「7話 – 空を翔る」
ウルルルル——ガァンッ!
暗闇が昼のように閃き、すぐに再び押し潰される夜。意味もなくつけっぱなしにしたモニターには気象速報が途切れなく更新されていた。
「異常潮流再発。沿岸高台への避難勧告。」
小さな文字が画面の隅で赤く点滅している。
ユニはヘッドフォンをしたまま、コメントと警報を交互に眺めていた。窓枠を削る風の音がイヤホンを通じて耳の裏をくすぐった、その時——
ドンドンドン!
扉を叩く音にようやく気づいたユニは、驚いてベッドからゴロンと転がり、床にドスンと着地した。正しくは「転げ落ちた」というべきだろう。
我慢できない様子でノックを続ける扉を開けると、雨に濡れた書類が彼女の腕にどっさりと押し付けられた。その束の中に挟まっていたカラーのパンフレットがユニの目を惹いた。
『市民救助ボランティアプログラム ― 避難案内リーダー養成 / VR現場シミュレーション付き』
「VR……歌まで入ってるの?」
彼女がつぶやくと、ホログラムのカエルが肩の上にぴょんと跳ね上がった。
「データだけじゃ足りないにゃん! 本物は風と正面からぶつからなきゃ分からないにゃん!」
EEがふわりと宙に一回転し、モニターに気象ベクトルを重ねて映し出した。波の流れは絡まった糸玉のようにねじれていた。
「異常潮流再発。波周期と方向、前回より強大。」
「海風がおかしいにゃん……何か来るにゃん。」
そんな取りとめのない会話の最中、無線が開き、カイレンの声が部屋を硬く満たした。
「全員、高台へ移動。リオン、埠頭を確認しろ。」
ユニは腕いっぱいの書類を布団の上に乱暴に投げ捨てた。
「私は?」
「市民の案内だ。埠頭周辺の住民が避難できていない可能性がある。家々を回って確認しろ。」
散らばった書類の中からユニはパンフレットを拾い上げ、二つ折りにしてポケットへ突っ込むと、壁にかけてあったレインジャケットを掴んで羽織り、帽子を深くかぶった。
――同時刻、MOC状況室。
数十枚のパネルが一斉に赤く点滅する。
ソラが数十のモニター前に座り、猛スピードで流れ込む情報を処理していた。
「全体モニタリングモード起動。全周波数監視開始!」
椅子に寄りかかりすぎて、目と腕だけが机の上からのぞいているハルトが口を尖らせる。
「撹乱信号を検知。データ干渉率、平時より高い……」
隣でお構いなしに、メイはコントローラーを握り潰す勢いで叫んだ。
「映像レイヤーが壊れます! 海流データと衝突してる!」
青い光の下、MOCの空気は嵐の前の海のように張りつめていた。
その緊張はまっすぐ、宿舎へ、埠頭へ――皆の耳と目へ伝えられようとしていた。
♪♪♪
群青の海に囲まれた沿岸道路は、湿った鉄の匂いと濡れた砂の匂いで満ちていた。SeaComのドローンが空を切り裂き、路地の座標を打つ。
「B-5ブロック、点灯。人影あり。」
ユニは戸を叩き、窓を叩きながら短く叫ぶ。
「避難案内です! 高台へ!」
獣人の老夫婦は尾を絡め合うように手を取り、ついてきた。
戦闘系の若者二人は埠頭の柱下に降り、仮設の支柱をはめ込んだ。それぞれの身体と習慣で、それぞれの重みを差し出し、日常を守ろうとしていた。
太い雨粒が横殴りに降り注ぎ、水平線が不気味にせり上がった。
ユニの視線はその向こうに釘付けになった。
遠くに黒い線が生まれる。やがて線は壁となり、壁は空を覆う障壁となった。
――津波だった。
EE: 「到達予想、4分20秒。」
カイレン: 「リオン、行けるか。」
リオンの笑みが無線をかすめた。
「当然。空を飛ぶのは専門ですから。」
♪
VF-578《ウソダ》が弓のように跳ね上がった。エンジン音が雨を裂き、海面と翼の間隔はわずか一握りで上下する。
