第三話


 塾で夜遅くに帰ると、母が夜食を作って待っている。私は不機嫌を丸出しにしてずかずかと廊下を歩き、母が用意してくれたお茶漬けを無言で食べる。母はそのあいだ向かいに座って、心配そうな、不安そうな、何か話しかけたそうな顔で、私を窺う。私はその視線を見ていながら、目を合わせることさえしない。


 大抵はそのまま、会話もせずに終わるけれど、その日は違った。母が意を決したように、声を掛けてきた。


「——ちゃんはえらいね」


 私は、無視しようか迷い、ほとんど無視しているのと同じような時間を空けて、やっと返す。


「何が」


 母はひとつ息を呑み、だけど、続ける。


「遅くまで勉強して……たまには休んでもいいのよ」

「休む?」


 思わず、鼻で笑ってしまった。母が肩をびくつかせ、その動きにさえ苛立ちが募る。


「じゃあ私が国公立落ちたら、あんたが私大行かせてくれる?」


 母が黙った。自分でも、酷いことを言ったと気づいていた。でもどうせ言ってしまったなら、最後まで言ったって同じだ。苛立ちに身を任せ、私は箸を叩きつける。


「無理だよね? ママに稼ぎとか、一銭もないんだしさ。ママがパパに意見言えるはずないし。うち子ども四人もいるのに、長女の私が私大行けるわけないよね、分かってんの、じゃあ私が、ママみたいにならないためにはいま必死に頑張るしかないよね?」


 高圧的で侮辱的で、そのくせ表面だけは柔らかで、言いたいことを押し付けるくせに質問口調で問いかける——口にしながら、私は思う。


 パパそっくりだ。


「……ごちそうさま。もういらない」


 食べかけのお茶漬けを放置して私は席を立ち、床に置いたリュックを拾う。そのままリビングを出て、二階にある自室へと向かう。階段を上がり切る直前、一瞬だけ階下を見た。母がさっき見た姿勢のまま、深く項垂れている。


 でも、その膝のうえで、両手が硬く震えていた。


 私は、そこで立ち止まった。階下へ戻ろうか少し迷った。一、二度、手すりを摩って躊躇い——結局残りの階段を上がると、いつものように、ドアをバタンと閉めた。

 


    ◇


 

 世に言う「運動神経」とは、イメージと体の動きを一致させる精度のことである。


 優れたスポーツ選手は脳内に完璧な動きのイメージを持ち、実際の自己の挙動を、限りなくそこに近づけられる。裏を返せばイメージできない動作を人は再現できない。見たこともない、聞いたこともない、知らない挙動を人は取れない。人は模倣の生き物であり、真似て学習してきたから。


 ……それはまあ、知っているけど。世界陸上を観たことがあれば、俺にも六メートル三十センチのバーを越えられるっていうのか?


「越えてもらわないと困るんだ」イーグルは、あっさりと言う。「できなかったら、死ぬだけだ」


 わけのわからないことばっかり起きる——カーティスは悪態のひとつもつきたい気分だった。仕事終わりに急に呼び出されたかと思えば、突然日本に行けと言われ、自分たちそっくりの天使が現れ(あの性悪、天使というよりどう考えても悪魔だと思うが)、相棒そっくりの天使のほうと謎の契約をする羽目になった。慌ただしい展開に疲れ果て機内で眠っていたら、今度は見知らぬ場所に飛ばされスパルタ教育を受けている。


 とはいえ、イーグルの容赦ない態度にあまり違和感を感じないのは、この状況における救いだった。幼い頃のエドワードは、割とこんな感じだったのだ。


「察しが悪くて申し訳ないが、もう少し説明してくれ。まずもって、ここはどこだ?」


 カーティスは改めて周囲を見渡す。知っているなかで最も近いのは、CGでオブジェクトを設置する際の画面だ。マスが切られた黒い空間に、枠線だけの建物、車、消火栓や街路樹や自転車、そして人型が立っている。一般的な都市空間を模しているように見えるが、枠線を彩る水色のネオンカラーが目に眩しい。


「次元の狭間だ」


 適切な言葉を考えるような間のあと、イーグルは答えた。こちらが続きを促すのを見て、彼は自らの顎に手をやる。


「広い宇宙空間には、誰の手も及んでいない小さな時空が無数にある。大抵は星のひとつも収まらないエアポケットだが、こちらが観測しさえすればその座標は特定できる。詳細は省くが、一時的になら、こうしてオブジェクトも再現可能だ。……〝クイーン〟はもっと上手くやるけどな。俺はせいぜいこの程度だ」

