第8話 触れ合う距離と、心の距離
朝、目が覚めて、下半身に広がる違和感に思わず溜め息を漏らした。
お世話になり始めてからずっと処理していなかったせいで、こうなるのは予想していたが、それでも他人の家で自慰行為をするのには抵抗があった。結局ごまかし続けた結果が、今ここに表れているのだろう。
溜め息をついて下着を脱ぐとシャワールームの水を使って洗い流した。貴重な水をこんな事に使用するなんてと罪悪感が募るが、さすがにこのままの衣類をランドリーボックスに入れることなどできない。軽くめくってガウンも確かめてみるがそちらは大丈夫そうだ。
人間の三大欲求――食欲と睡眠欲が急速に満たされているからなぁ、と軽く溜め息を漏らす。二週間の休暇も折り返しを過ぎて、気づけばすっかり健康的な生活を送るようになっていた。
自宅にいた頃は食欲など感じる事がなく、作業的に胃にサプリメントを流し込んで出社していた。それが今では朝起きると空腹を感じるほどになっていた。
こんな生活を送った後で、再び今までの生活に戻れるのだろうかと僅かに不安がこみ上げてくる。
今与えられている環境は全てアレクシスの好意によって与えられている幻のようなものだ。自由に使える綺麗な水も、味の付いた本物の食事も、毎日整えられる柔らかなベッドも、全て現実では得られるはずのないものばかりだ。
小さく溜め息を漏らす。
当初は2週間も拘束されるなんて、と嫌がっていたのに。今になって惜しむような気持ちが沸いている自分に嫌気がさした。ここにいるのはいい人達ばかりで、欲しい物がすべて用意されていて、まるで砂糖菓子で出来た城のようだ。
しかし、所詮は自分は貧困層の人間だ。一歩外に出れば、すぐにまた現実へと引き戻されるのだろう。
暗い気分になってしまっている透真の姿を見て、朝食を届けに来たルーカスは心配そうな視線を向けてきた。
「お加減が悪いように見えますが、大丈夫ですか?」
そうかけられた言葉に、なんと答えればいいのか迷って表情を曇らせた。
漠然とした不安が胸に広がっているが、それは今後の事を思って弱気になってしまっているだけの事で、体調不良ということでは無い。ただ、ここから一歩外に出たら、こうして自分を心配して声をかけてくれる人もいなくなってしまうのだと考えると、より憂鬱な気分が胸の内に広がった。
*****
「酷い顔だな」
呼び出しを受けて部屋に入った途端、開口一番にそう言われて透真は言葉を失った。いつものように、ソファーの隣に来るよう指示をされ、一人分の距離を置いて腰を下ろす。
不調の理由を問われたが、漠然とした不安があるなどと目の前の人に訴えた所でどうにもならないだろう。誤魔化すように笑みを浮かべた所で不愉快そうに顎を掴まれ、顔を上げさせられた。
「どうした。不満があるのなら素直に言葉にしろ。お前の口は何の為についているんだ」
ぐい、と顔を向けさせられ、思わず苦しげに息を詰める。
言える筈がない。言ってどうしろというのだ。ここから出た先の未来の不安など。
珍しく拒否的な態度を示す透真の様子に、アレクシスの瞳に剣呑な光が宿る。
低く「あぁ……」と漏らし、口角をわずかに上げた。
「なるほど、欲求不満か。それは言葉にしづらいというものだ」
「――ぇ……?」
思わず目を見開き、そのあと今朝の出来事を思い出して羞恥から顔に熱がたまる。自分に関することは全て目の前の人物へと報告がいっているのだろう。分かっていたことだが、それでもデリケートな部分を踏み抜くような物言いに、反射的に身を捩った。
そんな反抗的な態度の透真に興が乗ったのだろう。
顎をつかんでいた腕でそのままソファーへと引き倒すと、胸の上に腕を置いて肺を圧迫された。苦しげに喘ぐ姿に低く笑う声が聞こえる。
至近距離に落ちる影。
上質なウールの織目を、指先が静かに渡っていく。
まるで熱の線を描くように、ゆっくりと、ためらいもなく。
その仕草が意味するものを、透真は理解したくなくて、恐怖を滲ませた視線でアレクシスを見上げた。
「いや、だ……ちがっ……」
カチカチと歯の根が音を立てる。
目の前の人に、こんな乱暴な事をされるだなんて思いもよらなかった。