「ウソダ、海上ダンス開始〜!」
「冗談はそこまでだ。命優先。」
「了解。コース進入。」
埠頭の鉄骨構造物が目の前で巨大な格子模様に拡大したり縮んだり。ウソダはその隙間を、まるで針に糸を通すように突き抜けていく。
髪をかき上げながら、ユニは思わず息を止めた。
「本当に……飛んでるんだ。」
沖の小型フェリーと二隻の漁船が波に閉じ込められていた。波が船体を叩き潰そうとしたその瞬間、ウソダが頭上に救助モジュールを投下。膨らんだエアホイストが安定した輪を作る。
「フック固定。テンション維持。上げるぞ。」
海面から長く引き上げられたラインが張ったり緩んだり。乗客が一人、二人と宙に引き上げられ、埠頭の上のSeaOpsチームが受け取った。
マリサが叫ぶ。
「こっち! リズム合わせて! いち、に!」
♪
ユニは埠頭スピーカーネットに接続されたマイクを握った。指先は冷たいが、喉は温かかった。
EE: 「スピーカーネット接続完了。周波数安定化中。」
ジェイコア: 「起動準備はいいにゃん?」
返事はなかった。ユニは雨に濡れた指先で胸元のリーダーコアを押した。
ピィィィィィ――低い振動音が胸の奥から広がる。
その振動が神経網を駆け抜けた瞬間、視界に短いオーバーレイが浮かんだ。
[Pulse Sync Start]
[グロリア起動 – コード GR-0.1A]
[モジュール構成中……98%……完了]
背中から薄いパルスウィングが立ち上がり、イヤマイク、送信装置、共鳴インターフェイスが一斉に稼働する。
起動音は風に溶け、音楽のように広がった。
その中心に立つユニは目を閉じる。
雨は降り続いていた。
だが彼女の内部では今――
「機械と生体の共鳴」が調律されていた。
指先の共鳴リングがビリビリ震える。
心臓は鼓動を越え、旋律を生み出す器官となった。
「準備完了だにゃん、ジェイ!」
「いいにゃん! グロリア、変身完了だにゃん! 放送網接続オールグリーンだにゃん!」
EE: 「周波数安定。ノイズ抑制。」
――地平線を揺さぶる風
――炎はまだ燃えているか
グロリアは唇を一度閉じ、そして開いた。翼を広げるイメージを描く。別れを告げる代わりに、道を作る。空へと通じる道を。
――震えながら世界の入口に立つ
その声は雨の帳を切り裂いた。言葉と歌の境界で、旋律は鞭ではなく橋となるように。
「今から――一緒に翼を広げにゃん。
前列は中央通路へ――青い光が見えるにゃん。
子供とお年寄りは先に。手を離さないで。
後方は二歩下がって、呼吸を合わせて――いいにゃん、そのまま。」
SeaOpsのエアリーブリッジが「シャァッ」と展開し、埠頭と仮設防壁を繋いだ。薄い透明パネルが波間に浮かぶように足元で淡く光る。
人々は音楽のリズムに合わせてその上を渡っていった。歌の翼を踏みしめるように。
EE: 「避難速度15%上昇。心理安定指標良好。」
ジェイコア: 「いいにゃん! 矢印に従うにゃん――左、中央、後ろ!」
リオン: 「いいぞ、このペースなら全員救える!」
小型フェリーから最後の乗客がホイストに掴まった。風向きが変わり、すぐさま波の峰が頭をもたげる。ウソダは巨大な黒い掌のわずか一歩先を飛び越えるように跳んだ。
グロリアは長く息を吐き、最後の句を重ねた。
それは別れの翼ではなく、生きるための翼の形。
――サヨナラノツバサ
風がその形を理解したかのように、人々の肩が一拍落ち着いた。
♪
津波はついに埠頭を呑み込んだ。だがその直前――
「捕まえた!」
ウソダが最後の漁船のマストをかすかに持ち上げ、波の牙が届く寸前に上昇した。水壁の白い塹壕が機体の腹を舐めて過ぎた。飛沫がキャノピーに星屑のように突き刺さり、消えた。
