第四章 栄光の蹄 服従の手綱
第19話
王国の心臓──アルケイン王国王都の中央宮。
その最奥にある会議室は、まさに“贅”の塊だった。
金細工、彫像、神話絵画、厚く敷かれた絨毯。
上座には、巨大な獅子の剥製を飾った円卓。
幾重にも塗り薬を重ねた木の表面は、水面のように冷たく光っている。
ここでは今、王国の運命を決める『王前会議』が始まろうとしていた。
「……今年は葡萄の実りが悪くてのぅ」
「ゴーント連合の動きも気になりますな」
「王都にも神敵が多すぎます。早急に取り締まるべきでは?」
誰もが取り留めのない話題で時間を潰していた。
本題に入ることを恐れているようにも見える。
──その時、扉が開いた。
槍の石突が床を叩く音が二度響く。
「アルケイン王国第十三代国王陛下、御成!」
全員が椅子から立ち、沈黙が広がる。
音も息も止まる中、主がゆっくりと歩み出てきた。
入室した男は、きらびやかな衣装に身を包み、
頭には宝石の散りばめられた王冠を戴いていた。
だが、その歩みは驚くほど弱々しい。
背を曲げ、杖もつかず、両脇に侍る二人の美女に支えられている。
彼女たちは“側女”──王に仕えることを許された女たち。
だがその衣装は、もはや衣服と呼べぬほど薄い。
退廃の香りが、部屋の空気を変えた。
それでも誰一人、顔を上げようとはしない。
彼が視線を向けた瞬間、まるで槍で突かれたように身を強張らせた。
王の左腕は鉄で出来た義手。
金属の指が、僅かに音を立てて握られる。
──ハリオス十三世。
アルケイン王国第十三代国王。
民は彼をこう呼ぶ。
“アイアン・ハンド”。
そして、その名を恐れをもって語る者もいた。
『偉大なる圧政』──と。
王が腰を下ろすと、部屋の空気が一瞬で整った。
椅子を一糸乱れぬ動きで戻し、
誰一人わずかな音さえ立てまいと気を遣い、席に着く。
ハリオス十三世は義手で円卓を二度、淡く叩いた。金属の甲高い音が、
滑らかな表面を伝って冷たく反射する。
隣に控えた執事長が立ち上がる。ケイナン・ミルシュ――
王の秘書を務める有力貴族だ。
彼の口は滑らかだが、その背筋は今、僅かに震えている。
「本日は、お日柄もよく、陛下におかれましては――」
「くどい」
その短い遮りで、部屋中の血が凍る。ケイナンは顔色を変え、
言葉を飲み込むしかなかった。王の一言が、ここでは何より重い。
「議題をひとつ。『ザンジバル事件』について、陛下のご裁可を――」
報告の役を命じられたのは、
騎士団を統括する大柄な男、ハイネケン・グラードだった。
鎧の音をかすかに立てて立ち上がる。
「王国領東マルクス、ライリー泊管轄のザンジバルにて、獣人奴隷の反乱が発生。
奴隷商コルストン及びその妻モーティシア様が殺害されました。
――モーティシア様は“始まりの貴族”に連なるお方です」
王の横で、側女が柔らかく笑う。
――王は興味なさげにその胸を撫で、次いで左義手を固く握った。
「皆殺しにしろ」
その命が出た瞬間、誰もが動きを止めた。
ハイネケンが思わず聞き返す。
「は……? 陛下――」
「ザンジバルおよび周辺の
ライリーは縛り首だ」
「しかし、下手人の所在も不明で――」
ハリオスは机を強く叩いた。その振動が周囲の杯を震わせ、
側女の悲鳴が小さく漏れた。
「
何がいけないのか――」
会議室には凍りついた沈黙だけが残る。
「お待ちください、陛下!」
沈黙を切り裂くような声が、広い会議室に響いた。
円卓に座る者ではない。
部屋の隅、粗末な机のそばに立つ影があった。
「……何だ?」
ハリオス十三世が目を向ける。
誰もが慌てて目を伏せる。
自分ではないと、ただ必死に祈るように。
王の視線が、ひとりの女を射抜いた。
清廉な顔立ち。金の髪を後ろで編み、磨き上げられた胸甲に陽が反射する。
そして――下半身は馬の身体。
人の上半身と馬の躯を併せ持つ、希少なケンタウロス族の騎士だった。
彼女は、勇敢でありながらも、どこか怯えるような瞳で王を見ていた。
「文句があるのか?」
「滅相もございません、陛下。
ただ……我が部下の報告に、少々気になる点がありまして」
「言え」
「現地で捕らえた……その、
カツン。
義手の指が、円卓を静かに叩く。
それだけで、空気が凍った。
「……今、なんと?」
「っ……失礼を。
彼女は一度、深く息を吸い込む。
王の目が、まるで刃のように喉を撫でていた。
「そこに書かれていたのは――『獣王、復活』と」
一瞬で、空気が変わった。
音が消える。
誰もが息を止める。
その言葉だけが、部屋の中心に取り残されたまま、重く沈み込んでいた。
「……ほう」
王の瞳に、鈍く光が宿った。
その一瞬で、部屋の温度が下がる。
立ち上がったのは、太陽聖教教会より派遣されたマルモン枢機卿だった。
「じ、獣王だと? 悪魔の王の名ではないか!
