「11話 – 「S」「O」「S」」

ほんの一瞬、安定を取り戻したかに見えたその隙をついて、

DECGの進行スタッフがPRチームをステージへ押し込もうとしていた。


「ロゴ——コメント、今です! PRタイミング、今しかありません!」


その声が響いた瞬間、サイドステージの通路から誰かが飛び込もうとした。

だが、カイレンの短い指令が先に落ちた。


「進行制御。安全確認が完了するまで、他の出演・コメントは禁止だ。」


舞台下では言い争いが始まった。

レスモアのメンバーがPR担当者の腕を押し返しながら、必死に制止していた。


「今入ったら危険ですってば!」

「でもPRチームが、今がロゴタイムだって——!」


その光景を見た観客席にも、緊張したざわめきが広がった。


「レスモアが本当に救助したらしい!」

「いや、グロリアが助けたんだって!」


どこから始まったとも分からない声と視線が、

稲妻のように客席のあいだを走り抜けた。


笑い声が混じり、ざわめきは伝染するように広がる。

冷静さが、じわじわと溶けていく。


まだ終わっていないステージの余熱が、

その混乱の隙間でゆらめいていた。


進行役がプロトコルを無視し、

強引にマイクへ手を伸ばしたそのとき——


グロリアが一歩、前へ出た。


その声は柔らかく、それでいて揺るがなかった。


「今は——安全が先だにゃん。

みんな、スクリーンのマークに従って移動してほしいにゃん。

お互いに手を離さないで——子どもは真ん中に。」


観客席に、再び落ち着いたリズムが戻り始めた。

人々はゆっくりとうなずき、秩序を取り戻すように列を作った。

座席のあいだに、水が流れるような動線ができていく。


少しずつスペースを譲り合いながら、

車椅子が通れる通路が自然に開いた。


SeaMedのミズホが案内ラインの先で手を振った。

「こちらです、ゆっくりで大丈夫!」


EE:「混雑度マイナス20%。ボトルネック、ゼロ。現場安定化完了。」


その報告とともに、レスキューチーム全員の張りつめた息が一度にほどけた。


そのとき、客席の片隅で救出された青年が端末を掲げて叫んだ。


「助かった……グロリアのおかげだ!」


その一言が、現場を中継していた人々の手でそのまま送信された。

数秒のうちにファンページへアップロードされ、

ハッシュタグ #SOS が爆発的に拡散していった。


ステージ裏で息を整えていたグロリアは、

モニターを見つめたまま目を見開いた。


「……これ、今広がってるの?」


ジェイコアは誇らしげに胸をドンと叩いた。

「リアルタイム配信の力だにゃん! 生中継の時代は、アタシたちの味方だにゃん!」


くるりと回転しながら踊るジェイコアが、最後のキューを出した。

「コーダ——無伴奏、8小節。心を結ぶにゃん。」


グロリアはマイクをそっと唇から離し、

無伴奏のまま観客席を見渡しながら歌い出した。


最期のコーダが

響いてるんだ

崩れた星座の空の下で


「だいじょうぶだにゃん。いま——ここ——いっしょに。

アタシたちは、ちゃんと外へ出られるにゃん。」


その声だけで、ライトが彼女のあとを追い、道を照らした。

上空を飛ぶドローンのライトが弧を描き、光を散らしていく。


ルカがタブレットを操作しながら淡々とつぶやいた。

「動作安定。航路誤差、0.2度未満。」


ジェイコアが歓声をあげた。

「こ、これはダンスだにゃん! 今日のMVPはドローン部隊だにゃん!」


空中で誘導をしていた機械たちは、まるで互いに手を取り合って踊るように、

白い光の群舞を描き、客席の上に星座を作り出した。


未完成な私を

あなたが愛した

それが永遠(とわ)なら

遅くてもかまわない


短くても鮮やかなコーダが、波のように広がっていった。

ひと呼吸おいて、静かな拍手が続いた。

それは歓声ではなく、生きて帰れるという安堵の震えだった。

