「15話 – 近づいてる」
空は夜明けなのに、まるで夜そのもののように暗かった。
黒い雲が海の枕に布をかけるように低く垂れこめる。
水をたっぷり含んだ雲の重みが海面を押しつけるたび、
海は低い唸りを上げて震え、今にも内側を見せるように水面をひっくり返した。
空と海を分けていた水平線は消え、
代わりに風が一本の線を引いた。
刃を立てるように、波を切り裂くように、長く。
風に切られた波から白い飛沫が舞い上がった。
街はまだ、穏やかな眠りを捨てきれずにいた。
灯りの消えた路地には、数本の街灯だけが光を抱きしめている。
ネオンサインは消えたまま、濡れたガラスのように微かに光った。
看板の下の影が風に押されて裂かれるように揺れ、
表札がガタガタと鳴り、鉄骨が闇の中で歯を食いしばるように軋んだ。
怒れる海はすでに目を覚ましていた。
白い泡が道路の端まで押し寄せる。
黒いアスファルトを白い水で磨き、引くときには黒い泡沫を残した。
塩を含んだ風が角を回るたびに、
窓ガラスが「トン」と鳴った。
街路樹は風の腕に絡め取られ、悲鳴を上げた。
柔らかな葉が千切れ、風に乗って舞い上がり、
鋭い音で都市の鼓膜を震わせた。
電柱に絡んだ電線は、宙で張りつめ、
「ジジッ」と火花を散らした。
水をたっぷり含んだ空気は重く、息を吸うと舌先に鉄の味がした。
吐くたびに喉の奥から錆びた匂いが立ち上がるように感じる。
空気が重くなるにつれ、気圧が下がり、
耳は正常なのに、まるで飛行機が離陸するときのように詰まった。
「台風マリア、ミドジマ沿岸線に接近。
被害予測ルート進入まで、十二分。」
EEの音声が無線網を通して司令所に響いた。
もし声に温度があるなら、今の気温は摂氏零度に感じられただろう。
外界と遮断された司令所の中も、
刻一刻と変わる海のように緊張で満たされ、
空気が次第に凍りついていく。
壁の地図、モニター、ケーブル、コンソール――
すべてが一瞬、時間を止めたように見えた。
カイレンはモニターの前で姿勢を低くし、
画面の光が彼の顔に影を落とした。
指先が無意識にコンソールを叩く。
それがリズムなのか、確認なのか、
自分を繋ぎとめるための拍子なのか、誰にも分からない速さで。
「全員、持ち場へ。」
たった一言だが、その声には決意が刻まれていた。
「シミュレーション通りに行く。絶対に揺れるな。」
命令が金属の骨を伝い、司令所全体に響いた。
ヘッドセット越しに「了解」という声が次々と返る。
誰もがそれぞれの覚悟を胸に、任務に集中した。
EEが再び報告を上げる。
「台風マリア外縁バンド、六分以内に市街地と接触。
追加報告――人工島『コルナカヴ』、係留ケーブル張力上昇。波高、過臨界域に突入。」
壁一面のホログラム地図の左側が点滅した。
灰色の点ひとつ。海上に浮かぶ四角い影、〈CORUNAKAB〉。
ミドジマから細い線で繋がる金属の島。
風が通り抜けるように、壁に投影された光の面がかすかに震えた。
「ミドジマを優先。」
カイレンは数字と地図を同時に追いながら言った。
「コルナカヴとは通信ラインを維持。必要に応じて共同対応に切り替えろ。」
ソラが壁に新しいウィンドウを開く。
指先がキーを叩くたび、乾いた「タッ」という音が響いた。
「コルナカヴ運営局、回線確保――応答、断続的。」
スピーカーからノイズが裂けて入った。
現場の風をそのまま伝えるかのように。
鉄の扉が揺れる低音、老朽化したケーブルの高周波。
その隙間から、ひとつの声が漏れ出た。
[コルナカヴ/OPS]
「こちらコルナカヴ運営デッキ。
ドックC-5浸水、北側変電ライン絶縁低下……内部は我々で持たせる。
ミドジマを先に抑えろ。」
短い通信を最後に、画面はインクを垂らしたように黒く消えた。
ルカの肩がわずかに動いた。
表情は変わらない。だが指先が白く乾いていた。
キーボードの上で、意図しない拍子を打っていた。
カナエが横目で彼を見て、低く問う。
「……行きたいなら、今のうちよ。」
短い呼吸。
ため息のようにも聞こえた。
ルカは首を横に振った。
「まだ……ここ。ミドジマからだ。」
その声は穏やかに響いたが、波形は揺れていた。
