朝の光で渋く磨かれていた。半円の席に金縁の椅子が並び、壇の背後には王家の紋章。その下、黒板は新調されたばかりの深い緑で、粉塵ひとつない。

 今日は“公開授業”。新任教師アルヴィン=クロウが、王国語の記法とやらを講堂で示す――それが名目で、実態は査問に近い。学長、各科の教授、王宮からの監察官、宮廷魔導団の立会もいる。後方には高等部の生徒まで詰め込まれ、空気には見えない棘が混じっていた。


 壇上の中央に学長が立つ。大柄、短躯、どちらの印象も持たせる奇妙な体格で、声だけはよく通る。


「本日の主題は三つ。第一に、新任が提唱する“王国語(誰でも読める記法)”の妥当性。第二に、彼の授業方針が学院規範に適うか否か。第三に――彼が“伝説の賢者”の名を騙る詐術師でないか、である」


 最後の一言で、後方の生徒席にさざ波が立つ。

 壇の脇で腕を組むのは理論科長ヘーベル。白鬚を撫でながら鼻で笑い、書記に合図して分厚い論文束を掲げさせる。


「古代魔導の無詠唱などという迷信は、三百年前に我らの先人が論破済みだ。世界は数式で動く。詠唱は必要最低限の鍵であり、鍵なしに扉は開かない。これが学院の基礎である」


 実技科の若手が笑い、小声で囁く。「鍵穴に拳をねじ込んで回すのが貴殿らの基礎だろう」――その皮肉は粉塵と一緒に空へ溶けた。

 ガルムント実技長は表情を動かさず、ただ視線だけ壇に走らせる。彼は昨日、アルヴィンの授業を最前列で見た。認めるべきものは認める男だが、それをここでどう示すかは別の話だ。


 扉が開いた。

 灰色の外套、擦り切れた杖。アルヴィン=クロウが歩いてくる。足音は薄く、呼吸は深い。壇上に上がっても、会釈ひとつ。大仰な挨拶はしない。


「――始めましょう」


 彼は黒板の隅に小さく丸を描き、【問】とだけ書いた。

 ざわめきが広がる。たったそれだけで授業を始める教師は、ここでは異物だ。


「本日は、学院の“基礎”を拝見しに来た」


 学長の眉がぴくりと動く。「拝見、とな?」


「ええ。王国最高学府の基礎がどこに置かれているのか。それに合わせて、授業の高さを決める必要があるので」


 アルヴィンは黒板の中央に大きく四角を描き、三つの欄を作る。


【式】

【手順】

【余白】


「私の授業は、この三点で記録し、渡す。――まず、学院式の“基礎”を、教授のどなたかにご提示いただこう」


 挑発というより、純然たる依頼だった。だが、壇に座る教授陣は、挑発と受け取った。

 理論科長ヘーベルが立つ。杖の頭を軽く叩き、書記に黒板の一角を譲らせる。彼は手慣れた筆致で、長い式を三行書いた。詠唱の省略法、魔力密度の補正、安定化の微分項。どれも“学院標準”であり、それゆえに――長い。