その鼓動はステージを越え、海へ、そして空へと広がっていった。



ステージの裏に戻るとすぐ、DECGの担当者が駆け寄ってきた。

「PRチームが大騒ぎです。これは契約違反——」


カイレンがその言葉を遮った。

「契約より、生存が先だ。」


言葉を奪われた担当者が、さらに抗議しようと口を開きかけた瞬間、

EEが静かに割って入った。


「電力ラインのログ、観客動線データ、そしてあなたたちが提示した設計図の齟齬。

すべてバックアップ済みです。」



管制室のモニターには、光の波形グラフが映し出され、

研究員たちのざわめきが広がっていた。


「曲線がきれいすぎる……これはもう、ライブじゃなくて集団心理実験だろ。」

「同感。データ値の一致率が異常だ。

計算されたものじゃない……それが逆に怖い。」


その中の一人が、ぽつりとつぶやいた。

「……俺たちは、この子を実験体として見ているだけなんじゃないか。」



DECG担当者とカイレンの短い言い合いが終わると、

空気が一瞬、息を潜めるように静まった。


EEがもう一度、同じ報告を繰り返した。

「電力ラインログ、観客動線データ、設計図の齟齬——すべて保存済み。

追加報告。コルナカヴ海洋プラットフォーム回線にも揺れがありました。」


片手で端末を叩いていたカナエが、皮肉っぽく笑った。

「PRより、危険の方が早く拡散したみたいね。」



グロリアは椅子に腰を下ろし、水を一口飲んだ。

指先にはまだマイクの震えが残っていて、かすかにくすぐったい。


そのとき、端末の画面が自動的に点灯し、

視線を向けたグロリアの瞳を認識してログインした。

そこに表示されたのは——


[グロリア・チャンネル ライブ映像配信中 – コメント3万+]

[#SOS トレンド急上昇]

[ファンサイト新規登録殺到 → サーバー遅延]


「……なに、これ。」


グロリアは震える指で画面をスクロールし、頭を抱えた。

公演が終わって、まだそれほど時間も経っていないのに、

すでに編集済みのクリップやミームがネット全域を駆け巡っていた。


今日のステージの呼吸を「神の鼓動」と称して熱弁を振るう者、

そして「救助ソング」をアイドルの新曲としてリミックスして投稿する者——

様々な反応が渦を巻いていた。


ジェイコアがにやりと笑った。

「スターはチャンネル管理も実力だにゃん!

ファンカフェのコメント、今だけで数千件だにゃん!」


EEはそれに呼応するように統計を投げた。

「リアルタイム流入率 +420%。ポジティブ反応78%。ネガティブ12%。論争10%。

平均滞在時間、4分36秒。」


「……アタシ、レスキュー隊なんだけどにゃん?」


グロリアがつぶやいたが、コメント欄はおかまいなしに暴走していた。


— 「今日も助かった #グロリア」

— 「安心感がハンパない」

— 「グッズはいつ発売?」

— 「セイラ vs グロリア、ガチ?」


「グッズって……。」


グロリアが呆れたように乾いた笑いをもらすと、

ジェイコアがその場で即席のポスターをホログラムに映し出した。


🪩〈Guroria 1st LIVE – 心拍数トランスミッション〉


「予約、いつ開けるにゃん?」


「それはダメ!」



開いたドアにもたれかかっていたカナエが、

端末から目を離してちらりとグロリアを見た。


「コメント管理、もう自分の仕事よ。

私たちに残るのはデータだけ。」


待機室の椅子に腰を下ろしていたルカは、

タブレットをスクロールしながら冷静にまとめた。


「まとめると——グロリア・チャンネル、

アイドルのサブルートに突入。」


グロリアは短くため息をつき、端末の画面を消した。

「……まさかアタシがファンカフェの管理までやるとはにゃん。」


その言葉は少し自嘲めいていたが、

彼女の顔には疲労よりも、どこか妙な決意が浮かんでいた。

(いや、正確には“めんどくさい”に近かったが。)


