第5話 灯りの向こう

 夕暮れが町を包み始めるころ、雨はすっかり上がっていた。

 濡れたアスファルトが橙色に光り、電線の先に小さな雲が浮かんでいる。

悠はゆっくりと歩きながら、駅前から続く細い道を抜けた。その道の先に、古びた喫茶店が見える。


 店の名前は〈灯(あかり)〉。十年前、紗月とよく通った場所だった。彼女はここのアップルパイが好きで、いつも二人で分け合って食べた。

「ねえ、半分こって言っても、私の方がちょっと多いよね」

そう言って笑う顔が、まだ鮮明に思い出せる。


 木製のドアを押すと、鈴の音が鳴った。

店内には懐かしいジャズが流れている。

カウンターの奥に立っていたのは、年配の女性。彼女も、あの頃と変わらない笑みで悠を見た。


「……久しぶりね、悠くん」

「覚えていてくれたんですね」

「忘れられるわけないわ。紗月ちゃんとよく来てたじゃない」


 名前を聞いた瞬間、胸の奥に小さな痛みが走った。悠は黙って頷き、窓際の席に腰を下ろした。そこは、いつも紗月が座っていた席だった。


 外には秋の夕暮れ。橙色の光がガラス越しに差し込み、テーブルに長い影を落としている。マフラーを膝の上に置くと、ほのかな香りが立った。彼女の気配が、またこの店に満ちているようだった。


 マスターがそっとカップを置く。

湯気が立ち上り、その向こうに柔らかな光が揺れている。


「この前ね、誰かがこの店に手紙を預けていったのよ」

「……手紙?」

「あなたの名前が書いてあったわ。差出人はなかったけど」


 悠の心臓が静かに高鳴る。

マスターはカウンターの奥から、古い封筒を取り出した。宛名には確かに、「結城 悠」と書かれていた。紗月の筆跡。間違いない。


 封を切くと、淡いインクで書かれた文字が現れた。


『この手紙を見ている頃、もう秋の風が吹いているでしょう。もし、私の声が聞こえたなら、それは夢ではありません。風の丘へ行ってください。そこに、私の“最後の灯り”を置いてきました』


 悠はその一文を何度も読み返した。

最後の灯り——それは何を意味するのだろう。


 マスターは静かにカウンター越しに言った。

「紗月ちゃんね、亡くなる前の年の秋、この店に来てね……『風が止む季節に、彼に光を届けたいの』って言ってたのよ」


 カップの中のコーヒーが、ふっと揺れた。

悠は手紙を胸に抱き、目を閉じた。紗月は、最期まで自分のことを想ってくれていたのだ。


 外を見れば、街灯が一つずつ灯り始めていた。空は群青に染まり、遠くの丘の方角に、ぽつりと明かりが見える。

風ノ丘——。


 悠は立ち上がり、マスターに深く頭を下げた。

「……ありがとうございました」

「気をつけて行ってね。あの子も、きっと待ってるから」


 店を出ると、風が少し冷たかった。

けれど、不思議とその風が心地よい。灯りの向こう、丘の方へと歩き出すと、街のざわめきが次第に遠ざかっていく。


 紗月が残した最後の灯り。

それが何であれ、そこに彼女の想いがあるのなら——会いに行かなければならない。


 風の中で、ふと耳元に声がした。

「悠、また会おうね」

振り返っても、誰もいなかった。

ただ、街灯の下でマフラーの端が小さく揺れていた。


 まるで紗月が微笑んでいるように。

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