「これが基礎だ。長いのは誤用を防ぐためだ。短い式は素人に刃物を持たせる」


「なるほど」


 アルヴィンは一歩近づき、チョークを握り直した。

 そして、ヘーベルの式の上に、一本の横線を引いた。

 上部に、一言だけ書く。


【押すな】


 笑いが起きる。侮蔑ではない。呆れに近い空気だ。「標語か」「子守唄か」と。

 アルヴィンは、その笑いが消えきるのを待った。


「――この一言が、式より先に置かれていないと、扉の向こうの誰かが傷つく。

 私の授業の基礎は、ここにある。誰も傷つけないために、まず押さない。式はその後だ」


 学長が鼻で笑い、手を振る。「情緒の話に来たのではない。証を見せよ」


「承知」


 アルヴィンは黒板の空欄に短い式を書いた。

 数字も記号も少ない。だが、関わるものの位置関係が、驚くほどはっきりと示されている。

 【水/空気/石】と三つだけ要素を置き、矢印を最短の道で結ぶ。矢印の上に、ただ一言。


【痛くない方へ】


 爆笑が起きるかと思われた。だが、起きなかった。

 黒板の前列に陣取っていた実技の中堅たちの顔色が、先に変わったのだ。彼らは昨日の“風車塔”を知っている。

 ヘーベルが苛立ちを隠さず、杖で床を鳴らす。


「笑止千万。では――実地だ。学院の基礎設備の一つを、君の“標語式”で安定化してみせよ。詠唱なしで」


 学長が頷き、会場の端の扉へ視線を投げる。扉の向こうで、鈍い唸りがした。

 黒鉄の枠に収められた魔素循環体――学院全体の魔力の流れを均し、各棟の術式にムラが出ないようにする“心臓”だ。普段は地下にあるが、今日は小型の試験個体が講堂に転がされて来た。


「この循環体は半日ごとに偏りが出る。君の言う“押さない式”とやらで、偏りを整えろ。ただし規格外の道具は使用せず、詠唱禁止。時間は一刻(いっとき)も与えない。今、この場で」


