第5話



◆幕間


 舞台が終わった後、志朗(シロウ)は静かな楽屋を訪れた。


 鏡台の前で、煌はまだメイクを落とさず、光を跳ね返すように笑っている。


「どうだった? 俺の神話。」


 その口ぶりは軽い。だが志朗の目には、別のものが映っていた。


 舞台の上で煌が放った言葉や動きが、どこか異界の呼吸を孕んでいたのだ。


「これは、演技じゃない」


 志朗は低く言った。


「君の魂が、何かを呼び出している」


 煌は鼻で笑う。


「俺は主役だ。呼び出すくらい当然だろ」


 だが、その笑みは一瞬で揺らぐ。


 志朗の背後──そこに、記録の神・ナブーの気配が立ち上がっていた。


 静電気のような圧力。空気が、頁をめくるように震える。


「でもね、主役が記録を壊し始めたら、神々は“浄化”じゃなくて“破壊”を選ぶ」


 志朗の声が冷たく響く。


 沈黙。


 煌は視線を落とし、鏡越しに自分の顔を見た。


 その瞳に宿るのは、舞台の照明よりもはるかに暗い影。


 志朗は、ゆっくりと背を向けた。


 母の再婚相手──彼はただの人間ではなかった。


 “記録の守り人”として、神々の帳を見守る役割を持つ存在。


 その血が、いま志朗の中で静かに警鐘を鳴らしていた。


「君が母を守りたいなら、まず自分の神話を、記録可能なものに戻しなさい」


 その言葉が落ちた瞬間、楽屋の灯が一瞬だけ瞬く。


 煌は何も言えず、ただ唇を噛んだ。


 照明の残光が、彼の横顔を銀色に切り取る。








 夜。

 志朗の帰り道、街灯の下に久遠(クオン)が立っていた。


 霊能力者にして、“魂の波形”を読む者。


「待ってたわ」


 ふたりは近くの喫茶店に入った。


 カップの縁に紅茶の跡が残る。


 窓の外では秋の光が、まるで記憶の残滓のように揺れていた。


 久遠は、カップを指でなぞりながら言う。


「最初はね、違和感に目を閉ざしてたの。

間違いなくギルガメッシュなのに、決定的に違うところが1つあった」


 志朗は頷く。


「知性、ですね」


 久遠は微笑んだ。


「そう。彼って……おバカさんなのよ。元王とは思えないほどに。

 でも、それって後天的なものかと思って、深く考えなかった」


 窓辺の光が、記録帳の影をゆらす。


 久遠の声が、少しだけ低くなった。


「違和感は、警鐘のように膨れていった。

劇場で久しぶりに彼を見たとき、ようやくわかったの。

彼はシャマシュの加護を引き出すために、成長を拒否していたんじゃない。

その段階は、もう遥か昔に過ぎていた」


「つまり……?」


 久遠は紅茶を置き、静かに言った。


「魂が腐敗して、己と向き合う知能が残ってない状態。

魂の質と脳機能は比例するの。

だから器だけ立派で、中身が空っぽ」


 志朗は瞼を閉じた。


「それでも、記録は続いている」


「記録はね、腐敗も含めて残すの。

でも、浄化の可能性が消えたら──それは“裁き”の準備よ」


 久遠は、紅茶の残りを飲み干して言った。


「ギルガメッシュ叙事詩ってね、中二病がモラトリアムへ孵化した物語なのよ。

彼は“幸せインフレ病”――愛されても愛されても、もっとを求める。

世界最古のサイコパス。

名声と女に囚われて、何千年も傲慢さを捨てなかった」


 志朗は黙って聞く。


 久遠の声は、もう“記録の読み手”の響きを持っていた。


「だから今、彼はヱヴァンゲリヲンの初号機からラピュタの巨人兵になろうとしてる。

半神が兵器に変わるの。

浄化じゃなく、破壊の器――終幕の使者になりかけてる」


 志朗が呟く。


「それでも、誰かが止められるとしたら……?」


 久遠は目を細めた。


「友情が鍵よ。これは神話の再演だもの。

でも鍵は、腐った扉にはもう、入らないかもしれない」


「もう、手遅れなのか」


「本当は、まだたくさん時間があったはず。

でも彼が自尊心を高めるために神話の再演を始めたせいで──腐敗のスピードが、早まった。

神を冒涜する行為だわ。内省しないことを天に高らかと宣言するなど」


 その言葉のあと、喫茶店に沈黙が満ちた。


 外の光がゆっくりと傾き、記録帳の影がページを閉じていく。


 誰もまだ知らない、神話の終わりが静かに始まっていた。






◆第2幕_3


 舞台上、照明が金から紅へと移ろう。