カナエが手をひらひらと振った。

「何これ、私たちが借りを作ったって? 笑わせないで。

借りを作ったのは、あっちでしょ。」


その言葉にルカが小さく笑った。

「データ上でも同意。今日の損益分岐点は“救助側”です。」


グロリアは返事をしなかった。

ぼんやりとした顔で水をもう一口飲んだ。

指先にはまだ、あのマイクの震えが残っていた。

緊張と歌声の余韻は、耳にも、胸にも、

そしてグロリアの足元にもまだ残っていた。


照明が半分だけ灯った廊下。

その静かな空間に、アスレンの足音が近づいてきた。


彼の声は穏やかだったが、芯のある響きを持っていた。

「大丈夫ですか?」


グロリアは一瞬、目を閉じてからゆっくりと顔を上げた。

「うん。だいじょうぶだにゃん。」


心配そうな瞳に視線を合わせ、

短く答えたあと、ひとつ息を整えて付け加えた。

「今日は……アタシが選んだにゃん。」


そのひと言が、空間をやわらかく満たした。


背後から、ジェイコアが勢いよく飛び出してきた。

星型のホログラムをピカッと光らせながら大声で叫んだ。


「それが今日のタイトルだにゃん!

〈選べ、君の航路〉――おまえの航路はおまえが決めるにゃん!」


EEが投影したスクリーンには、

波のように続くグラフが静かに揺れていた。

ドクン、ドクン——

心音はまだ、止まっていなかった。


♪♪♪


数十キロ離れたビル。

窓の外では都市の灯りが静かに滲んでいた。


巨大なモニターが部屋全体を照らし、

DECGの幹部が腕を組んだまま、その映像を見つめていた。


「いいじゃないか。

だが、すぐに比較されるだろう。」


画面の隅に、セイラの顔がクローズアップされた。

ステージの裏で、静かに息を整えている姿。


幹部は低く笑った。

「この子と、すぐ同じ舞台に立つことになる。」


♪♪♪


フローティング・アリーナのブリーフィングルームでは、

今日の救助活動に関する報告が続いていた。


ルカが書き上げたレポートを差し出した。

「結論です。デュエット状態での “拍子誘導避難” は

単独行動に比べて1.35倍の効率。

本日のログを次回任務の資料として整理します。」


ユニは静かにうなずいた。

空の客席の間を、赤い警光灯の光が遠ざかっていく。


空になったステージは広い空間の残響に満たされていたが、

胸の奥に残る拍手の余韻が、

まだ舞台の床を這うように響いていた。


歌と救助。

その境界線は、今日も曖昧なままだった。

けれど、一つだけ確かなことがあった。


選択は自分のもの。

そして、責任も自分のもの。


「行くぞ。」

カイレンが短く命じ、先頭に立った。


「はい。」

ユニが答えた。


「一緒に行きましょう。」

アスレンが続けた。


ジェイコアはしっぽを振るようにホログラムをピカッと光らせた。

「水分補給! 甘じょっぱいおやつ! 10分チャージ!

