虐げられた幼女、屋根裏から世界を変える声をあげた。

妙原奇天/KITEN Myohara

第1章 「ぼろ雑巾」と呼ばれた少女

 屋根裏部屋は、昼でも夜の匂いがした。

 天窓は煤で白く曇り、光は粉のように降って、床板の隙間に吸い込まれる。床はいつも冷たく、釘の頭がところどころ顔を出している。そこに掛けてあるのは、洗いざらしのシーツ一枚と、ぺしゃんこの藁布団。


 その端で、わたしは息を潜めていた。


 この屋敷では、生まれの良さが人の価値だと教えられる。魔力量、家柄、顔立ち。持たぬ者は、誰かの靴底であるべきだと。

 だから、わたしは「ぼろ雑巾」だった。

 本当の名は“レミリア”。けれど、誰もそう呼ばない。呼ばれ名は、わたしを形づくる。食器の底にこびりついた汚れのように。


「ぼろ雑巾、起きているのか?」


 扉の外で、執事の低い声がした。

 わたしは藁布団から身を起こし、扉の方へ四つん這いで進む。金具の鳴る音と一緒に、小さなバスケットが差し入れられた。

 中身は昨日のパンの端と、薄いスープが入った錫の椀。

 この量なら、今日は怒っていない日だ。


「お嬢様の靴を磨け。見えるところだけで構わん、どうせお前の拭いたところはすぐ汚れるからな」


「……はい」


 返事は小さく。声を大きくすると、空気が波立って怒りが生まれることを、体が覚えている。

 靴を磨き終えて返すと、扉はまた閉まった。鉄の舌が鍵穴で回る音は、屋根裏に夜を運ぶ。昼だろうと、夜は来る。いつでも、何度でも。


 天窓の縁に顎を乗せ、外を眺める。

 庭師が刈り込んだ生垣の向こう、街路樹のてっぺんだけがわたしの世界だ。枝に止まる鳥の黒い点。時おり、白い羽根が風に流れる。

 遠くの鐘が、昼の時刻を告げた。


 わたしは床板の節を数える。三十五、三十六、三十七。

 数えることは安心になる。間違えれば怒られる世界で、数字は裏切らない。

 数え終えると、ひとつ長く息を吐いた。


 ——ねえ、だれか、聞こえますか。


 声にしない声を、喉の奥で転がす。

 この祈りは癖になっていた。最初は、泣き声の代わりだった。泣くとまぶたが腫れて、翌朝鏡を拭けないから。

 声にしない声は、涙を使わない。体のどこも汚さない。

 わたしは目を閉じ、心の中で言葉を丁寧に紡いだ。


 ——わたしは、ここにいます。

 ——だれか、聞こえますか。


 そのとき、粉塵の流れが止まった。

 天窓から差す光の筋の中で、細かな埃がふわりともつれ、空中に薄い模様を描く。

 風が、いまだけ、わたしの呼吸に合わせたように行き来する。

 こういうことが、ときどきあった。声にしない声を発したときだけ、空気の手触りが変わる。世界が耳を傾けるみたいに。


 ——聞こえる。

 ——小さな声だが、折れはしない声だ。


 誰かの言葉が、返ってきた。


 びくりと肩が揺れる。

 胸の奥に落ちる、知らない音色。わたしは辺りを見回した。もちろん屋根裏に他の人はいない。扉は閉じ、鍵はかかったままだ。

 けれど、確かに“返事”はあった。

 耳で聞いたのではない。胸の内側、骨と骨の隙間に、温かいものが触れた。


「……だれ?」


 思わず、今度は本当に声にしてしまう。

 返事は、やや間を置いて、再び落ちてきた。


 ——名を捨てた者のところへ、声は落ちやすい。

 ——お前の声は、よく響く。


 その言葉は慰めではなかった。けれど、責める調子でもない。

 やや古びた、乾いた鐘のような響き。

 わたしは膝を抱え、天窓の向こうの空を見上げた。雲が薄く切れて、青が覗いている。


「あなたは……誰?」


 ——セラ。

 ——かつて天の名簿から消された、堕ちたもの。