 音楽は重低音を帯び、まるで地の底から神々の鼓動が響くようだった。


 ゆっくりと幕が開く。


 イシュタルが登場する。


 その姿は、美沙──イシュタルのカルマ。


 褐色の肌は金砂を散らしたように光り、神殿の衣は風ではなく祈りで揺れていた。


 目の奥には、1,000年を超えても消えぬ執着の炎。


 彼女の魂は、愛という名の戦争そのものだった。


「ギルガメッシュ。私の夫になりなさい」


 声は甘く、しかし押し潰すような圧力を帯びる。


 観客席がざわめく。


 ギルガメッシュは、舞台の中央で静かに笑った。


「俺の神話に、他者の愛はいらない」


 その一言で、空気が割れる。


 イシュタルの微笑みが、刃のように冷たく変わった。


「私を拒む者は、神々の怒りを買う」


「ならば、俺は神々すら拒む」


 照明が赤黒く揺れた。


 天井のスピーカーが軋み、舞台の床が細かく震える。


 観客が息を呑む中、記録の帳が開く。


 神々の筆が、その場面を《傲慢の選択》として刻みつけた。




「父アヌよ――天の牡牛を貸して。

この男を地に沈めるために。」


 イシュタルの祈りが響いた瞬間── ギルガメッシュが舞台中央で動きを止める。


 照明が彼を照らすが、彼は何も言わない。


 沈黙。


 観客が息を呑む。


 煌の瞳が揺れる。


 セリフが出てこない。


 彼はゆっくりと膝をつき、 そして──舞台の床に頭を打ちつけ始めた。


「記憶が……出てこない……俺、誰だったっけ……」


 美沙が舞台袖から駆け寄る。


「やめてよ! 舞台中だよ!」


 煌は静かに笑う。


 「止めるってことは、俺の神話を否定するってことだよ」


 その笑顔は、照明より冷たい。


 ミサは一歩後ずさる。


 「もう無理。あんたには耐えられない!」


 ──その瞬間、天井が閃光に包まれる。


 音響ではない。雷が、本当に落ちたようだった。


 床下装置がうなり、舞台が震動する。


 炎と煙の奥から、巨大な影が現れる。


 ──天の牡牛(グガランナ)──


 筋肉の塊。金属のような皮膚。目は溶岩のように燃え、蹄が一歩進むたび、地が砕ける。


 その重みでセットが揺れ、舞台袖のスタッフが青ざめた。



 ギルガメッシュとエンキドゥが並び立つ。


 エンキドゥ、その動きはまるで獣。


 全身の筋肉が細やかに波打ち、呼吸一つで空気が変わる。


「来たな、神の怒り」


「でも、俺たちは神話の主役だ」


 ──死闘が始まる。


 ギルガメッシュが跳躍した。


 照明が追いつかない。


 彼の体は風を裂き、数メートルを一瞬で駆け抜ける。


 足音が残像のように響き、剣が宙に光の軌跡を描く。


 空中剣舞。


 それはもはや“演技”ではなく、“戦闘の再現”だった。


 エンキドゥは地を這う。


 彼の指が床を掴むたび、木の板がきしむ。


 体をバネのように反らせ、牡牛の脚を狙って突進。


 動きが早すぎて、照明の制御システムが狂う。


 照度が上がりすぎ、観客の瞳が焼かれるほどだった。


 牡牛が咆哮した。


 その声で空気が押し返される。


 スタッフは祈るように舞台袖で叫んでいた。


「続けろ!止めるな!」


 だが、誰もが知っていた。もはや、これは芝居ではない。



 ギルガメッシュが跳躍。


 剣が閃き、空気が裂ける。


 エンキドゥが巨体の脚を掴み、ひねる。


 関節が音を立てて軋む。


 牡牛が体勢を崩した瞬間、ギルガメッシュが落下しながら──


 首を斬った。


 刃が入る。


 爆ぜるような光。


 紅から白金へ、照明が一気に反転する。


 エンキドゥは両手で心臓を掴み取り、それを天に掲げた。


 その瞬間、神々の記録帳が開く。


 《神の怒りに勝利》と、金文字が刻まれた。





 舞台の上で、イシュタルが叫ぶ。


 その声は女神の悲鳴か、人間の嫉妬か。


「お前は、神々の秩序を壊した!」


 ギルガメッシュは静かに振り返る。


 白金の光が瞳に宿る。


 「俺の神話は、秩序の外にある」


 その一言とともに、天井の光が弾けた。


 神々は帳の上で、新たな頁をめくる。


 《カルマ拒否、再発動》





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