 観客席がざわめく。

 アルヴィンは頷き、杖を持ったまま循環体へ歩く。手を触れない。触れずに、観る。

 耳に近いところで、鉄の内部が細かく軋んだ。流れは速い。が、速さの向きが迷っている。

 彼は、黒板の【手順】の欄にふたつだけ書いた。

1. 冷たい側を先に確保

2. 戻る道を開ける


 観客席の一角で、セレスティアとミレーネが膝を握りしめる。後方席に入るのは許可されたが、発声は禁止だ。二人は目で“先生の授業”を追う。

 アルヴィンは循環体の手前に杖を立て、石突で床を一度だけ擦った。微かな音が石の目を走る。

 それだけで、循環体の唸りが浅くなった。

 彼は黒板へ戻り、【式】の欄に短い矢印を一本付け足す。


【冷たい側 ← 温かい側】


 ヘーベルが嘲る。「それで終いか?」


「まだ始まったばかりだ」


 アルヴィンは壇の縁に片手を置き、循環体に向かって問いを変えた。

 「回れ」ではない。「戻れるか」。

 鉄の中を走る魔力の道筋が、見えないところで一段だけ引き返す。

 循環体の赤い針が、わずかに左へ倒れた。

 学長の顎が僅かに上がる。会場が息を飲む。

 アルヴィンは黒板へ、最後の一行を書いた。


【余白:怖い時は止める合図(手を上)】


 そのとき、循環体の側に立っていた整備担当の若い魔導士が、無意識に片手を上げていた。

 彼の顔には、痛くないという表情が浮かんでいた。


「――整ったな」


 ガルムントが低く言い、腕を組み直した。

 循環体の唸りは、先ほどより静かで、長く維持できる静けさに変わっていた。

 ヘーベルは口を開きかけ、閉じ、また開く。


「まやかしだ。循環体の調整は、外部からの干渉――」


「干渉していない。戻る道を指し示しただけだ」


 アルヴィンは黒板を軽く叩いた。「式」「手順」「余白」。

 それは、誰の目にも、理解できる長さで並んでいる。

 学長は椅子の肘を強く握り、王宮の監察官へ視線を投げた。監察官は無表情で筆を動かすだけだ。


「次だ。講義をしろ。教授陣の前で、わが学院の基礎を――否、君の基礎を語れ。学術の言葉でだ」


 アルヴィンは頷き、黒板の左半分を空けて、新しい板書を始めた。

 文字は少ない。だが、比率と順序がはっきり伝わる書き方だ。


『世界は、変化を嫌う』

『術者の仕事は、変えることではなく、許されている選択肢の中から最も穏やかな一本を示すこと』

『詠唱は“意思の焦点”を合わせるための道具に過ぎない』

『焦点が合っていれば、詠唱は短くてよい。時に、不要でさえある』


 そして、黒板の最下段に、ただ一行。


『押すより、譲れ』


 騒がしくないのに、講堂の空気が大きく動いた。

 教授陣の一部が立ち上がる。「理論に感情を持ち込むな」「譲るとは敗北か」と。

 アルヴィンは、反論を重ねない。代わりに、見せた。


 杖を黒板に立てかけ、両手を開く。

 詠唱しない。印を切らない。

 ただ、講堂の天井へ黙って視線を上げる。

 その瞬間、窓から射す光が、一度だけ柔らかく曲がった。

 埃が金の糸になり、空気の波が細く整列する。

 壇上の黒板の縁が、まるで秋の水面のようにわずかに揺れ、次いで落ち着いた。


 会場の誰も、耳が痛くないことに気づいた。

 ここに来る前、緊張で鳴っていた耳の奥の痛みが――いま、ない。

 アルヴィンは手を下ろし、ごく短く言う。


「私は世界を押していない。世界が自分で戻りたい方を指さしただけだ」


 理論科の中の若い教授が、机を叩いた。


「錯覚だ! 空気の湿度か温度の偶然にすぎない。ならば――学院の全棟に繋がる基幹の流れを触ってみろ。講堂の空調や照明、各棟の術式。ここで一度でも乱せば、即座に混乱が出る。触れずに、整えられるものなら、やってみろ」


