第5章 沈黙の番人
夜の森は、息を潜めていた。
風の音も、虫の羽音も、どこか遠くへ押しやられたように消えている。
足元の落ち葉は乾いているのに、踏むたびに柔らかい音を立てた。まるで、誰かが土の下から返事をしているみたいだ。
ルークが前を歩く。
背中越しに見える彼の肩が、わずかに震えていた。けれど、その足は止まらない。
彼の手の中で、古びたランタンが小さな火を揺らしている。
「……静かすぎるね」
「うん。森って、こんなに黙ってるものなの?」
「違う。たぶん、黙らされてる」
わたしはその言葉に息をのんだ。
沈黙を守るもの——セラが言っていた存在。
ここは、きっとその“領域”だ。
風が吹かないのに、木々がかすかに軋む。
ひとつ、またひとつ。
森全体が、何かを押し殺しているように息を詰めている。
「ルーク……何か、聞こえる?」
「ううん。聞こえない。でも、見える」
彼の視線の先に、灰色の霧が立ち込めていた。
霧の向こうに、人の形がいくつも揺れている。
声を上げることもなく、ただ、立っている。
近づくにつれて、それが“人ではない”ことがわかった。
顔がない。
口も、目も、何もない。
その代わり、胸の中央に黒い裂け目があり、そこから冷たい光が漏れていた。
「……これが、“番人”?」
「そうだ」
頭の中に、セラの声が響く。
——沈黙の番人。神々が作った“抑制”そのものだ。
——声を持つ者を、世界から切り離すための守り。
「倒せるの?」
——倒すものではない。理解せよ。沈黙にも意味がある。
けれど、番人たちは近づいてきた。
足音もなく、地面から滑るように。
そのたびに空気が凍り、わたしの喉が固まっていく。
声を出そうとしても、言葉が出ない。
まるで空気そのものに掴まれたように、音が閉じ込められてしまう。
「レミリア!」
ルークの声が遠くに聞こえた。
彼がわたしの手を掴み、引き寄せる。
けれど、その瞬間、番人の一体がルークの背中を掠めた。
黒い光が散り、彼が膝をつく。
「ルーク!」
叫ぼうとしたのに、声が出ない。
代わりに、胸の奥が灼けた。
喉を塞ぐ沈黙の膜を破りたい。
叫びたいのに、息が音にならない。
——声は形を求めずして、届く。
セラの声が、遠くで囁いた。
——お前は声を出すために生まれたのではない。
——世界に響かせるために、ここにいるのだ。
わたしは目を閉じた。
言葉を使わず、心の中で叫んだ。
——やめて。ルークを、取らないで!
その瞬間、胸の奥が弾けた。
息が風になり、風が光に変わる。
見えない波が広がり、番人たちの胸の裂け目を貫いた。
黒い光が一瞬だけ白く染まり、彼らの輪郭が崩れていく。
音のない爆ぜる音が響いた。
静寂の中に、ただ一つ、確かな音があった。
ルークの息だ。
彼は苦しそうに咳き込み、顔を上げた。
「……今の、君の声?」
「わからない。でも、出たみたい」
森の霧が薄れていく。
遠くの空がうっすらと明るい。
夜が終わりかけていた。
セラの声が再び響く。
——見事だ、レミリア。沈黙を壊すとは、沈黙を受け入れたということだ。
——その声は、世界の律を変える。
「でも、怖かった……。何も聞こえなくなるのが、怖かった」
——それでいい。恐れを抱いた声ほど、深く届く。
ルークが立ち上がり、泥のついた手でわたしの頬を撫でた。
「……ありがとう。助けてくれて」
「こちらこそ。あなたが呼んでくれたから、声を出せた」
二人の間に、朝の風が通り抜けた。
森が目を覚ましたように、小鳥の声が戻ってくる。
枝の先で、陽が差した。
「ねえ、レミリア。これで終わりかな?」
「わからない。でも、世界はまた、少しだけ動いた気がする」
「うん。……君の声で」
その言葉を聞いて、胸の奥が熱くなった。
“ぼろ雑巾”と呼ばれていた少女の中に、初めて「名前を持つ音」が根づいた気がした。
——レミリア。
——その名は、もうお前一人のものではない。
——声を渡せ。恐れる者たちに。沈黙の番人たちにさえも。
セラの声が消える。
空の向こうで、何かが微かに光った。
ルークとわたしは見上げる。
森の端で、陽光が滲み、朝が完全に森を包み込んだ。
「行こう」
「どこへ?」
「この声を、次の誰かに届けに」
わたしは頷いた。
風が髪を揺らし、背中を押す。
その風は、もう屋根裏の隙間から吹き込むものではない。
世界が、わたしの声に返事をしてくれている。
静寂の終わりを告げるように、遠くで鐘が鳴った。
それは祈りの音ではなく、始まりの音だった。
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