「……ありがとう。とりあえず、ここがどういうところなのかは何となくイメージできた。……それで?」

「二分二十三秒五六前、お前らが乗る航空機にいわゆる『天使』が現れた。仮に『低級天使』とでも呼ぼうか。幸いさほど攻撃的な個体ではなかったが、暴れられると即墜落だ。それで俺はいったんそいつをここに移した」

「……なるほど?」

「で、お前のデモンストレーションにちょうどいいと考えた。もう一度説明するから、よく聞け」


 彼が腕を組み、二の腕に置かれた指で一定のテンポを刻む。カーティスは、つい懐かしい緊張感に襲われる。


 幼い頃、ピアノ教師を前に、技術の習熟度や曲の解釈を試される場面が幾度もあった。自身が見どころのある生徒だと証明しなければならない気分——一方で、彼は何となく、出来が悪くても見捨てない気もする。


「エーテルについては、既に話したな。覚えているか?」


 記憶を呼び起こすまでもなく、覚えていた。その話をされたのは、ほんの昨日のことだからだ。


 会議室での一悶着のあと、戻ってきたミオリに、フライトは翌々日と告げられた。カーティスはいまだに混乱していたが、それをよそにイーグルが『以後は呼び出せば出てくる』と言って呆気なく姿を消そうとしたので、慌てて呼び止めて質問したのだった。『はっきりした問いにしか答えない』と言われてしまったので、仕方なく比較的優先順位の低い問いを投げた——『エーテルのことを知っているか、あれはいったいどこから来た?』。


 そしたら、答えが返ってきた——『エーテルの存在を、ヒトに教えたのは、俺たちだ』。


「……あれは特定のパターンの電気信号に反応し、実体化する物質だ、と」

「そうだ。お前が持っているエーテルへの『適性』というものは、要するにお前の脳内の電気信号——もっと言えば、そのとエーテルとの相性のことだ」


 言いながらイーグルは、組んでいた腕を解き右手の人差し指を立てた。薄青い液状のオーラが彼の指のまわりを巡り、小さな螺旋階段を作る。それは一度輝きを放つと、砕け散るように宙に消える。


「エーテルはお前の『想像』に反応し、変化している。そしてお前は、お前の想像とエーテルの反応を、限りなく一致させることができる。……つまり『エーテル適性が高い』とは、運動神経がいいだとか、手先が器用だということと、種類としてはほぼ同じだ」


 澱みなく述べたあと、イーグルは言葉を切った。


「理解したか?」


 じっと反芻してから、カーティスは頷く。イーグルはそれを確かめて、先を続けた。


「そしてまた、別の側面がある。人間の脳の限界の話だ」


 彼の無骨な人差し指が、そのこめかみを軽くつつく。


「ここでいう限界は、臓器としての限界じゃない。お前らの脳は言うなれば、ハードそのものは俺たちと大差ない出来なんだ。ただ、お前たちの頭脳には、符号コードが全く足りていない」

符号コード?」

「そうだ。——例えば人間の感覚器は、お前らが思っているより優秀だ。。なのにお前らが俺たちと同じように見、聞くことができないのは、その情報の処理の仕方に問題があるからだ。つまりお前らの脳味噌は、ごく限られた形式のデータしか復号デコードできていない」


 デコード——ある特定のやり方で符号化エンコードされたデータを、読み取り可能な形式に復元すること。例えばテキストファイルなら、対応していない形式で符号化されたデータを開くといわゆる「文字化け」を起こしてしまう。


 そのように、感覚器から入力されたデータには現状、人間には解読不能なものが含まれているのだろう。だが同時に、人間の脳は入出力の双方を行なっている。ということは——


「……仮に、適切な符号コードを手にしたら……入力データの解読のほかに、出力データにも影響があるのか?」

「そういうことだ。……察しがいいな」


 一瞬、皮肉かと思ったが、どうもそうではないらしい——カーティスは、口元が緩みかけるのを堪えた。この程度のことで嬉しくなっているようではチョロすぎる。


「エーテルに関する情報も、普通の人間には復号デコードできない。だがお前は、幸か不幸か、部分的に復号が可能な個体だったようだ。そしてエーテルに情報データを入力するには、その情報を正しい形式に符号化エンコードする必要がある。こちらについては、現時点でも、お前は十分やれている。だがエーテルからの出力を受け取るほうに限界があるから、お前の想像もかなり狭い範囲に限られている。伝わるか?」


 カーティスはまた、ひとつ頷いた。エーテルがどういうものであるかをいまいち感覚できていないから、その上手い活用法も思いつかないということだろう。陶芸家が粘土の特性を知らずに捏ねくり回しているようなものだ。


