02. 沈む体温

「ねぇ、惣一くんは彼女作らないの?」


甘ったるいバターのような声が薄いシーツに吸い込まれていく。べたべたと引っ付いてくる女の柔さに身体を挟み込まれながら、惣一は返事をせず、すっと天井の染みを数えた。

部屋の窓の外からは昼近い日差しが差し込んでいるようだが、厚手のカーテン越しでは鈍いオレンジ色に歪んでしまっている。滑らかながらもふかふかのベッドは、女が動くたびに身体を若干沈ませた。その沈み込みは、まるで底の見えない怠惰な沼に引きずり込むようで、惣一の無気力な快感にはよく似合っている。


「無口?照れ屋さんなんだから。好き、そういうとこ」


惣一の長い前髪を、柔くも細っこい華奢な手が掻き分ける。指先が額を滑り、微かに残った汗を拭うようなしぐさが、彼の雌雄眼の奥を覗き込んだ。そこに垣間見えるのは、盲目的な愛着と、確信の持てない微かな不安だ。

惣一は言葉を返す代わりにその細い体をぐっと引き寄せた。それは愛情ではなく、ただ手近な重しを掴むような無意識的な行為にすぎない。


「朝弱いし、私がいないと駄目なんじゃない?」


彼女の安易な断定と、惣一の深い沈黙は、淀んだ湿気の中で交じり合う。彼の頭には女の言葉も熱も一ミリも入ってきやしない。肌のぬくもりと、タバコの吸い殻が落ちたままの光景だけが、漠然とした現実として存在するだけだ。


「ねぇ、こんな関係辞めて恋人になろうよ」


甘えを含んだ声が、耳元で熱い吐息となってぶつかってくる。ただ体を重ねているだけの相手に何を言っているのだろうか、と冷めた苛立ちが惣一の喉元にせりあがるが、彼はそれをぐっと飲み込んだ。そして、無言で彼女の上に乗り上げ、ねっとりとした口づけを落とすことで、安易な期待を黙らせた。

女の体から立ち上る熱気と、やけに甘いシャンプーの匂いが彼の五感を覆いつくし、彼女の指先が再び重い前髪を掻き分けてその“真相”を探ろうとするが、彼の目には相変わらず何の感情も宿りはしない。


「ほんと、オオカミみたい」


息を継いだ女は恍惚とした表情で、薄っぺらい漫画の台詞のように囁いた。その言葉は、惣一の本質的な虚無を理解していない無邪気な賛辞にすぎない。惣一は口を開こうとせず、ただ肉体の要求に応える本能的な動きだけが、この歪んだ関係のすべてを物語っている。

彼の無精ひげを柔く撫で、女に跨られ、されるがままに目を瞑るでも逸らすでもなく彼女の動きを目で追い続けた。


 もうどれくらいの間、ここにいるのだろう?


数時間しか経っていないのだろうが、この熱のこもった空気と、女の甘い体温と肉体、単調的な快楽だけが、外界を隔絶させるような酩酊状態を引き起こしているように感じる。やがて、勝手に女が果てて行為が終わった。


疲労でやや重くなった惣一の身体から、彼女は薄い皮膚のように滑り落ちた。体からは汗とシャンプーと微かな情事の残り香が湯気のように立ち上る。それは、惣一にとっては溶けかけの飴のような甘ったるさと、それに伴う不快さを伴った。女は満足そうに弛緩した身体をだらりとシーツに預け、惣一の腹に頭を載せて甘えた声を出す。


「ねえまた会える?」


腹に載せられた重みが、これから生じる面倒な義務を暗示しているようで、惣一は息苦しさを覚えた。その重みに耐えかねたように腹筋に軽く力を入れ、女の体をずらさせる。


「さぁ」


彼の口から出たのは気のない一音だけ。女の顔から一瞬期待が消えたような、何とも言い難い表情が浮かんだ。


「ケチ!っていうか顔色悪い?大丈夫?」


 女は愛し気に惣一の頬を撫で乱れた髪を保護者のように手櫛で整える。その一方的な優しさに、惣一は辟易としていた。彼は彼女の指先に目を細め、欠伸で返す。彼女の視界に映る自分が、ただの気の抜けた人形であることを望んでいる気がしてならない。


「ね、私の事好き?」

「…」


 惣一の口から答が紡がれることは無い。その沈黙は明かな拒絶であり永遠の曖昧さを象徴する。彼女の質問は、彼にとって最も重荷で、最も無意味な言葉の一つにすぎないのだ。


「もう」


女は頬を膨らませるが、すぐに諦めたように笑顔に戻り、惣一の頬に軽くキスを落とした。そのキスは空虚で何の責任も伴わない。その感触だけを、惣一はただ受け止めていた。惣一は腕をシーツの上に投げ出し、意識的に自己の体温が急速に冷えていくのを感じた。肉体の熱が引くと同時に、快楽の残滓も薄れ、代わりに底知れない孤独がベッドの軋みのように彼を包み込む。彼が手に入れたのは、刹那的な熱と、また一人の女を消費したという薄汚れた事実にすぎないのである。


カーテンの隙間から差す光が、床に落ちて形を失う。その曖昧な光の帯こそが、惣一のいる「無意味な時間」の唯一の目撃者だった。彼は女の存在を無視して、視界の隅にある、昨日吐き捨てたタバコの焦げ跡の小さく黒い円をじっと見つめ続けた。


スモーキーな臭いが、充満している。

それは、警鐘でもあり自身に対する刑事罰でもあるのだろうか。


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