ジェイコアはその揺らぎを逃さず捉える。
視界のHUDに細いグラフが一度折れ、すぐに戻った。
《コルナカヴ・ログ固定――状態モニタリング》
EEが即座に補足する。
「補助モニター分離。警報レベル、同期。」
風がもう一度窓を叩いた。
ガラスが派手に震え、
地図の上でミドジマとコルナカヴが同時に震えた。
風の鼓動と、人の鼓動が、ほんの一瞬重なった。
「予告のない風――これが始まりだにゃ。」
ジェイコアの言葉は冗談めいていたが、瞳は真剣だった。
ホログラムのカエルの瞳に、風のベクトルが反射して揺らめく。
一瞬、みんなの視線がジェイコアに向かい、
すぐにまたモニターへ戻った。
VF-578の離陸カウントダウンが始まる。
エンジン点火前、空気の低音が床を這い上がった。
鉄骨とコンクリートが、同じ音で震えた。
♪
吹き荒れる風の中から、小さな鳴き声のような音がした。
人の声を真似た風の音にも聞こえたが、その語尾が少しだけ上がっていた。
ユニは司令室の防音ガラスの外に目を向けた。
雨に濡れた影が見えた。
窓枠にしがみつく灰色の塊。
「……ニャモメ?」
一羽のニャモメが、窓の縁にかろうじて掴まっていた。
濃い羽根の隙間から、小さな猫の耳がのぞいている。
嵐に流されてきたのだろう。
その体は丸く縮こまり、震えていた。
羽の先に溜まった水滴がぽたりと落ちるたび、
その小さな振動が窓枠を伝って室内へ響いた。
「ニャー……カァ。」
一声鳴くと、首を傾げた。
何も知らないような顔で。
世界の終わりが目の前にあっても、
ただ「ここにいるよ」と言っているような表情だった。
その姿にジェイコアが即座に反応した。
「放送用カットだにゃん! 災害中継にニャモメ登場だにゃん!
視聴率、爆上がり間違いなしだにゃん!」
いくつもの角度からニャモメを映し出すジェイコアを見て、
ユニはふっと笑った。
口元がわずかに、震えを堪えるように上がる。
「こんな時にまで……。」
「こんな時だからこそ、だにゃん。」
小さな笑い声が司令室を一巡した。
息をするような笑い。
肩が一度落ち、
外から吹き込む風に合わせてもう一度上がる。
天井が「ドン」と鳴った。
風の手が建物を叩いたのだ。
その一撃で、野戦灯が一瞬揺れ、すぐに元の位置へ戻った。
♪
VF-578のエンジンが目を覚ました。
「ウソダ、離陸する。」
リオンの声が無線を通して響いた。
白い機体が格納庫を抜け、空へと突き上がる。
空はすでに裏返り、海は怒れる獣のようだった。
リオンは長く息を吐き、
操縦桿を握る指の第二関節に力を込めた。
「航路、確保開始。」
秩序を失ったコンテナ同士がぶつかり合い、破片を撒き散らす。
どこから来たのか分からない漂流物が波の肩に乗り、すぐに転げ落ちた。
VFのレーザーがその間を「シュッ」と抜けて道を作った。
光が跳ね、破片が飛び、
わずかな飛沫が空を埋める。
錆びた金属と塩の匂いが入り混じり、
フィルターを通しても、その匂いが想像のように鼻をくすぐった。
リオンは短く笑った。
「今日も浜の匂いだな。」
そして機体をわずかに傾けた。
「航路整理、完了。」
♪
EEの報告が続く。
「浮遊物42%、暴風圏内通信断絶エリア発生。」
風に煽られ視界を奪われたマリサは、
防壁の上で太いボルトを締めていた。
手袋越しの掌はすでに水に濡れ、
ヘッドランプの円い光がボルトの頭に反射する。
回すたびに水滴が飛び散った。
「もってよ……今度こそ、崩れないで。」
マリサの額を伝う水が頬を滑り落ちた。
それはまるで涙のように見えた。
唇は海の塩気を覚えていて、
その塩味が彼女の動きを、わずかに速くした。
♪
一睡もしていないエイリンは、救急キットを胸に抱えて走っていた。
足元の水が跳ねて脛を打つ。
叩きつける雨が肩を打ち、濡れた髪が頬に張りつく。
「負傷者予測地点、接近。」
彼女の声は小さかったが、無線の中では誰よりも明確に響いた。
そして――司令室の一角。
ユニはモニターの光に顔を半分埋めていた。
画面上の波形グラフが瞳に反射し、静かに瞬く。
手に握るマイクが重く感じた。