グロリアは顔を上げた。その瞬間、ウソダは本当に――
「……空を裂いてるにゃん。」
彼女の囁きが風に溶けた。〈空を翔る〉――今日の空と今日の命を真っ直ぐに分ける線。
波が埠頭下をさらって引き返す時、防壁の向こうの人々はすでに互いの手を強く握っていた。
エアリーブリッジは波間で翼の縁のように揺れたが、決して切れなかった。
♪
黒い空と波が鎮まり、サイレンが止むと、静かな波が打ち寄せる音だけが残った。海の呼吸が浅く戻る。
EE: 「市民全員救助完了。残余リスクなし。」
カイレンは顔を上げた。ウソダが澄んだエンジン音を残し、上空で一回旋回した。
「良い飛行だった。」
コックピットから、茶目っ気のあるリオンの声が降りてきた。
「次はユニも一緒に飛ぼう!」
ユニは濡れた前髪を耳にかけながら微笑んだ。
「そんな……勇気、出るかな。」
「怖くて泣いても知らないぞ?」
「じゃあ、泣きながら歌います。」
ジェイコアがガラスの欄干にぺたっと張り付きながら叫んだ。
「嫌だにゃん! 怖いにゃん! 猫と翼は友達じゃないにゃん!」
人々の間にクスクス笑いが広がった。緊張が解けると、雨脚さえ軽やかに見えた。
ユニは片手でマイクを下ろし、もう片手でポケットのパンフレットをいじった。『VR現場シミュレーション ― 空中救助基礎』。
彼女はもう一度、海の向こうの水平線を見た。さっきの壁は消え、代わりに切り取られた紙のように細い光の帯が長く横たわっていた。
いつか、本当に――一緒に飛ぶのも悪くないかもしれない。
けれど今は、地上でやるべきことがまだ多い。戸を叩き、手を引き、歌の道を敷くこと。翼は空だけにあるわけじゃない。
風が濡れた髪を撫でていった。ユニはごく短くささやいた。
「……いい日だ。」
灯りの消えた暗い雲の隙間に、細い裂け目が開いた。そこは確かに、空だった。
そしてその上を――誰かがもう一度、空を裂くように駆けていった。
ギィ……と扉が開いた瞬間、
ユニを迎えたのは温かな休息ではなく、散らかり放題の書類の山だった。
「……な、なにこれ。」
さっき埠頭へ飛び出す前に投げ散らしたあの書類たちだった。
VR体験プログラムのパンフ、市民案内の資料、避難要領のプリント、そしてEEがプリントアウトして持たせた数値グラフまで。
どれも雨に濡れて乾き、妙に固まったり折れ曲がったりしていた。
ユニは一枚を手に取った。角がカチカチに固まっている。
『市民救助ボランティアプログラム ― VR現場シミュレーション付き』
「……まだVR? 本気でやれってこと?」
ぶつぶつ言いながら他の書類をまとめていると、ふと思い出した。
「あれ、これ私が投げたんじゃ……」
自己否定のコメディそのものだ。ユニはドサッとその場に座り込んだ。
しばらく現実逃避のようにぼんやりしたあと、習慣のように机の端末を起動した。
画面の上には大きな赤い通知が浮かんでいた。
『新曲: Prologue – Asren』
ユニの目が丸くなった。
次の瞬間、光の速さでモニターを抱え込むように揺さぶり始めた。
「アスレンが……新曲!?」
大騒ぎしながら画面に飛び込もうとした瞬間、イヤホンのコードが足に絡まり、ゴロンと転がって机の角に頭をぶつけた。
「いったぁぁぁ——!!」
ホログラムのジェイコアがぴょんと飛び出し、ゲラゲラ笑った。
「いいにゃん、頭からデビュー曲鑑賞だにゃん!」
ユニは額をさすりながら、すぐさま動画をクリックした。
暗い画面の中、アスレンの低い声が流れ出す。
「最期のコーダが 響いてるんだ」
「……うわぁぁぁぁ——ほんとに新曲だ!?」
「紙! 紙! ペン!!!!」
指先が震えながら、ノートに歌詞を書き写しはじめた。
「これ……私にも歌えってことだよね?」
