第六話



     ◇



 後部座席のふたりが、目を丸くしている。


 助手席に移ったカーティスは、それを見て思わず笑ってしまった——いや、笑っている場合じゃない。カーティスが気を引き締めると同時、クイーンもハッとして顔つきを強張らせ、右手の指をパチン、と鳴らした。


 途端、喧騒が掻き消える。周囲を走っていた車が、見渡す限り全車両、


 前が広くひらけたと見るや、エドワードはまたもアクセルを踏んだ。再びの急加速で座席に叩きつけられたふたりは、今度は驚かなかったものの、そろって顔をしかめている——普段、大抵のことを危なげなくこなしてみせるエドワードだが、こと運転に関してはアドレナリンの分泌を優先させる節がある。数少ない欠点のひとつだ。


「半径五キロ、飛ばしたから」


 妙に慎重さを見せながらクイーンが言った。この速度のなかで、何かの弾みに舌を噛まないよう気を配っているらしい。


「さっさとケリ、つけちゃってくれる?」


 カーティスは頷いて、シートベルトを手早く外す。ちらりと運転席を見遣ると、メーターが完全に振り切れ、千切れんばかりに揺れていた。カーティスにはたとえサーキットでもこの速度を(それも即座に)出す度胸はない——どこかおかしいんじゃないか?


 今から自分がやることは、それ以上かもしれないが。


 ドアレバーに手を掛ける。エドワードが一瞬だけこちらに目を向けたのが分かった。気持ちは分かるが、頼むから今は前方から目を逸らさないでほしい——だが彼がボタン操作でドアのロックを解除したので、考えを改めた。こんなことにも気づかないとは、やはり緊張しているらしい。


 解錠されたドアを、ゆっくりと開く。切り裂くような風が吹き込んでくる。


 少しずつ、車外へ顔を出す。時速一八〇キロ超の風圧が直撃し、身体がビリビリと痺れた。ルーフに手をつき、半身を持ち上げる。開いたドアを支えにして残りの半身を外へ出す。車内の段差に足をかけ、あとは、反動で一息に登る。


 ルーフに立ち、正面を見据えた。気を抜くと吹き飛ばされそうだ——狭い車内から抜け出して、ようやく天使の全貌が見えた。地上五階建てほどの高さ。八本の脚で走っている。


 一本一本の脚は先端が人の掌を模していて、地面を蹴り出しているようだ。放射状に広がった脚が胴体でつながる形は、端的に蜘蛛を思わせる。では、糸も出してくるだろうか? 噴射口になりそうなものは、この距離では窺えない。


 今が全力か知らないが、少なくとも現時点で互いの距離は縮まっていない。ということはエディの操るスバルと向こうの速度はほぼ同じだろう。今回は周囲を丸ごと異空間に飛ばしているから、この世界の時間経過を帳消しにすることはできない。クイーンの言う通り、さっさと片付ける必要がある、……天使ふたりはともかく、エディを巻き込むわけにいかない。単身で出向くのがいい。


 ひとつ、深く呼吸をする。そのとき車内のエドワードが、風音に負けじと声を張った。


「この場には機器がないから、正確なことは言えない——けど、あれが蜘蛛を模しているのなら、心臓は背中側にある。背骨みたいに管があるんだ。そこを切り裂けば死ぬはずだ」

「ありがとう、……知らなかった。そんな話、いったいどこで?」

「君の弟さん。オンラインでゲームしていたときに、うちにでっかい蜘蛛が出てさあ。僕が格闘している間、そんな話をしてくれたよ」


 弟の困った言動が、こんなところで役に立つとは。


 カーティスは礼を言い、エーテルを手元に集めた。背にある管を引き裂く——とすれば、やはり今回も刃物がいい。向こうが例えば糸や網を攻撃手段としてくるなら、長い柄は邪魔になるだろう。サバイバルナイフ——まずは二本。ホルスターを同時に生成し、両腿に刃を収める。


 互いに動ける状態で、前回のように軌道を引いて駆けるのは現実的じゃない。この前即興で作り出した加速装置も悪くないが、もう少し速度や方向を調整できるやり方がいい。できれば、応用も利きそうな——


 相手を見遣る。人間の皮膚を纏った蜘蛛の形の化け物が道路を蹂躙する様は、夢なら覚めてほしいビジュアルだ。蜘蛛——改めてその姿を見たとき、カーティスの中で、閃きが灯った。


