伝説の賢者、家庭教師になる!!

桃神かぐら

第1話 弟子を取りたい

 王都の朝は、鐘の音より先に市場の呼び声で目を覚ます。

 露店の果物が光り、遠くで衛兵の槍が触れ合う音が鳴る。そんな雑踏の外れ、王城へ続く白い石畳の坂を、一人の男がゆっくりと上っていた。


 灰色の外套。擦り切れた杖。背は伸びているが、歩みは老人のように静かだ。

 彼は門の前で足を止め、門番に向かって穏やかに言った。


「弟子を取りたい」


 門番は瞬きを三度してから、互いに顔を見合わせ、苦笑した。


「……は、はあ。師匠の求人は冒険者ギルドの掲示板に――」


「王宮付きの、だ。二人ほど、手のかかる子がいるだろう?」


 門番が思わず背筋を伸ばす。男は名を尋ねられる前に、空気を撫でるように杖をひと振りした。石畳の上に白い粉が舞い、瞬く間に幾何の線が走る。

 ――古い理(ことわり)の要式だ。風が、線を読んで通り過ぎる。


「アルヴィン=クロウ。教師志望だ」


 衛兵長が駆け足で現れ、男の顔を覗き込んだ。

 皺は多い。髭は薄い。だが瞳だけが若者より澄んでいて、深い湖の底を思わせた。


「……陛下にお伺いを立てましょう。こちらへ」


 王城の回廊は静かで、壁のタペストリーには古戦の図が編まれている。

 魔神戦争。千年前。英雄たち。封印。

 男は視線を投げず、ただ歩いた。長いこと思い出さないようにしていた記憶は、勝手に足音につられて起き上がってくる。


(過去は教壇に持ち込むものじゃない)