その重さが鼓動の重さであることを、ユニはもう知っていた。
それでも指先が震えた。
その震えはいつも、「準備完了」の合図だった。
ジェイコアが彼女の隣に浮かぶ。
「いよいよ出番だにゃん。グロリア、光を見せるにゃん。」
ユニは息を吸い込んだ。
流れ込む空気が電流のように体を巡る。
髪がゆっくりと持ち上がり、瞳が光を蓄える。
心臓とイヤマイクの間に、細い線が生まれたように感じた。
光の粒子が肩を伝って流れ落ちる。
普通の服が消え、波動を纏う構造スーツが姿を現す。
繊維の模様が風の軌跡を写し取るように変化し、
その上を脈動するように明滅するアンプが銀色の光を放った。
EEが数値を読み上げる。
「グロリア・モード展開。波動出力148%上昇。」
ジェイコアが歓声を上げる。
「真のスターだにゃん! 変身完了にゃん!」
前奏が流れ出した。
〈風は予告なく吹く〉。
嵐の轟音を貫き、彼女の声が空気を切り裂いた。
「近づいてる…… 予告もなく吹く風が——」
その声が、空と海の境界を破った。
泡沫が光りながら弾け、消えていく。
街全体が一瞬、息を止めた。
息の終わりに、人々の肩が同時に落ちた。
EEが静かに呟く。
「波動感知。共鳴反応開始。」
カイレンが顔を上げた。
ガラス越しに稲光が走った。
閃光がVF-578を、ニャモメを、人々の影を一度に裂いた。
「これが――始まりだ。」
カイレンは低く呟いた。
司令室の光が一度消え、そして再び点く。
歌声に導かれるように、風が動き始めた。
漂っていた空気が、リズムを持ち始めた。
♪
嵐は遠くから、まず音として近づいてきた。
激しい風が爆ぜる前に、空気が先に泣いた。
もう何も見えない窓が震え、
床に固定されたケーブルが共鳴して鳴った。
細い金属がぶつかり合い、小さな鈴のような音を立てる。
EEの声が重なる。
「台風中心部に突入。波高十二メートル。
防壁だけでは持ちません。」
モニターから目を離さないカイレンが、
短く、核心だけを告げた。
「今だ。彼女に繋げ。」
♪
ユニ――グロリアは、マイクを強く握った。
指先が光を受けて白く染まる。
胸の熱が喉に昇り、また沈む。
息が、熱を帯びていた。
「……風は予告もなく吹くけど、あたしたちは歌う。」
その瞬間、歌が光へと変わった。
歌声は空気の上で、光は空気の中で――
二つの波動がひとつの場所で重なった。
青い輪がいくつも重なり、半球状の膜を形作る。
その膜は硬くない。
柔らかく震え、衝撃を吸収し、
振動をそのまま返した。
まるで、海が「大丈夫」と囁いて頷いたようだった。
波が打ちつけるたび、小さく響く。
その響きが再び波に返り、海が歌のリズムに合わせて動いた。
VF-578〈ウソダ〉が低空飛行で海岸線をかすめる。
リオンが短く叫んだ。
「持ちこたえてる! 波が押し返されてる!」
EEが補足する。
「防壁衝撃吸収率、七十六→九十四へ上昇。」
避難所に集まった市民たちは、
防壁の向こうから流れ込む光を見上げた。
砕けた波が白い欠片となって空に舞う。
その隙間で青い膜が呼吸するように膨らみ、また縮んだ。
張りつめていた人々の中で、
誰かが安堵のように息を吐いた。
「……助かった。」
濡れた手袋を外したマリサは、防壁に背を預けて笑った。
「声ひとつで、これを止めたのね。」
雨が涙と混ざって頬を伝う。
味を区別できないのが、むしろ心地よかった。
♪
白い軌跡を描くVFのエンジンが一拍置いて爆ぜた。
EEのグラフが閃く。
「共鳴指数九十二上昇。周波数同期、確認。」
司令室のニャモメが突然、顔を上げた。
「ニャッ――!」
窓枠がかすかに震える。
グロリアは反射的に視線を向けた。
小さな命が、大きな音にも耳を立てていた。
その光景ひとつで、人々の呼吸がまた長くなった。
♪
怒涛の海の音、叩きつける雨音、揺れる金属音、
そして、息を殺した人々の音。
すべての音が同じ拍子に合わさり、ひとつずつリズムを見つけていく。
そのリズムに乗って、グロリアの波形が地図上に細い線で描かれた。
輪のように繋がった線が震え、都市の流れを撫でていく。
〈大丈夫――いま――ここ〉
避難路を示す光が、地図上に一本ずつ点灯した。