「俺とお前の交わした契約は、俺がお前という存在に制限付きで介入するのを許すという内容だった」

「……そう言われたな。契約書もなく、あやふや極まりない説明だったが」

「それはすなわち、お前の脳に、俺が手を入れるって意味だ。……今から俺は、お前の『運動神経』、それから『エーテル適性』を強化する」


 これで、前提の説明は終わり——いよいよ本題だ。


 カーティスは深く息を吸い、短く吐き出した。


「具体的には?」

「神経や各感覚器からのフィードバックを解読する符号コード、反対により効率よく指令を伝達するための変換符号を渡してやる。エーテルに関しても同様だ。……ただし」


 イーグルの目が、——エドワードと同じ、エメラルドブルーの虹彩が——カーティスを静かに捉えた。


「情報を今までより上手く処理できるようになったからといって、即座に脳がその活用に対応できるわけじゃない。そこから先は訓練だ。シナプスを徐々に発達させる過程を無理にすっ飛ばすと、深刻な被害が生じかねない——人格の混乱、とかな」


 最後の一言に、反射的に身が強張った。イーグルは静かな瞳のままで、じっとカーティスを見据え続ける。


「脳に変化を起こすんだから、そういう事態も起こりうる。……いいか、カート」


 声に、何かが重なって響いた。遠い遠い昔から、同じように、語り掛けられたように。


「一度、符号を入れて、脳が変化したら、知らなかった過去に戻れない。これは不可逆だ——それを知ってなお、お前は介入を許可するか。『あやふや極まりない説明』じゃなく、全てを理解した今、もう一度決めてくれ」


 イーグルが、ゆっくりと右手を差し出す。分厚く、大きく、骨ばった手。


「俺と、——契約するか?」


 カーティスはその手を見つめていた。引き返すなら今だろう。この契約を受けることについて、ミオリは拒否権がないと言っていた。理由については、少し、察しがつく。


 たぶん、カーティスが断ると、人類は高確率で滅びる。


 とはいえ、滅びるまでのあいだ、命懸けの戦闘などやめて好きに生きる選択肢もある。なにも自分が犠牲になって、人類が滅びないために危険な契約を交わすことはない。……普段のカーティスであれば、とてもじゃないがそんなふうには考えられなかったはずだ。でもなぜだろう、イーグルの前だと、逃げたっていいと思えてくる。


 そして、その上で。彼となら——


 カーティスは、無言で手を取った。しっかりと組ませ、強く握る。


「……いいんだな」


 小さな声で尋ねる彼に、カーティスは返した。


「いいよ。なんというか、君のことは……信じられるって気がするから」

「俺は、お前の相棒じゃないぞ。分かっているのか?」

「もちろん。でも、……そうだな。似ていると、思うよ。すごく」


 瞬間、彼の表情が——痛みが走るように歪んだ。彼は、おもむろに目をつぶり、それからぐっと手を握り返した。


「分かった。……お前が、そう言うなら」


 手のひらに、体温が伝わる。カーティスの冷えた肌よりずっと熱い、昔からよく知る温もり——


 不意に、その手がするりと離れた。彼の手は高く持ち上げられて、カーティスの頭上に掲げられる。


 カーティスが思わず見上げると、彼の五本の指の先に、エメラルドブルーの光が灯った。火を点けたリンにも似たゆらめき——これは——


「……エーテル?」


 思わずカーティスが呟いた、刹那。イーグルの指が、ずぷりと、カーティスの脳に差し込まれた。


「あっ——」


 って、そういう?


 考える間もなく、指を伝って這入はいり込んでくる——冷たい水が染み込むように——何か——滑らかで、ぬるりとした——それは脳内に浸透するうち生温かい感触に変わる——熱を持つ——刺激される——脳を飛び回る電気信号——弾ける!——あそこで!——ここでも!——勝手に、喉が震え、目が見開く、声にならない声が漏れる——何かが——何かが——開かれていく——鍵が解かれ——そして、飛び出す。


 ばん!


「……うぁっ——」


 脳から指が抜けると同時、カーティスは崩れ落ち、そのまま地面に膝をついて大量の唾液を吐いた。痙攣し、嗚咽しながら、喉に溜まった透明な粘液をしばらく吐き出す。やがてそれが収まると、カーティスはゆっくり身を起こし、顔を上げた。


 その顔が、徐々に、徐々に、驚愕を形作る。


「……え、——」


 イーグルはカーティスを見つめ、ほんの少しだけ、笑みを浮かべた。カーティスの目はイーグルから逸れ、信じられないというように、周囲を、空を、忙しなく見回す。


 やがてはっきりと片頬を上げた彼に、カーティスは叫んだ。


「なあ! エーテルって——!?」

 

「ああ。エーテルは天に満ちている。どうする?——全部、お前のものだ」

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