 加速装置を設けて、飛び出す。一度空中へと浮かび、角度をつけて水平方向に蹴り込む。銃弾が跳ね回るようにジグサグに加速して、天使の足下へ突っ込んだ。


 天使がこちらに気づく。八本の脚の一本が、カーティスを踏み潰そうと振り上げられた——だが、のろい。


 そんな悠長な動きして、俺に当たると思うなよ。


 頭上の脚部を見上げ、カーティスは身を翻した。同時に右手に生成していた小型の銃を構え、わずかな時間で狙いを見定める。


 そして、放った。弾丸が、


 痛みで停止した脚部へと、カーティスは飛び上がる——弾に繋がったワイヤーを、急速に巻き取って。


 水中銃の発想だ。銛のついたワイヤーを射出し、それを一気に巻き取ることで着弾地点へと移動する。蜘蛛の生態も参考にしたが、当の天使にはどうやら糸を吐き出す機構がないらしい。


 着地して、銛を引き抜く。赤い血が噴き出し手を濡らした。気にせず素早く装填し、次の着地点を狙う。天使は狼狽したように身体をふらふらとさせ、どのようにはたき落とそうか決めかねているらしかった。その隙にカーティスは長い脚部を登り切る。エーテルを靴に纏い、天使の体の上を、駆ける。


 さて、問題はとどめの刺し方だ——近くまで来て実感したが、目標の胴体はちょっとした広場ほどはある。まさかチマチマ這いつくばって切るわけにもいかない——どうする?


 唐突に、地が揺れた。上にいるカーティスを何とか振り落とそうとして、天使が体を揺らしているらしい。カーティスはホルスターからナイフを引き抜くと地に伏せ、ピッケルよろしく突き立てた。小動物めいた悲鳴が上がる。


 揺れが激しくなった。もう一本も引き抜き、立てる。


 血で手が滑る——天使はいよいよ半狂乱になり、暴れ回らん勢いだ。体が完全に浮いていて、反動がもろに来る。このままだと振り落とされる——天使が大きく前脚を折り、視界が完全に上を向いた。そこで、道路が目に入った。天高く重なる高架橋——


 ——これだ。


 右手を放し、左手を、渾身の力で握りしめた。空いた右手に素早く銃を構える。今度は、ライフルほどの銃身を持つスピアガン。滑り落ちる前に、高架橋へ向けて射出する。


 ——かかった。


 スピアガンを溶かし、ワイヤーを直接右手に巻く。それを頼りに立ち上がり、左手のナイフを引き抜いた。


 急勾配となった脚部を、胴体目指して、駆け上がる。エーテルの補助があっても脚が酷く重い。はち切れそうだ。それでも懸命に腿を持ち上げ、地を蹴り続けると、ようやく、胴体の端が視界に入った。鉛のように重い両脚に鞭を打ち、さらに速度を上げる。


 足元が、わずかに浮いた。前傾し切った天使が、勢いよく身体を反らそうとしている。


 ワイヤーを手繰る。あと少し——浮いた地を何とか踏み締めスピードを持続する。爪先でグッと踏み込んで、坂を登り切り——んだ。


 左手のナイフを突き立てて、化け物の背を、滑り落ちる。


 天使の背が裂けていく。ワイヤーが右の手に食い込み、左手に酷い圧がかかる。だが、ナイフを放すわけにいかない。皮膚に拳が触れるほど深く差し込んだので、天使の体温が溢れ出る血とともに手を濡らしていく。ぬるぬるとした、熱いほどの、生命の悲鳴——終わってくれ。終わってくれ。早く、——


 抵抗が、ふっと消える瞬間。また、イメージが頭をよぎった。


 誰だろう、学生服を着た——蹲って、頭を庇い——誰かに強く踏まれている——


 ハッと、我に返る。同時に、背後で巨大な破裂音がした。


 背から全身に血を浴びる。ワイヤーにぶら下がったまま宙に浮いているカーティスは、靴の先から滴り落ちる真紅の血に目を向けた。遠い地上へ、ぼたぼたと、重力に従い落ちていく。やがて、れ果てるように、その雫が小さくなっていく。


 いつまで、そうしていただろうか。やがて、微かなエンジン音が、近づいてくるのがわかった。


 エンジン音は予想よりずっと早く足下へ来て、大きく旋回するようにブレーキ音を立て、止まった。カーティスはゆっくりと、ワイヤーを伸ばし着地する。握っていた右手を開き見つめていると、ドアを開ける音がした。