 堕ちたもの。

 わたしはその言葉を、口の中で転がした。

 堕ちたものは、戻る場所を持たない。屋根裏の片隅と同じだ。

 けれど、その声には、どこか清潔な冷たさがあった。汚れているのではなく、冷えている。氷水みたいに、透明な。


「セラさん。どうして、わたしの声が聞こえるの?」


 ——お前の声は、形を持たないからだ。

 ——この世界の法(おきて)は、形ある魔力しか拾わない。だが沈黙を裂く音は、法の外から届く。


 法の外。

 この国で価値と呼ばれるもの——家名、魔力量、美貌——それらの外側に、声があるというのだろうか。

 わたしは気づかないうちに立ち上がっていた。天窓の枠に指先を引っかける。木のささくれが皮膚に刺さる。


「わたしの声、どこまで届くの?」


 ——空の向こう。

 ——そして、沈黙の底。


 沈黙の底。見たことのない地名みたいだった。

 わたしは、胸の奥が少しだけ痛んだ。うれしいと悲しいが同時にやって来るときの、くすぐったい痛み。


「わたし、ぼろ雑巾って呼ばれてる」


 言ってみる。

 呼ばれ名は、呪いの形だ。口にすると、たいてい痛む。

 けれど、セラはすぐに答えた。


 ——名は、誰かが貼った札にすぎない。

 ——お前が自分で選んだほうを、私は呼ぶ。……レミリア。


 胸のどこかが、崩れて涙になりそうになった。

 “レミリア”。その二音は、床板の節の数より静かで、確かだった。


 ——レミリア。

 ——お前の声は、神々の沈黙を破る唯一の音だ。


「神々……」


 この国では、神殿の鐘が都市の時刻を決める。祈りは税に換算され、魔法に補助金が出る。神は制度で、祈りは窓口だ。

 神々が沈黙するなんて、教えられたことはない。

 でも、屋根裏で祈っても、誰も来ない日が続いたとき、わたしは確かに“何かが喋らない”気配を知っていた。


「わたしに、できることはあるの?」


 ——まず、声を出せ。

 ——小さくていい。だが、確かに。


 セラの言葉に、わたしは背筋を伸ばす。

 屋根裏の空気は湿って重い。でも、肺の奥の空気は軽い。

 わたしは喉を撫で、天窓に顔を近づける。


「——だれか、聞こえますか」


 わたしの声は、今度は本当に、空へ放たれた。

 光の粉塵が一斉に震え、細い稲妻みたいな模様を描く。天窓の外で風が立ち、雲の切れ間が広がっていく。

 世界が、少しだけ、わたしの言葉を通すために形を変えた。


 ——よくできた。

 ——その声は、いずれこの屋敷の壁も、街も、王都も越える。


 セラの声は、遠くの鐘の音と重なった。

 昼の二刻。いつものはずの合図が、今日は違って聞こえる。

 屋根裏の扉の向こうから、また足音が近づいてくる気配がした。


「ぼろ雑巾! まだそこにいるのか!」


 怒りの熱が、木の隙間から吹き込んでくる。

 わたしは胸に手を当て、さっき放ったばかりの声の余韻を捕まえる。

 震えは、消えない。けれど、逃げない。


 ——恐れるな、レミリア。

 ——声は、恐れの居場所を縮める。


 扉の鍵が、がちゃん、と回った。

 目の前の世界は狭く、冷たく、痛い。

 それでも、胸の内側には、温かい鐘が鳴り続けている。


 「はい」と答える直前、わたしは天窓を見上げた。

 雲の切れ目から、細い光が差していた。

 光の中で舞う埃は、もう粉ではなく、雪みたいにゆっくり降りてくる。


 ——聞こえる。

 ——お前の声は、届いている。


 その言葉を握りしめ、わたしは扉の方へ向き直った。

 最初の一歩は、小さく。

 でも確かに。

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