第10話 暫の印を刻め

【前ループの変更点】

・会所壁面の文を改稿「本朝、儀式完了。未処刑。暫」

・閲覧専用盤を二基追加、視線分散のため設置位置を再設計(門影・井戸屋根下)

・石盤裏に仮の暫刻印を追加(送辞と刻印の一致テスト)


朝の前、墨は冷たい。会所の壁に貼った紙の末尾に、菱形の小さな印を描く。暫。仮のまま固定するための楔。リオは筆の太さを半分にして、同じ字面を三枚続けて書いた。重ねると、黒が少し艶を持つ。


閲覧専用の小石盤は二基。ひとつは門の影、もうひとつは井戸の屋根の下。観客の目は出入り口と水場に集まる。そこに“読むだけの光”を置けば、視線は自然に割れる。ダゲンは門影の盤に腰を当て、わざと半歩ずらしながら、出入りの流れをみじん切りにするみたいに分散させた。


石盤の裏に潜ると、木はもう乾いていた。灰は固く、昨日の合わせ直しのズレは保っている。そこへ、薄い刃で新しい溝を刻む。暫。刻印の端をほんの少し窪ませ、外からの送辞にある暫の信号が来たときだけ、最初の名の溝へ向かう流れを遅らせる仕掛けだ。わずかでいい。呼吸一つぶんの遅延。


祈祷師ナヘルが背後に立っているのに気づいた。香炉は持っていない。手は空で、指が落ち着かない。

「仮を刻むのか」

「仮にしておけば、動ける」

「仮は、人を不安にする」

「だから読む。読むほど、不安は薄くなる」

ナヘルは目を細め、やがて頷いた。「祈りも、仮にしておこう。感謝だけ」

感謝の祈りは重りにならない。重りがなければ、火は痩せる。


鐘が一つ。

会所前の宣誓台で、声が三つ重なった。

「本朝、儀式完了。未処刑。暫」

門影の盤に目をやると、出入りの人の視線がゆるく吸い寄せられ、すぐ離れる。井戸の屋根下の盤は、汲みに来た手の動きを一拍だけ止めて、また動かす。読みは止めない。止めない読みは、燃やさない。