なんと畏れ多い! すぐにその者の首を――」
「黙れ」
乾いた一言。
マルモンの声が喉の奥で凍りつく。
椅子に崩れ落ちた彼は、まるで魂を抜かれたようだった。
「……セリューネ。続けろ」
セリューネと呼ばれたケンタウロスは王の命の通りの行動をした。
「はっ。奴隷を解放した者は自らを“獣王”と名乗り、
獣人を救うと口にしていたそうです」
ざわめきが広がる。
“獣王”――神に背いた異形の王。その名を語るなど、冒涜そのものだった。
「ふん。それならば後顧の憂いを断てば良い。
その話を聞いた
王の声は淡々としていた。
「お言葉ですが、陛下!」
セリューネが慌てて言葉を継ぐ。
「無闇に討伐すれば模倣者が出ます。
ここは首謀者を捕え、経緯を確認するべきかと――」
沈黙。
王は目を閉じ、考えている。
誰も息を吸うことすらできない。
「手ぬるい!!」
沈黙を破ったのはマルモンだった。
「そんな真似をすれば、
セリューネ! 貴様、奴らの肩を――」
カツン。カツン。
義手の音が円卓に響いた。
その瞬間、二人の衛兵が無言でマルモンの傍らに立つ。
「な……なにをする!? ま、まさか……
陛下!? ハリオス陛下!? お慈悲を、どうかお慈悲をぁッ!!」
マルモンは衛兵によって部屋から出された。
誰も目を上げない。
ただ、扉が閉まる音だけが、重く長く、部屋に残った。
……セリューネは、拳を握りしめたまま動けなかった。
「……セリューネ? 獣人共の面倒事はお前の管轄だったはずだな」
ハリオス王の低い声が、会議室の壁を這うように響いた。
その一言で、空気が一層重くなる。
セリューネは喉を鳴らし、慎重に口を開いた。
「……この身、
獣人義勇騎士団団長を拝命しております」
「ならば――これは貴様の不手際ということか?」
コツ、と。
鉄の義手がわずかに円卓から浮いた。
その瞬間、室内の誰もが息を呑み、微動だにしなくなる。
衛兵すら、目を逸らした。
「お待ちくだされ!」
セリューネの背後から、ケンタウロスの副官が一歩前に出る。
「此度の件、その責は我らに――」
「俺はセリューネと話をしている」
冷たい声。
セリューネは咄嗟に手を挙げ、副官を制した。
王の機嫌を損ねるわけにはいかない。
沈黙。
喉の奥が焼けるように痛い。
それでも、彼女は顔を上げた。
「……なればこそ、現地には私自らが向かい、贖罪の機会を頂ければと、願います」
「俺がそれを許すとでも?」
ハリオスの声は低く、笑っていなかった。
痩せこけた頬、病のように青白い肌――
だが、その眼だけは、光を飲み込んだように爛々と輝いていた。
王が微動だにしないまま、全員が目を伏せた。
側女ですら、一歩、彼から距離を取っている。
セリューネの手が震えた。
それを、王は確かに見ていた。
まるで、愉しむように――。
誰もが思った。
王国の中で唯一といっていい、優遇された
名誉王国民――
ケンタウロス族の美姫、セリューネはこの場で断頭台の露と消えるだろうと。
震える肩。
それでも、彼女は王から視線を逸らさなかった。
恐怖の中で、ただ一人、その瞳を見据えていた。
「……良きに計らえ」
そう、聞こえた気がした。
だが、誰も息を呑むことすらできなかった。
聞き返す勇気など、あるはずもない。
「ケイナン。田舎の一都市のくだらん反乱に、俺の手を煩わせるな」
「申し訳ありません、陛下」
ケイナンは深々と頭を下げる。
その額には汗が滲んでいた。
「ハイネケン。この一件はセリューネに任せろ。
必要なものを――適当に用意してやれ」
「御意に」
「……それと」
その声に、室内の全員が跳ね上がる。
また、誰かが選ばれる――そんな予感。
「ライリーを吊るせ。家督は……そうだな、次男のハラルドに継がせろ」
「は? し、しかしライリー伯は既に――」
「聞こえなかったか?」
「い、いえ! 仰せのままに!」
ハリオス王は、何事もなかったかのように側女へ合図を送る。
女たちは微笑を浮かべながら王を支え、静かに退室した。
扉が閉まる音。
その瞬間、部屋の空気がゆっくりと解放される。
誰もが言いたいことを飲み込み、ただ――
“生き残れた”という事実に、罪人のような安堵を覚えていた。
セリューネは王の背中に頭を下げて見送っていた。
獣王──
その名を騙るものが、どのような人物なのか見定めなければならない。
もし……ただの不届き者なら、この手で処分しなければならない。
それが……
ケンタウロス族の長である自分の役目だと彼女はもう一度、心に誓うのだった。
──続く。
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