雨粒がガラスを伝って流れ落ちる。
まるで星座のように。
繋がっては途切れ、また繋がる。
闇はまだ続いていた。
夜明け前の街。
けれど、人々の瞳の中には、小さな光が戻っていた。
その光は、風に消えなかった。
そして――
「いっしょに。」
誰かの口からこぼれた小さなひとことが、
風より遠くまで届いた。
みんな俯いていたので、誰が言い始めたのかは分からない。
だが、その小さな言葉が、皆を歌わせた。
コンソールが一斉に点滅し、
モニターが点いたり消えたりを繰り返す。
空気の中に、電流の匂いが混ざった。
モニターに集中するため、ハルトが椅子に深く身を沈め、
キーボードを叩く。
指先が稲妻のように速く動く。
「ノイズ急増、帯域幅、半分以下。」
感情を表に出さないハルトの声も、
機械音に混じって震えていた。
「ドローン、1番と4番のみ生存。」
別のモニターを見ていたソラが顔を上げる。
壁面に反射する青いグラフが、その瞳に揺れる。
「この送信が切れたら、避難ラインが崩壊する。」
短く、それでいて確かな言葉。
まるで壁を築くように、空気を締めつけた。
ためらっていたメイが、意を決して手を挙げた。
「か、風がひどいです。ドローンが……ケーブルが揺れて……!」
言い終える前に、天井が振動した。
「縛れ。」
ソラの声は迷いがなかった。
「え?」
「風が予告なしに吹くなら、あたしたちも予告なしに吊るすの。」
風が腕を叩くように吹き荒れた。
それでもソラは両手でケーブルを引き絞る。
雨が斜めに舞い、肌に当たる空気は砂のように荒かった。
「ドローン、カイト・システムに切り替え。」
EEが即座に応答する。
「音声:ドローン経由。テキスト:ビーコン網。遅延値400ms以内。」
ハルトは古いフィルターモジュールを開いた。
ローパスフィルターを指先で組み上げながら、
「高域を切れ。心臓を残すんだ。」
ソラが笑う。
「いいわ。今、必要なのはリズムよ。」
その言葉と同時に、グロリアの呼吸が送信網に乗った。
モニターの波形が大きく揺れ、静かに落ち着いた。
「……聞こえるにゃん。」
その一言が、電波の軸を固定した。
乱れていたグラフが穏やかになっていく。
モジュールを点検していたハルトが画面を見つめ、
その瞳に反射する光が波のように揺れた。
「本当に、繋がった。」
♪
メイは唇を噛みしめ、ドローンのケーブルを両手で巻き取る。
掌から伝わる振動が、心臓へ移る。
風が腕を這うように流れた。
「……これ、ちょっと楽しいかも。」
「楽しむのは後で。」
笑いを聞いたソラが微笑んだ。
「今は、生きるほうが先よ。」
ドローンが空を切り、揺れる。
金属のフレームが軋み、空気を裂いた。
白いラインが稲妻のように光った。
その下で、街の灯が波のように動く。
ラジオ、スマホ、スピーカー――
すべてが同じリズムで染まっていく。
〈今――ここ――いっしょに〉
人々の足音がリズムを刻む。
どこかで子どもの泣き声が止まり、
誰かの「大丈夫」が続いた。
EEが報告する。
「群衆移動ベクトル再調整。ボトルネック三箇所中、二箇所解消。」
防壁の方を向いたハルトが親指を立てた。
「いける。」
メイはドローンのモニターに星のマークを描いた。
小さな☆が、闇の中に浮かんだ。
EEが続ける。
「安定指数+19%、士気指数95%。」
ソラはトークバックを押した。
「グロ、聞こえる? 私たち、ちゃんと繋がってる。」
その言葉の終わりに、風が答えるように窓を震わせた。
窓枠の金属が共鳴し、心臓のように鳴った。
♪♪♪
巨大なスクリーンが、一瞬の閃光のように明滅した。
そこに映し出されていたのは、ほんの数分前――
ミドジマの救助現場のリプレイだった。
暴風、波、悲鳴、泣き声。
あらゆる喧騒を、一瞬で鎮めたひとつの声。
「……グロリア。」
天井に吊るされた照明が、青白く震えた。
金属に囲まれたDECG本社の戦略会議室。
重く冷たい空間の中で、
ただスクリーンに映る少女の歌だけが、わずかな色を与えていた。
隣の中年幹部が拳でテーブルを叩いた。
「扇動だ! いくら危機とはいえ、アイドルの歌で民意を掴むなど!