呟きは完全にファンそのもの。
ジェイコアが腕を組んでうなずいた。
「そうだにゃん! アスレンが歌うなら、ユニも歌わなきゃにゃん。ファン心コーラだにゃん!」
EEは冷ややかに補足する。
「統計的根拠なし。しかし相関確率78%。」
「ほんとに!?」
「……。」
EEは無機質なグラフだけを画面に映した。
ユニはため息をつきながらも、曲を五回もリピートし、ノートに書き込みを続けた。
そして別のタブを開いた。
――隠しファンアカウント。
ID: Gloria_luv_1029_sub
「アスレン天才ㅠㅠ」「コーダとプロローグが繋がるなんて本当!?」
リツイート連打。
そこへ見慣れぬ投稿が流れてきた。
『グロリア変身直撮り.gif』
画面いっぱいに自分の顔。
「うわぁぁぁぁぁ——!!!! これ私じゃない!? ……いや私だよ!?」
机に顔を埋めてジタバタ転がるユニ。
ジェイコアは涼しい顔。
「ファンが切り抜き作る速さ、救助速度より早いにゃん。」
EE: 「ネットワーク遅延0.01秒。リアルタイム編集推定。」
ユニ: 「そっちの方が怖いんだけど!!」
そのとき。
ジェイコアが端末の上で何かを“ポチッ”と押した。
[アップロード中… 23%]
「ちょ、何したにゃん!?」
「リハ用ボーカルファイルをテスト送信しただけだにゃん〜♪」
「なにいいいい!?」
ピコン! 画面が自動で ライブ配信モード に切り替わった。
コメント欄が爆発。
— 「ユニの自作曲だ!!」
— 「神曲キタ!」
— 「泣きながら聴いてるㅠㅠ」
EE: 「聴取率342%増加。ログ蓄積中。」
ジェイコア: 「コメント500突破だにゃん!」
「えっ!? 私まだ何も上げてないのに!?」
慌てて椅子から立ち上がり――再び後ろに転がり落ちた。
ドンッ!
「いったぁぁぁ——!!!」
コメントは止まらない。
— 「転んだ音まで配信されてるww」
— 「Gloria可愛いwww」
「うわぁぁぁ——!! 切ってよ!!」
ジェイコアはケラケラ笑いながら尻尾を振った。
「いいにゃん、生の笑いまでファンサだにゃん!」
ユニは両手で顔を覆った。自動再生中の動画から、リオンの声が流れる。
『次はユニも一緒に飛ぼう!』
「サヨナラノツバサ歌いながら空飛ぶって……私にできるの?」
でも目はキラキラして、手を広げて空を想像する。
ジェイコア: 「当たり前だにゃん! 翼は心にあるにゃん!」
……なのに、EEが空気をぶった切った。
「既にグロリア起動コスチュームには飛行補助機能内蔵。Lock解除だけで飛行可能。」
「……え? ボタン押したら飛べたの!?」
バタン! また椅子から転がり落ちるユニ。
「ぎゃああああ!!!」
コメント欄も同時に大爆発。
— 「草草草草草」
— 「飛べるやんwww」
— 「サヨナラノツバサ=ボタン一個」
EE: 「解除手順簡単。確認→Yes。」
ジェイコアは寝転びながらポップコーンをつまむ真似をした。
「これで決まりにゃん。空飛ぶアイドル、ボタン一つで誕生だにゃん!」
ユニは床に寝転んだまま絶叫。
「こんなの……私だけ知らなかったの!?」
でもコメントはまだ流れ続ける。
— 「泣きながら笑ってるwww」
— 「Gloria最高!」
— 「もっと飛んで!」
ユニはついに吹き出した。
「……もういいや。泣きながらでも歌うから。」
ジェイコアはホログラムの手でパチパチ拍手。
EEは「データバックアップ完了」とだけ冷静に告げた。
そしてファンたちは、新たな“ミーム”を手に入れた。
―― 「グロリア、ボタン一つで空を飛ぶ」
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