 玉座の間。

 金糸のカーテンが開き、王と王妃、それに宰相や近衛が整列する。王は男の前に視線を落とした。


「そなたが、教師を志す者か」


「はい。二人の子に、基礎から叩き込む。三ヶ月で王国の恥ではなく、誇りに変えてみせます」


 宰相が咳払いをした。


「口が過ぎるぞ、旅の学者。対象は王女殿下と、公爵家の令嬢ミレーネ。どちらも難物だ。王女殿下は――」


「魔力がない。聞いている」


 その場の空気が、針で突かれたように揺れた。

 王女セレスティアの傷は、王国の傷でもある。誰も触れない。誰も治せない。

 男――アルヴィンは続けた。


「もう一人は、天才すぎて教えられない側。答えだけが早く、問を育てない子だ。どちらも、よくいる」


 王が唇を引き結び、やがて笑った。笑うというより、肩の力がほんの少しほどけた。


「そこまで言うなら、試してみせよ。初日から評判を覆せたなら、正式に任せる」


「授業の場と、子どもたちを」


「学院の予備教室を使え。昼過ぎに二人を行かせる。そなたのやり方を見せよ」


「承知しました」


 アルヴィンは一礼し、踵を返した。

 玉座の間を出る直前、王妃が、小さく、誰にも届かぬほどの声量で呟いた。


「――どうか、あの子に“できない”以外の言葉を」


 彼は答えず、扉の影に消えた。



 王立学院・第三実習棟。使われていない予備教室。

 窓は曇り、黒板は古い。机の脚が一本、長さの違うものに替えられていて、座るとカタカタ揺れた。

 アルヴィンはチョークを手に取り、黒板に大きく一字だけ書いた。


【問】


 扉がノックもなく開く。

 金の髪を二つにまとめた少女が、つんと顎を上げて入ってくる。

 ミレーネ・フォン・グランツ。十二歳。

 その後ろから、深い青のドレスに身を包んだ少女が、おずおずと顔を覗かせた。

 セレスティア・フォン・アーデルハイト。王女。十三歳。


「待ちくたびれたわ。新しい教師? 先に言っておくけど、わたくし、間違いは嫌いなの」


「わ、わたしは……本当に、ここでいいのですか」


 アルヴィンは二人に机を勧め、杖で黒板の一字を示した。


「今日の授業は一問だけだ」


「一問? 短いのね」


「だが、世界を変える一問だ。――“魔法とは何か”」


 ミレーネの瞳が楽しげに光る。


「定義でよければ二十四通りあるわ。王立学院の標準は『自然力に理を与え、結果を指定する技術』。詳説が要る?」


「要らん。王女殿下は?」


 セレスティアは唇を噛み、小さく首を振った。


「わ、私は……魔法を使えませんから。定義も、分からなくて」


「いい答えだ」


「えっ」


「知らないと正しく言えるのは、立派な知だ。――では、やってみせよう」


 アルヴィンは杖を持ち替え、机の上に無造作に置かれた水差しを指した。


「この水を、宙に浮かせる。詠唱も、印もいらない」


「無詠唱? 理層の操作をどうやって――」


「見るより感じろ」


 空気が、静かに冷たくなる。

 水差しの表面に、微細な波紋が走り、次の瞬間――水が逆さに落ち始めた。

 床に零れる前に止まり、薄い板となって宙で水平に広がる。

 セレスティアが息を呑む。ミレーネが椅子を引き寄せて食い入る。


「どういう操作……?」


「操作していない」


「嘘よ」


「理(ことわり)に“お願い”しただけだ」


 アルヴィンは指先で水板に触れ、チョークで黒板に二行を書いた。


【理の前提:世界は変わらぬことを好む】

【術者の仕事:変化ではなく“選び”を提案する】


「力任せに動かすのではなく、世界が既に許している可能性の中から、もっとも穏やかな一本を選ぶ。だから詠唱はいらない。式は短いほど通る」


 ミレーネの眉間が寄る。理解はしているが、気に食わない顔だ。


「理層の可換性を前提にしてる……けど、それだと膨大な計算が必要。常人には不可能」


「常人のために、教師がいる」


 アルヴィンは水板をそっと解き、机に戻した。


「王女殿下。立って、こちらへ」


「わ、私が? でも……魔法、は」


「使わない。手を出して目を閉じ、息を三つ数えるだけだ」


 セレスティアは恐る恐る立ち、目の前に来た。

 小さな両手が差し出される。震えが、指先から伝わってくる。


「怖いか」


「……はい」


「いい。怖いと認められるのも、立派な才だ」


 アルヴィンは軽く杖で机を叩いた。音が、教室の壁で柔らかく跳ね返る。

 彼は小声で問う。


「熱いものと冷たいもの、どちらが近い?」


「――冷たい、です」


「よろしい」


 アルヴィンは黒板に三つ目の行を書く。


【感覚は、世界の最短の言葉である】


「殿下。今の“冷たい”は、部屋の空気だ。つまり、殿下は周囲の“選び”の傾きに気づける。魔力の有無は関係ない。感じることができれば、選べる」


「……選べる?」


「水を冷やすのではない。『冷えてしまいたい』という世界の気分に、少しだけ肩を押してやる」


 アルヴィンはセレスティアの手のひらに、針の先ほどの氷を一粒、乗せた。

 どこから現れたのか、彼女自身、気づけなかっただろう。

 目を開けたセレスティアの唇が、わずかに震える。


「……これ、わたしが?」


「そうだ。殿下が“冷たい”と言ってくれたから、道が見えた。――最初の一歩だ」


 ミレーネが机を叩いた。


「偶然よ。再現して見せて」


「いいだろう。では、君がやる」


「わたくしが?」


「天才の弱点は、最初の成功を軽んじることだ。自分もできる、と信じすぎる。やってみなさい」