 そしてすぐに彼の声が聞こえる。


「カート! 無事?」

「……大丈夫」カーティスは答えた。「……ぜんぶ、返り血だ」


 ほっと息をついたエドワードは、ふとカーティスの手のひらに気づいた。


「……なんだい、それ?」


 それは、金色のボタンだった。何かのエンブレムが刻まれ、ところどころ錆びている。


「なんだろう……気づいたら、持ってて」


 気配がして顔を上げる。天使のふたりも外へ出ていた。クイーンが呆れたようにカーティスを上から下まで見つめ、口元からキャンディを取り出す。


「なんか……服とか貸す?」

「……いや」カーティスはかろうじて答えた。「せっかくだが……趣味が合わないんで」


 クイーンの舌打ちが響いた。イーグルが肩をすくめ、無言で、替えの服をんだ。



     ◆



 一軒の民家の前へ来て、カーナビは案内を終えた。住宅街の真っ只中で駐車場が見当たらないので、仕方なく路上に停め、四人して車外へと出る。


 二階建ての一軒家のようだ。漆喰塗りと見える壁に、青い瓦屋根が映えている。小さな庭には植物が植わり、見たところハーブやトマトなど、食べられるものが多い。料理をよくする人なのかもしれない、……表札をちらりと見てみたが、漢字なのでさっぱり読めない。


 不意に、クイーンがため息をついた。


「なんていうかさあ……まあ、この家に、目当てのやつが住んでるんだけど」

「ああ、だろうな。……お前、なんでそんなに嫌そうなんだ?」

「別に悪いやつじゃないんだけど……すっごく接しにくいんだよね。何考えてるかわかんないし。なんか怖いし。ぶっちゃけ超苦手」


 怖い?——意外な言葉だった。恐れ知らずに見える彼女が、「怖い」などと言う相手とは。


「……とはいえ」


 心なしか、同様に重い口ぶりでイーグルが言った。


「会わずに、帰るわけにもいかない」


 そして、インターホンを押す。チャイムが鳴り響き、四人の間に、緊張が張り詰める。


 出てくるのを待つあいだ、心拍数が上がっていく。「重要人物」。「なんか怖い」。——いったい、どんなやつなんだ——


 ドアの鍵が、ガチャリ、とあいた。


 そのままレバーが下がり、出てくる。玄関の暗がりから、昼の陽が射す屋外へ。


「……あ!」


 姿を表すと同時、彼は声を上げた。その表情が明るくなる。


 背が高い、と思った。さほど違わないが、カーティスより少し高いかもしれない。コーヒーを濃く煮詰めたような深い茶の短髪で、同じく深いブラウンの、赤みがかった目を持っている。顔立ちは一見すると東洋系のようだったが、よく見れば別のルーツを持っているようにも思えた。それも、一つ二つではなく、無数に。肌の色、彫りの深さ、瞼の形、唇、鼻梁びりょう——それぞれが異なるルーツのようで、それでいて見事に溶け合っている。ただ確実に言えるのは、「随分な美男」ということだけ。


 その顔が、人懐こく笑う。——なんだ。綺麗な人じゃないか——



 そう思った、次の瞬間。彼のこめかみが、ぱっと



 時が、止まる。心臓が、ばくんと大きく鼓動した。血、——血が散った瞬間に、彼の首は激しく傾いた。それは衝撃の表れだ。つまり、彼のこめかみは今、何者かによって


 なのに、彼は目の前で、にこにこと笑っている。


 彼の首が、ゆっくりと戻る。銃弾が入ったほうのこめかみの血を手で拭う。なぜかそれ以上血の汚れが広がることはなく、血は拭き取られた。傷口は……もう塞がったのか?


 入射口の方向へ、彼がおもむろに目を向ける。


 そのまま彼は、どこか遠くを見ていた。やがて、口元でなにかつぶやき、それからパッとこちらを向く。


「いきなり、驚かせてごめんね。無理だと思うけど、気にしないで」


 あっけに取られているうちに、彼はドアを開き切って、そそくさと中へ戻った。奥で何やら準備をしているらしき物音が聞こえてくる。


 長いこと、動けなかった。誰も。


 それでもイーグルが、一歩前へ踏み出した。そこで思わずカーティスは、震えた声で口走っていた。


「あの……どうしても、行かなきゃダメか?」


 イーグルが無言で振り返る。


「……残念ながら……避けようがない」


 頭では、理解している。それでも足が動かない。


 ——日本へ行けと言われたときより、今のほうが、全然いやだ。

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