そして――ブリーフィングだにゃん!」


EEは後に続いて報告書をまとめながら言った。

「キーワード:選択、航路、同期。」


ドアが閉まり、

照明が一つ、また一つと消えていった。


フローティング・アリーナの灯りが

海の上に小さな航路のように散っていく。


その光の上に、波のように浮かび上がる言葉。


今――ここ――一緒に。


そして、静かな決意がひとつ。

次も、あたしが選んだ道で歌う。


朝の空気は薄かった。

ユニは訓練場の天井に吊るされたプーリーを見上げ、

一度、二度、長く息を吐き出した。


バラードのスケールを低くなぞり、

声帯をほどよく温めてから、救助用シミュレーターへ向かう。


疲れはまだ少し残っていたけど、

こんな日こそ“いつも通り”を掴まなきゃと思った。


「今日は静かだにゃ〜 こういう日は貴重だにゃん。」

ジェイコアがスクリーンの端にカエル顔を映して、ぱちぱちと瞬きをした。


「ネットワーク監視中……異常なし。」

EEの声はいつも通り乾いていた。

数字と曲線は、感情を閉ざしたまま静かに流れていく。


あたしはヘルメットをかぶり、

仮想災害マップの上に視線を落とした。

海の等高線が呼吸をするように波打つ。


ユニは“心音”を真似するように、低くハミングした。

トク——トク。 トク——トク。


胸から始まったリズムが耳の後ろのパッドへ、

そして壁面のスピーカーへと戻ってくる。


災害も歌も、今は同じシステムの上で響いている。


シミュレーション終了の短い音が鳴った。

「よし。」 あたしはヘルメットを外しながらつぶやいた。

「今日は本当に静かに終わろう。」


そのとき、休憩室のモニターがひとりでに点いた。

白いヘッドラインが弾けるように飛び出した。


次世代スター、DECG支援の新人セイラ——デビュー舞台成功!



鏡の中で泣いてたのは

君の勘違いの始まり

本物はいつも裏側に

見せてあげる まるでマジック



カメラが左右にスイングし、

歌う彼女の顔をいっぱいに映し出した。


きらめく照明、正確なリズム、緻密に計算されたカメラワーク。


歌が始まると同時に、

モニターの隅で波形グラフが自動的に跳ね上がる。


ルカが描いてくれたあの曲線に似ている。

だけど、どこかが微妙に違う。


ユニの耳には、まるでガラス板を指で叩くような

薄い響きが混じっていた。


「声は悪くないけど……心が伝わってこないにゃ。」

ジェイコアが鼻をひくつかせた。


「またDECGがシンボルを作るつもりか。」

カイレンがモニターの前で腕を組んだ。

「今度は“歌う救助”ってわけだな。」


ユニは画面の中のセイラの微笑みを見つめ、

そっと目を伏せた。


その笑顔には、ひび一つなかった。


「……歌が、比べられるものになるのはイヤ。」

ユニは小さくつぶやいた。


自分の声を誰かのものさしにかけられること。

救助を舞台の小道具みたいに消費されること。


どちらも、心のどこかをひっかいていった。


昼ごろになると、ネットワークが熱を帯び始めた。

ファンコミュニティもSNSも、同じ問いでざわめいていた。


「本当の“救助の声”は誰?」

「セイラのほうが洗練されてる。」

「いや、グロリアが現場で人を動かしただろ。」

「DECGの支援を受けててもいいじゃん。結果が大事でしょ。」


コメント欄が息をする間もなく流れていく。


フォロワー数、再生数、高音パートの維持率、

ライブでのブレ幅——数字と体感の戦争が

同時に画面の上で繰り広げられていた。


そしていつの間にか、ひとつのタグが静かに、

だけど確実に浮かび上がっていた。


#SOS


EEがリアルタイム分析を上げた。

「論争拡散指数、上昇。衝突確率82%。」


スクリーンにキーワードマップが花のように広がる。

S、O、S。


横の欄に、誰かが書き込んだ注釈が浮かんだ。


— S = Seira

— O = Or

— S = スクエのグロリア


リオンがソファの背にもたれ、くすくす笑った。

「ハッシュタグのセンス見てよ。

ほんとに救助信号みたいだね、SOS。」


その言葉を聞いて、ユニの心臓が

一拍だけずれたような気がした。


「……ほんとに、救助信号みたい。」


キーボードを叩く手を止め、

あたしは深く息を吸い込んだ。


助けて、という声——

それは誰からのもの? 彼らから? それとも、あたしから?