身分の違う富裕層の人ではあったが、優しい人なのだと信じていたのに。
でも、これが現実なのかもしれない。結局は、貧困層の住民である自分はこの人にとって玩具よりも価値の無いものなのだ。
抵抗をとめた透真に気が付くと、アレクシスは渋面した。
そして深く息を吐くとゆっくりと身体を起こす。押し倒されたままの透真の身体を起こそうとした瞬間、怯えるように身体を硬くする様子に「悪かった」と謝罪すると抱き寄せられた。
そのまま欲を感じさせない手つきで軽く肩を叩かれる。
「趣味の悪い戯れをした、許せ……。そもそもお前が素直に不満を口にしないのが原因なのだぞ」
身体を寄せ合っているせいか、耳元で感じる声は素直に脳へと届き、まるで心の底から心配されているような気分になる。
「すいません……」
そう小さく謝罪すると、透真はそっと相手の肩へ頭を預けた。
顔を合わせていないからだろうか。
ぽつりぽつりと吐露する透真の不安をアレクシスは静かに聞いていた。
こんなこと馬鹿らしい不安、誰にも言うつもりなどなかったのに。
しかし触れ合う体温は、安心できるもので、口を軽くさせた。小さな不安を口にするたびに、大丈夫だと言う様に頭を撫でられて子供の頃を思い出した。
――あの頃も、何かがあるたびに泣いていた透真を、母親は優しく抱きしめて頭を撫でてくれていた。
全ての不安を吐き出して心が軽くなったような気がする。
それと同時に、年下の男性に頭を撫でられながら愚痴を聞かせている今の現状を客観的に考えてしまい、一気に羞恥心から顔が赤く染まった。
「あ、の……」
そっと胸に手を置き、身体を離そうとした。
けれど、それより早く肩を掴まれ、軽く引き寄せられる。
指先が髪に触れ、撫でるように滑る。
――ま、待って。
心の中で悲鳴をあげながら、透真は思わず相手の胸を軽く叩いた。
うぁぁ……恥ずかしい。
いくらなんでも、これは恥ずかしすぎる。
そんな透真の内心を知ってか、アレクシスは喉の奥で小さく笑う。
「それで終わりか?」
からかうような声音に、ますます顔が熱くなる。
それでも、逃げようとした腕を捕らえたまま、彼は静かに告げた。
「まず――お前は一つ、勘違いをしている」
その声とともに、優しい指が再び髪を撫でる。
まるで落ち着かせるように、あるいは、逃がさないと告げるように。
「生活習慣によって蓄積された身体の異常が、二週間程度で全て改善するわけがないだろう。それでも望むのであれば自宅へ返すつもりであったが……ここに滞在したいというのであれば、継続して住まいを提供するのにはなんら問題は無い」
「え……」
僅かに身じろぐ透真の肩を強く抱き寄せられる。
「それとお前が勤めていた会社だが、少し突いたら未払いの残業代と共に退職金を差し出してきたぞ」
「えぇぇ!?」
予想外の言葉に大きな声をあげると、耳元で叫んでしまった為に顔をしかめるアレクシスの姿を見て、慌てて自分の口を手で覆った。
「まぁ、それも問題は無い。書類の整理作成ができるのであればこちらで就職先を融通する事は可能だ」
その言葉にホッと安堵の息を漏らす。
今のご時勢、一度職を失えば次に探すのはとても苦労するのだ。富裕層が用意してくれる職場という事だけが不安が残るが、この際文句など言えないだろう。
「私の身の回りにおける信頼できる人間は、数が限られているからな。ルーカスとも仲良くやれているようだし、職場の人間関係も問題はなかろう」
――ん?
「あの……」
「ああ、事後承諾になるが君の素性はすでに調べ上げている。後になって放り出すような事はしないから安心したまえ」
「いえ、それは構わないのですが、そうではなくて……」
何だか雲行きが怪しい。
まるで、自分が富裕層の真っ只中で働くような事を言われているような気がするのは気のせいだろうか。ころころと変化する透真の表情に、愉快そうに笑うと頬に手をそえられた。
「肩書きはどうするかな。あぁ……秘書などやってみるかね?」
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