 ミレーネは立ち上がり、両手を前に出した。

 瞳に炎が灯る。彼女は速く、正確だ。

 だが、空気は動かない。水差しは揺れず、氷は生まれない。


「……なぜ?」


「君は“正しさ”に手を伸ばした。答えに。けれど必要なのは、“世界の気分”だ。――窓を見ろ。光は柔らかいか、強いか」


「柔らかい。雲が薄くかかっている」


「ならば、光の柔らかさに寄り添う。強く押すな。指で触れるように」


 ミレーネの睫毛が震える。

 数秒の静けさ。

 机の上に、露がひとつ生まれた。小さく、丸く、光を飲む。


「……できた」


「それが“選び”だ」


 ミレーネは悔しそうに笑い、椅子に座り直した。


「認めるわ。あなたのやり方は、わたくしが知っている魔法のどれとも違う」


「違って見えるだけだ。古くて、当たり前のことしか言っていない」


 アルヴィンは黒板に線を引き、四行目を書いた。


【魔法=世界への質問・世界からの回答】


「問がつまらないと、答えもつまらない。良い問を立てること。今日の授業はそれだけ覚えればいい」


 そのとき――扉が乱暴に開いた。

 学院の実技教官が二人、息を切らして飛び込む。


「第三訓練場、暴走です! 召喚陣が暴発、初等部の生徒が取り残され――」


 アルヴィンは短く息を吐いた。


「実地か。いい教具だ」


「待って、あなた、誰に――」


「教師だとも。二人とも、ついて来なさい」


 セレスティアの目が恐怖に揺れ、ミレーネが腕を掴む。


「王女殿下、走れる?」


「……はい」


「よろしい。教師殿、道案内を」


 三人は廊下を駆けた。

 第三訓練場は石の円形闘技場。中央に刻まれた召喚陣が黒く焦げ、円の外で初等部の子らが泣きじゃくっている。

 陣の内部――濁った影が、かろうじて形を持って蠢いていた。獣とも煙ともつかない。未完の呼び出し体だ。

 近衛の若い魔導士が叫ぶ。


「禁足線の内側は理が荒れてます! 下手に力を入れると崩落が――」


「ならば、力を入れない」


 アルヴィンは土の縁に杖を立て、二人に短く指示を飛ばした。


「王女殿下。さっきの“冷たい”を思い出せ。この場で一番“静かな場所”はどこだ?」


「静か……静か……南側の階段の陰、です。そこだけ、風の音が薄い」


「よく見えた。そこに子どもを集めろ。ミレーネ、君は泣いてる子の目を見て“一緒に数える”だけだ。理層は私が整える。いいな」


「え、演算は?」


「要らない。数は世界で一番古い子守唄だ」


 二人が動く。

 アルヴィンは召喚陣の縁に膝をつき、黒板のかわりに地面へと線を引いた。円に対して、わずかにずらした半月。

 古い戦場で何度も描いた、けれど誰にも教えなかった“帰り道”の印。


「おい、老人、危険だ!」


 若い魔導士の叫びを背に、アルヴィンは影へそっと語りかける。


「帰りたかったのだろう? ここではない、向こう側へ。――問を変える。『出て来い』ではなく、『戻れるか』だ」


 影の輪郭が少しだけ薄くなり、焦げた陣の光が収束する。

 アルヴィンは低く、しかしはっきりと告げた。


「世界よ、最初に選んだ形に倣え」


 風が止まる。

 影が、ためらい、そして――ほどけた。

 黒い糸くずのように、空へ、そして地の下へ吸い込まれていく。

 残ったのは焦げ跡と、張り詰めすぎた空気の名残りだけ。


 泣き声が遅れて戻る。

 ミレーネは子どもたちと最後の数を揃え、セレスティアは震える手でひとりひとりの背をさすっている。

 アルヴィンは立ち上がり、埃を払い、二人の前に戻った。


「――これが、授業だ」


 ミレーネが、唇を固く結んだまま問う。


「今のは……召喚を解いたのではなく、問を変えた」


「そうだ。問が変われば、答えも変わる。『来い』と問えば、来る。『帰れるか』と問えば、帰る。どちらも魔法だが、前者は戦い、後者は譲り。教師は、後者を先に教える」


 セレスティアが涙を拭い、顔を上げる。


「わ、私でも……できますか」


「できる。今日、君は“冷たい”を言った。次は“静か”を選んだ。三歩目は――“優しい”だ」


「優しい?」


「誰かに向ける、ではない。世界に向ける“優しさ”だ。そういう問いは、答えを連れてくる」


 訓練場の観覧席で、見物していた教員たちがざわめく。

 近衛の魔導士が、信じがたいものを見る目でアルヴィンを凝視していた。


「あなた、一体――」


「新任教師だ」


 アルヴィンはくるりと杖を回し、二人に微笑む。


「午後の授業は教室に戻る。黒板を新しくして貰おう。字が見づらい」


 そう言って歩き出してから、ふと思い出したように肩越しに言う。


「――王女殿下、ミレーネ。今日の宿題だ。『自分が世界にしてほしい問い』を一つ書いて来い。答えではなく、問いを」


 ミレーネが眉をひそめる。


「抽象的ね」


「抽象でいい。抽象は、具体の母親だ」


 セレスティアは小さく頷いた。

 歩き出すアルヴィンの背に、彼女の声が届く。


「先生」


「なんだ」


「さっき、怖いと……言えました。次は、優しい、を言えるように、頑張ります」


「いい生徒だ」


 アルヴィンはほんの少しだけ、笑う。

 彼の中で、千年前の風景が、また静かに眠り直した。


(世界を救うより、教える方がよほど難しいな)


 しかし――その難しさこそ、やる価値がある。

 老いた賢者は、新しい一日を板書の粉で白くしながら、静かな決意で教室へ戻っていった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る