MOCの会議室に全員が集まった。

スクリーンにはファンダムの熱気、メディアの論調、

そして「比較」という二文字が薄い影のように覆っていた。


カイレンはいつも通り、舵を握る船長のようだった。

質問は短く、言葉の切れも鋭い。


「我々は反応しない。原則通りに動く。」


「はい。」

ルカがスライドをめくる。

「セイラ側の波動データは放送編集版です。信頼性が低い。

ライブのオリジナルデータは存在しません。」


「DECG訓練室の映像を一部入手。」

カナエが口角を上げた。

「骨格はきれいだけど、決定的な瞬間は外部装置のサポートだ。

それを人々は“卓越したプロデュース”と呼ぶだろう。

でも——あたしたちはそれを救助現場に持ち込めない。」


ユニは鏡をのぞくようにスクリーンを見つめ、

隣で目が合ったジェイコアをじろりとにらんだ。


「どうせ、何を言えってわかってるんでしょ。」


「言わなくても察しがいいにゃ。」

ジェイコアがにやっと笑った。

「ただ言えばいいにゃ。“あたしの声と舞台は、あたしが決める”——

それで十分だにゃん。」


「無意味な競争は非効率。」

EEが淡々とまとめた。

「しかし士気向上の可能性あり。

ファンダムの応援エネルギーは現場の安定化にも寄与。」


「回りくどい言い方はいい。結論だけ言え。」

カイレンの声が低く響く。


「現状——無益な衝突回避は有効。

ただし、“望むなら逃げない”というメッセージも有効です。」


夜が降りるころ、

ユニはドレスルームの片隅——長い鏡の前に立っていた。


ライトが一本、また一本と灯り、

顔の陰影を静かに払い落としていく。


あたしの歌は、誰のもの?