 学長が止める間もなく、若教授は地下の制御石に合図を出してしまった。講堂の天井の光が一段明るくなり、壁の符が淡くにじむ。

 危うい。ガルムントが顔をしかめる。

 アルヴィンは笑った。眼差しは、どこか懐かしそうだ。


「千年前も、似たことを言った者がいた」


 彼は壇の端に片足を乗せ、上を見ないで語りかけた。


「お前は戻りたいのだろう。――戻れるか」


 講堂全体の空気が、一瞬だけ、ためらい、次いでほどけた。

 照明は暴れず、空調は止まらず、壁の符のにじみは乾き、黒板の緑は深さを取り戻す。

 生徒席の奥で、誰かが泣きそうに笑った。痛くないのだ。

 若教授は立ち尽くし、口の中で何かを繰り返した。「戻る……戻る……」。

 ヘーベルは椅子の背に手を置き、白鬚を握りしめる。

 学長は――笑った。だがそれは嘲りではない。諦めと納得の間にある、人間の笑いだった。


「……いったい、君は何者だ」


「教師だ」


「それでは答えにならん」


「では、もう少しだけ古い名で。――昔、神を討った教師だ」


 会場の時間が止まった。

 王宮の監察官さえ、筆を止める。

 ガルムントの瞳だけが、少しだけ熱を帯びた。


「伝説の賢者、アルヴィン……なのか」


「伝説というのは、便利に忘れるための箱だ。名前はどうでもいい。必要なのは、教えることだ」


 アルヴィンは黒板に背を向け、後方席を見た。

 セレスティアとミレーネの姿を捉え、片手で合図する。二人が立ち上がる。

 壇上に上がる許可は出ていない。だが学長は止めなかった。止められなかった。すでに“授業”は始まっていて、誰もその流れを遮れないのだ。


「王女殿下。昨日の“橋の下”を覚えているか」


「はい。痛くない音の境界を先に決めました」


「令嬢。君は何をした」


「遅れで一致。相手の速度に、自分の数を合わせました」


「よろしい。――では、ここで渡す」


 アルヴィンは黒板の三欄のうち、【余白】の欄を指さす。


「この欄に、今日の講堂のための掲示を、二人で王国語にして書け。短く。誰が読んでも、痛くならないように」


 セレスティアは白墨を持ち、小さく息を整え、一行を書く。


ここでは、今すぐを読まない。怖いは言ってよい。


 ミレーネが続ける。迷いがない。待つを自分の速度に入れてからの字だ。


帰り道を書いてから問え。押す言葉は扉の外で。


 講堂の空気がほどけた。

 掲示は、術式でも光球でもない。ただの言葉だ。

 だが、読む者の肩の力が、目に見えて抜けていく。

 学長は椅子に深く座り直し、喉の奥で笑った。


「――暫定採用、どころではあるまいな。ガルムント」


「四日後を待つ理由は、もはや“規則”のためだけだ。私は、教える現場のために、今ここで採ることに賛成だ」


 王宮の監察官が立ち上がり、淡々と告げる。


「王宮としても、王女殿下の授業において本記法を試用する許可を与える。危険の予兆があれば、即時停止権は保留するが」


「保留でよい。怖いが言える余白は、授業の基礎だ」


 ヘーベルが、重い息を吐いた。白鬚の間から出た声には、午前の嘲りはもう無い。


「……短い式が、これほど誰をも傷つけないとは、想定していなかった。

 だが私は、学者だ。学ぶ側にも回ろう。老いは、学びをやめたときに始まる」


 アルヴィンは軽く礼を返し、黒板の右上の小さな【問】の丸を、もうひとつ増やした。

 そして、静かに書く。


『王国を変える授業』=押さずに譲る方法を、王国語で


 セレスティアが息を呑む。ミレーネは小さく笑う。

 学長は立ち上がり、短く宣言した。


「公開授業、終了。――ただし本日をもって、学院は“王国語”の暫用を学内標準として試験適用する。各科は三日以内に事例を出し、式・手順・余白の三点で記録のこと」


 木槌は鳴らない。誰もそれを求めなかった。

 生徒席の奥で、遅れて拍手が起き、次いで大きく広がった。

 イレーネ王妹は侍女に支えられず、ひとりで立ち、黒板の掲示を見て小さく頷いた。

 宮廷魔導の年長者は、胸に手を当て、古い礼を一度だけした。

 ガルムントは何も言わず、壇の裏口へ歩いた。実技棟に、これを今すぐ持ち込む腹づもりだ。


 講堂が空になりつつあるとき、学長が声をかけた。


「アルヴィン=クロウ」


「はい」


「私は君の語り口が嫌いだ。短くて、余白が多すぎる。だが――君の授業は、学院が忘れていた“基礎”を思い出させた。

 ここは最高学府である前に、学校だ。押さずに、譲るを、まず我々が学ぼう」


 アルヴィンは笑わない。笑わない代わりに、深く頷いた。


「学長。ありがとうございます。――今日、授業ができました」


 彼は振り返り、後方の二人に目で合図した。

 セレスティアの目は赤く、しかし濁っていない。ミレーネはどこか誇らしげで、けれど慢心はない。

 二人は並んで壇を降り、黒板の前に一礼した。


 廊下に出ると、昼の光が石の床に広がっていた。

 セレスティアが胸元から問カードを取り出し、新しい一枚を挟む。


“今すぐ”を読まない。怖いを言える教室が、王国を変える。


 ミレーネは短く書く。


式は短く、心は長く。


 アルヴィンは二人の間を歩き、外套の襟を少しだけ上げた。

 風は冷たくない。

 学院の空気が、ほんの少しだが痛くなくなっていた。


「先生」


「なんだ、殿下」


「わたし、怖いと言えました。だから――譲れました」


「よくできた。次は、渡せ。君が誰かに」


「はい。明日は、初等部の子に“怖いを言っていい”を渡します」


「令嬢」


「何?」


「君は速い。だが今日は――どうだった」


「待てた。待つを、速度の中に入れた。……速さは、待てるときに強い」


「よろしい」


 三人は白い橋の方へ歩いた。

 王都の川は、相変わらず静かで、痛くなかった。

 橋の下には、朝の楽隊が昼の練習を始める支度をしている。

 アルヴィンは彼らに手を上げ、短く合図した。


「押すな。戻る道を先に」


 楽士頭は笑い、笛を構えた。

 学院の塔に旗が翻り、午後の鐘が鳴る。

 老いた賢者は、ゆっくりと黒板の粉を払うような歩幅で、再び授業へ向かった。

 戦場ではない。だが――戦場より難しい場だ。

 それでいい。難しい方が、教える価値がある。

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