Kaiserreich "カイザーライヒ" 年表 

T176

1914年 第一次世界大戦 開戦

1914年 バルカン戦線


《 西暦1914年、世界を巻き込む大戦が勃発し、各戦線では様々な思惑と衝突が繰り広げられた。バルカン地域の出来事は、大戦勃発の直接的な引き金となり、以降も激しい戦いが展開された。 》


《 1914年7月28日: セルビアへの第一次侵攻 》

 サラエボでのフランツ・フェルディナンド大公暗殺から1ヶ月後、オーストリア=ハンガリー帝国はセルビア王国への報復を開始し、本格的な侵攻に乗り出した。しかしながら、セルビア軍の堅固な防衛により、攻勢はすぐに膠着状態に陥る。その後2週間、オーストリア軍の攻撃は多大な損害を出しながらも撃退され、これは連合国にとってこの戦争における最初の大きな勝利となった。同時に、オーストリア=ハンガリー帝国の早期勝利への期待は打ち砕かれたのである。


《 1914年9月3日:アルバニアの国家権力の崩壊 》

 春よりアルバニア公に選出されていたヴィルヘルム・ツー・ヴィートが、イスラム教徒の農民反乱軍が首都ドゥラス(アルバニア第二都市)を占領した後、国を去ると、アルバニア公国は完全に崩壊し無政府状態に陥った。国際憲兵隊は撤退し、その後まもなくアルバニアは近隣諸国の慰み物となった。ギリシャは北イピロスに進軍し、イタリアはヴロラ島とサザン島を占領し、セルビアはアルバニアにおける影響力拡大のため、アルバニア軍将校エッサード・パシャ・トプタニと秘密協定を結んだ。


《 1914年12月15日:オーストリアのセルビア侵攻が停止 》

 コルバラ(セルビア中西部)の戦いがセルビアの勝利に終わり、夏の終わりから秋にかけてのツェルの戦いとドリナ(セルビア、ボスニア・ヘルツェゴビナ国境部)の戦いに続き、オーストリアのセルビア侵攻は1914年の残りの期間停止し、戦線は1915年の秋までほぼ停滞したままとなった。ガリツィア(ウクライナ西部)での惨敗に続き、オーストリア=ハンガリー帝国最高司令部にとって、これはまたしても大きな屈辱となった。

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