我々は数十年、データと武力で秩序を築いてきたんだ。
あんなもの、危険な火種にすぎん!」
別の者が腕を組み、鼻で笑った。
「ただのショーだろう。感情の遊戯だ。すぐに鎮まる。
群衆はあっという間に、別の音を求める。」
だがスクリーンの中のグロリアは、鎮まらなかった。
稲妻と暴風を突き抜け、
揺るぎない波動で人々を包み込んでいた。
やがて――ひとりの子どもが差し出した、濡れた絵。
グロリアがそれを受け取ると、会議室の空気が一瞬、止まった。
その時、灰色の髪をきちんと束ねた女性が、静かに口を開いた。
「アイドルだから……怖いのよ。」
全員の視線が集まった。
セイラだった。
DECGの現場指揮官にして、最も冷徹と呼ばれる女。
「もし軍人や政治家があれをやったなら、
単なるプロパガンダとして片づけられたはず。
でも“アイドル”の名で響いた瞬間、
人々は拒めなくなるの。」
彼女は目を細める。
「軽い歌に聞こえる。
けれど、その“軽さ”こそが、深く染み込む。」
会議室にざわめきが走る。
「バカな。アイドルごときが体制を揺るがすなど――」
「我々の築いた権威が、歌声に負けるはずがない。」
セイラは黙ってスクリーンを見つめていた。
グロリアがステージで手を振る姿。
市民が涙を拭い、互いを支え合う姿。
子どもが不器用な手で絵を差し出す姿。
その、あまりに小さく、単純な光景が――
彼女たちが何千億を投じたプロジェクトよりも、
圧倒的な説得力を持っていた。
「アイドルは、舞台の上だけに存在するわけじゃない。」
低く、呟くように。
「ファンの心の中に。人々の日常の中に。
そこに生き続ける。
いくら訓練を積んだ救助隊でも、
最終的に人を動かすのは、あの一行の歌かもしれない。」
沈黙。
やがて誰かが嘲るように言った。
「つまり、我々はアイドルひとりに敗北するというのか?」
セイラは首を横に振る。
その瞳は揺れなかった。
「まだじゃない。
だが、あの力を放置すれば――
私たちの秩序の上に、“別の秩序”が生まれる。
群衆はそれを、もっと甘美なものと感じる。
アイドルだからこそ。」
彼女の指先がテーブルを叩いた。
一定のリズムで。
まるでグロリアの鼓動に合わせるように。
「だから――観察する。解析する。
そして、必要な瞬間に……排除する。」
スクリーンが切り替わり、
グロリアのクローズアップが映る。
目を閉じ、歌う少女。
光のドレスが波のように揺れ、
その波動が海の波と重なり合って散った。
セイラは目を離せなかった。
その姿に混じっていた二つの感情――恐れと、
言葉にできない魅了。
『……なぜ怖いのか、今なら分かる。』
心の中で、彼女は答えを出した。
歌は武器じゃない。
だが――アイドルの歌は、武器よりも恐ろしい。
人々が笑いながら受け入れる武器。
そして、自分までもが、
そのメロディに一瞬、引き込まれていたという事実が、
セイラの背筋をさらに硬くした。
天井の光が微かに点滅した。
嵐は、まだミドジマを離れていなかった。
セイラは指を止め、
氷のような声で締めくくった。
「“アイドルだから怖い”。
その意味を、すぐに証明してみせる。」
♪♪♪
コルナカヴのオペレーションデッキ。
警報灯は依然として黄色のまま、
降りしきる雨は止む気配を見せなかった。
通信を終えたラセルは、濡れた手袋を外してコンソールの上に置いた。
指の硬い皮膚の隙間から、水が滲み出る。
画面には、低音域の波形が残っていた。
鈍い心臓のような曲線。
「……いい呼吸だ。」
彼は目を細めた。
モニターの隅には、小さな文字が光っていた。
〈HN-07/同期:安定〉。
その名を見た瞬間、ラセルの口元がわずかに緩む。
微笑と、ため息の中間のような音。