問いは、古い鏡の曇りのように残っていた。

けれど今日だけは、

答えを難しく選ばないと決めた。


「……あたしのもの。」


唇が、ほんの少しだけ弧を描いた。

指先がかすかに震え、

それが息といっしょに静まっていった。


ニュースではセイラのインタビューが

遅れて拡散されていた。


「いつか同じステージで、

本物を証明してみせます。」


言葉づかいは丁寧で、表情は挑発的ではなかった。

けれど“証明”という単語だけが、

語尾で硬く光っていた。


数えきれないコメントが、その言葉に群がって揺れた。

「証明しろ」「どけ」「勝負しろ」——。


「いいにゃ、ライブバトルだにゃ!」

ジェイコアが叫んだ。

「ルールはフェアに——テンポ、メトロノーム、ファンコールのキュー、

全部あたしが取るにゃ!」


EE:「ルール設定、妥当。

ただし現場の安全を最優先。」


リオンが首を傾けて言った。

「そんなこと言われたら……正直、燃えるね。俺でも。」


カイレンは腕を組んで窓の外を見ていた。

灰色の海が、薄く滲んで広がっていた。


「俺たちはショーチームじゃない。忘れるな。

基準は安全、目的は救助だ。」


ユニはしばらく黙ってから、椅子を引き寄せて座った。


「もし望まれるなら……逃げるつもりはありません。」


その言葉は、音もなく、

けれど確かに部屋の空気を満たした。


その夜、

部屋の灯りがすっかり落ちても、

あたしはベッドの上にうつ伏せたまま、

モニターの前をさまよっていた。


#SOS——すでにトレンド上位に浮かんでいた。

タグを押すと、無数の声が画面いっぱいに流れ出す。


「セイラは技術的に完成形。」

「グロリアは人を動かした。」

「二人で歌えばいいのに。」

「DECGが金で道を開いたって? ありえない。」

「どっちも好きじゃだめなの?」

「SOS——どうか、わたしたちを争わせないで。」


その最後の一文を見たとき、

ユニは手を離せなかった。


——わたしたちを争わせないで。


それは皮肉じゃなく、

まるでお願いのように見えた。


画面の向こうのどこかで、

誰かが二人の間に立って、

顔を上げて、そう言っているようだった。


お願い——争わせないで。


「……おかしいな。」

ユニは小さくつぶやいた。

「ほんとに、救助信号みたい。」


「なら、応答しなきゃだにゃ。」


ジェイコアが画面の上に小さなアイコンを浮かべた。

SOS受信——応答待機中。


「あ、今じゃないよ。」

ユニは微笑んだ。

「ステージの上で、ちゃんと。ルールを守ってね。」


イヤフォンを耳に差し込み、

夜明けのリズムに合わせて歌詞を直していく。


——助けて、という声。

それは、あたしにも必要な時がある。


文字と文字の間をさまよいながら、

あたしはきらめく言葉ではなく、

やわらかく噛める言葉を選んだ。


歓声よりも、

浜辺の風に乗るような言葉を。


翌朝、

ファンページに新しい動きが生まれた。


誰かは合唱カバーを、

誰かは手話で“心音”の動きを、

誰かは避難誘導の要領をラップにして投稿していた。


「見てみろにゃ。」

ジェイコアが感嘆の声を上げた。

「これこそ本当の波動だにゃ。

人から人へ——伝わっていくにゃ。」


MOCのデータボードには、

昨日とは違う形のグラフが穏やかに揺れていた。


EE:「ポジティブ感情反応、プラス9%。

群衆秩序指数、上昇。

“衝突”キーワード使用頻度、低下。」


カイレンは静かにうなずいた。

「いいな。言葉を使わなくても、できるんだな。」


午後、日が傾きはじめたころ、

DECG訓練室の映像がまた流れた。


セイラはうつむきながら、拍子を細かく刻んでいた。

完璧なルーティン、滑らかな呼吸。

けれど彼女の横には、

いつも一本のケーブルが繋がっていた。

外部装置へ伸びる、細い線。


「チョウチョウ チョーカー ジョーカー

Welcome to 迷宮——」


カナエが映像を拡大した。

「補助装置ね。悪いとは言わないけど……

これじゃ救助現場のノイズには耐えられない。

ステージなら明瞭だけど、災害現場はステージじゃない。」


「みんなわかってるさ。」

リオンが肩をすくめた。

「でも人は“良い”と“正しい”をよく混同する。

気持ちいいものが、正しいもの——そう思いたいんだよ。」


ユニは窓際に立ち、海を見た。

風が薄く、均一に吹いていた。


「“良い”も“正しい”も——

どっちもステージに上がれたらいい。

でも、人を押しのけて登るのは……もう、違うと思う。」


夜になると、

ファンたちが作った応援動画が

タイムラインを埋め尽くした。


画面の片側にはセイラのMV、

もう片側にはグロリアの救助ソングのクリップ。

ときに同じリズムで、

ときにあえてずらしたテンポで交差編集されていた。


字幕は、抗議と歓声のあいだを忙しく行き来していた。


ユニはモニターを消し、静かに灯りを落とした。

部屋の空気が、一気に深く沈んでいく。


ベッドの端に腰を下ろし、

足を布団の中へゆっくり滑り込ませる。


目を閉じる直前、

心の奥に一つの文が浮かんだ。


誰かの戦争のために歌わないこと。

誰かを救うためなら、いつでも。


あたしは枕に顔をうずめ、

ほとんど息のような小さな声でつぶやいた。


「……応答するよ。#SOS。」



夜はさらに深くなった。

熱を帯びた画面は消えたけれど、

ユニの胸の中では波形がまだ動いていた。


小さな脈、浅い呼吸、

そして——あたしに届いた救助信号。


「誰かの戦争のために歌わないこと。

誰かを救うためなら、いつでも。」


ユニはゆっくりと鏡の前へ歩いた。

光さえ眠る部屋の中で、

指先にだけ小さな鼓動が残っていた。


ドクン——ドクン。

ドクン、ドクン……。


その音をたどって、

つま先からやわらかな光が昇っていく。


心臓の周波数が、自ら“形”をつくっていく。

何も、無理に身につけない。

どんな装飾も、他人の意図ではない。


ジェイコアが感嘆の息を漏らし、

独り言のようにささやいた。


「#SOS、受信。……応答準備完了だにゃ。」


目を開けたユニは、もう揺れていなかった。

再びグロリアになった——

でも今度は、誰かのためじゃなく、“あたし”のために。


その瞬間、

端末の画面にメッセージが届いた。


「いっしょに救助ソングを歌えますか?」


名前は表示されていなかったけれど、

その文は優しく、そして少しだけ慎重だった。


ユニは指を伸ばし、

一文字ずつ、ゆっくりと打ち込んだ。


「いっしょに——から始めよう。」


光がゆっくりと消えていく。

変身は終わった。


けれど波動はまだ、

あたしの胸の奥で鳴り続けていた。


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