鐘が二つ。

ミラが木札を配る。今日の木札は短い。

『読む→指→笑う』

最後の一語が余計で、余計なぶんだけ空気が軽くなる。笑いは合図を分散する。

門のそばで、外套の影が揺れた。綺が来ていた。杖は持たず、手には薄い本。閲覧専用の規格書だろう。彼女は盤の縁を爪で弾き、音の高さを確かめてから、頷いた。


鐘が——三つ。


石盤が息を吸う。

光は立ち上がりかけて、暫の溝に触れて、呼吸をひとつ置いた。

最初の名は立たない。

門影の盤が弱く明滅し、人の目を二度だけ引き、すぐ返す。井戸下の盤は水面を細く照らし、揺らぎで視線をほどく。

長サウラは会所印の紙を掲げ、順序を忘れないように短く宣言する。

「記録、所作、祈祷」

リオは定型の末尾に暫を記し、文を封じる。筆を置く前に、彼は一度だけ紙を傾けて光を滑らせ、墨の艶を確かめた。


その時、小さな異物が視界の端で跳ねた。石盤の縁に、麦粒ほどの黒い玉。祈祷師の香材に似ているが、もっと硬い。誰かが投げた。

玉は溝に触れ、ぱち、と乾いた音を立てた。

光が揺れ、最初の名の影が、薄く浮いた。

誰だ。

視線が走る。

噂好きの二人は木札を読んで笑っている。ミラは札を数え、ダゲンは門柱に肩を預けたまま空を見ている。長は紙を掲げ、ナヘルは手を胸に。リオは筆先をわずかに止めた。

玉はもう一つ落ちた。

今度は、井戸の屋根の軒から。

屋根の上に、細い影。鳥か、人か。

ダゲンが一歩で屋根の縁に跳び、手探りで影を掴む。

悲鳴は出ない。代わりに、乾いた息がひとつ。

引きずり出されたのは、村の少年だった。年は十に満たない。指先が黒い。

「誰に教わった」

僕が問うと、少年は唇を噛み、目だけで門の方——綺ではない、門外の道の先を見た。

外の誰かが“点火の種”を渡していた。閲覧専用の盤しかない場所でも、火を起こすための種。


光は迷い、暫の溝がかろうじて呼吸を稼ぐ。

僕は少年の手から黒い玉をもぎ、石盤の裏へ潜って、暫の溝の先にそれを押し込んだ。

玉が溝を塞ぎ、わずかな熱を吐いた。

石盤の上の光が、さらに痩せる。

「それ、危険だぞ」

綺が門影から言う。

「危険だから、塞いだ」

「塞ぐものに、塞ぐものを入れた」

彼女は目だけで笑った。「発想が雑で、強い」


少年は震え、ミラが肩を抱いた。「誰も怒ってないよ。パン、食べる?」

少年は少ししてから、こくりと頷いた。噛む音は小さく、でも確かだ。噛む音は火を太らせない。


長が静かに言う。「宰席は、閲覧だけでも火を起こせる種を配ったかもしれん」

綺は首を振る。「配っていない。配るなら、もっと目立つ。誰かが、別の線で持ち込んだ」

別の線——宰席の網の外側。

記号の国の外へ、名の密輸。名の密輸は、火になる。


祈祷は、感謝だけで済んだ。ナヘルは短く頭を垂れ、煙のない香炉を胸の前で静かに掲げた。

鐘楼が四つ打つ。

生活の鐘。

今日も、未処刑。暫つき。

巻き戻りは起きない。胸の煤は四粒のまま。


屋根から降ろした少年は、粉屋の影でパンを二つ目まで食べ、やっと言った。

「書記が教えてくれた」

僕とリオが同時に少年を見ると、少年は首を振った。

「村のじゃない、旅の」

外の書記。網の外を歩く書記。名ではなく、記号で火を運ぶ者。


綺が低く言う。「暫の印は、外から見れば弱点にも見える。『仮なら押し込める』と考える者は、どこにでもいる」

「なら、“仮”の意味を増やす」

リオが紙を上げた。「暫に、二つ意味をつける。ひとつは“保留”。もうひとつは“保護”。仮は、守る仮」

僕は石盤の裏で、暫の溝の端に小さな返しを作った。押し込まれた玉が、逆に流れを塞ぐように。

ナヘルが目を細める。「祈祷も、仮を守る言葉に変えよう。『疑いは保留。命は保護』」

長は会所印の紙を新しく掲げた。「会所も、暫に二つの意を認める」


夕刻、門外に薄い砂煙。補助の隊ではない。もっと軽い足取り。灰色の外套の小柄な影がひとつ、村の外縁に佇んだ。

「書記だな」

ダゲンが呟く。

近づくと、影は外套のフードを外した。若い男。胸に記号。

「閲覧のお願いに上がりました」

リオが前に出る。「閲覧なら、盤はそこに」

男は首を横に振る。「紙を、読みたい」

会所の壁の文。

暫の印のある文を、読ませてくれ、と。

読む者が増えれば、火は痩せる。

だが、読む者が記号を盗めば、別の場所で火に変えることもできる。


僕は男の目を見た。乾いていない。綺の目とは違う湿り。

「読むなら、読むだけ」

「読むだけ」

男は頷いた。指を一本上げ、文を三度読んだ。

「本朝、儀式完了。未処刑。暫」

読むたび、声が細く揃い、三度目には、観客の数より紙の重さのほうが勝って感じられた。

男は頭を下げ、門の外へ戻る。

綺が低く言った。「彼は、宰席の外の外だ」

「外の外も、読むのか」

「読む。だから、火は痩せる」

彼女はわずかに笑う。「そして、名は増える」


夜、会所の壁の文を貼り替える。末尾の暫の右下に、小さな点を一つ。保留と保護の二義がある印。

リオは記録に追記した。「暫・点——仮にして守る」

ナヘルは祈りの文を短く書き写した。「疑いは保留。命は保護」

長は印を押し、ミラは木札に新しい並びを書いた。「読む→指→笑う→食べる」

ダゲンは門影の盤の縁を撫で、肩で笑った。「食べるが増えたな」

「命を保護するには、塩も必要」

ミラの言葉に、石盤の縁の木がわずかに音を立てて応えた気がした。


胸の煤は、四粒。

変わらない。けれど、仮は増えた。

仮が増えると、刃は鈍る。

鈍った刃は、時間をくれる。

時間は、設計の味方だ。


【次回の実験】

・暫・点(保留+保護)を外の掲示にも波及させるため、関所の掲示板に同印を持ち込み、多読録画で固定

・点火の種への対策として、暫溝の返し構造を常設化/屋根上の見張り手順を導入

・「読むだけ」の外書記との交換文を作成し、名の密輸線を記号で遮断——仮=守りを、村外の網にも広げる。

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