「大丈夫だ。どこにいようと……ここは、俺が掴んでいる。」
「局長!」
背後から部下の叫び声が響いた。
「次の隔離ライン、点検準備完了!」
モニターから目を離し、ラセルは顔を上げた。
癖のように指を払ってから、背筋を伸ばす。
窓の向こうの海はまだ不安定だったが、
今この瞬間だけは――わずかに静かだった。
彼はその短い静けさを、呼吸のように吸い込んだ。
「行くぞ。」
暗い通路の間に、再び灯りがともる。
オペレーションデッキの機械たちが息を吹き返し、
海が再びリズムを刻み始めた。
♪♪♪
避難所には、まだ雨の匂いが重く残っていた。
濡れた衣服、煙、薬品の香りが混ざり、
微かな温もりが空気に漂っていた。
人々は泣きながら笑い、互いに抱き合っていた。
泣き疲れて眠った子どもを抱く母親が、静かに空を見上げた。
まだ灰色の空。
けれど、もう嘆きはなかった。
司令室に戻る途中、ユニはひとりの子どもから濡れた紙を受け取った。
少し皺が寄り、片隅が滲んだその紙には、
光のドレスを纏った少女と、救助隊の姿が描かれていた。
絵は歪で、絵具はにじんでいた。
それでも、色だけは――確かにあたたかかった。
「歌ってくれて……怖くなかった。」
その声が、ユニの胸を叩いた。
ユニは静かに笑った。
目元が濡れた。
その絵をバックアップしたジェイコアが、体をきらめかせる。
「データより価値ある贈り物だにゃん。」
EEが補足した。
「心理安定効果、長期持続の可能性、高。」
戻ってきたユニは、カップラーメンにお湯を注ぎながら、
絵を撫でる手を一瞬止め、窓の外を見た。
灰色の空は、いまや薄く透け、
静かな雨が落ちていた。
その雨音は、もう怖くなかった。
〈予告なく吹く風でも、いっしょなら耐えられる。〉
先ほど渡された子どもの絵が、手の中でかすかに震えた。
その震えさえも、生きている証の鼓動だった。
遠くで最後の稲光が散った。
SeaComログに一行の記録が残る。
「いっしょに。」
光が消えた跡に――
ユニの胸の奥では、まだリズムが続いていた。
♪♪♪
送信フィード — 銀河全域 生中継反応
[@LagunaNews]
ミドジマ救助作戦 生中継 終了。
市民被害ゼロ、“奇跡の歌”。
#グロリア #マクロスレスキュー
[@RagnaFan89]
泣いて、笑った。
本当に、海が眠ったみたいだった。
[@WindmerChild]
うちの地域でも放送入った!
夜のニュースより早い救助なんて……。
[@KamomeLover]
ニャモメ出た!!! 耳付きカモメ、生きてたにゃん!!
[@TechCore_Review]
共鳴周波数、解析中。
人間の声でこの安定値、あり得るのか?
[@DeltaVeteran]
デルタの時代でも、こんなのはなかった。
時代が変わったな。
[@UniFan01]
「いっしょに」って言葉、まだ耳から離れない。
なんだか力が湧いてくる。
[@MOC_Intern]
現場データログ、完全に生きてる。
これは技術じゃなく、心だった。
[@RandomViewer]
たまたまテレビつけっぱなしだったのに……
なぜか涙が出た。
[@ArcadiaLab]
波動パターンが星座みたいに広がってる。
今回も――銀河が聴いた。
スクロールは止まらない。
文字が光っては消え、新しい文が生まれる。
まるで光の波形が連なっていくように。
送信を終えたジェイコアが、静かに呟いた。
「視聴率、上昇中だにゃん。」
カメラが切れ、
街は再び静かな息を吐いた。
けれど、どこかのスピーカーからはまだ、
ユニの歌が――小さく、流れていた。
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